2017年2月18日土曜日

WYDクラクフ2016 祈りの徹夜祭にて



大好きな青年の皆さん、こんばんは。

この祈りの徹夜祭に皆さんと一緒にいられるのはすばらしい。

勇気ある感動的な証しを終えるにあたって、ランドが私たちに何かをお願いしていました。「私の愛する祖国のために祈ってください、どうかお願いします」と言っていました。戦争、痛み、喪失に刻まれたお話でしたが、それは一つのお願いで締めくくられました。祈りのお願いです。私たちの徹夜祭を祈りで始めるほど良いことはありませんね。

世界のいろいろな場所、国、言語、文化、色々違う町から私たちはやってきました。戦争を含め、様々な種類の対立のために戦いと向き合っている国に生まれた「子どもたち」もいるでしょう。あるいは、「平和」に暮らせる国にいて、戦争のような対立はなく、痛みに満ちた物事はニュースや新聞で見受けられるくらいしかない国から来た人もいるでしょう。

でも一つの現実を意識していてください。今日、ここに、世界のいろんなところからやってきた私たちにとって、多くの青年たちが体験している戦争は、無名のものでは終わらない、ということを。私たちにとって、それは新聞のニュースでは終わりません。名前があります。顔があります。歩みがあります。近さがあります。

今日、シリアでの戦争は、ここで私たちの間にいて愛する祖国のために祈って欲しいと私たちに頼んでいる勇気あるランドのような多くの青年たち、多くの人々の痛みと苦しみなのです。

ある意味で触れられるほどにはない、遠い出来事のような状況が存在します。携帯やPCの画面を通してしか見ないので理解できない現実があります。

でも命に、こうした具体的ないのちに触れるとき、それはもはや画面というメディア媒体化されたものではなくなり、なにか重要なことになります。全員が関わるように呼び掛けられていると感じます。「忘れられた町がもうこれ以上ないように」、ランドが言ってくれたことです。誰も助けてくれないと感じながら「死と殺りくに囲まれた」兄弟たちがいるなどあり得てはならないのです。

大好きな友の皆さん、戦争、世界に今あるこうした戦争の結果である、苦しむ多くの犠牲者たちのために祈りましょう。愛するシリアや世界の他の場所の多くの家族のために祈りましょう。兄弟の血を流すことを正当化することは何もないこと、隣にいる人がどれほど価値があるかをすぐにしっかりと理解することができますように。この祈りのお願いの中で、ナタリアとミゲルにも感謝したいと思います。君たちも自分の闘い、内なる戦いについて分かち合ってくれたからです。わたしたちにその戦いを示し、それをどう乗り越えてきたかを話してくれました。それは私たちの間であるべきいつくしみの生きたしるしです。

だれに対しても今は声を上げません。喧嘩をするわけではありません。壊したいわけでもありません。中傷したいわけでもありません。わたしたちは憎しみに対してさらなる憎しみで、暴力に対してさらなる暴力で、恐怖に対してさらなる恐怖で上回りたいわけではないのです。私たちが今日ここにいるのは、主がわたしたちに呼び掛けてくださったからです。そして戦争のあるこの世界への私たちの応えには名前があります。それは兄弟愛と呼ばれます、兄弟であることと呼ばれます、交わりと呼ばれます、家族と呼ばれます。

様々な文化背景から来ていることを祝い、祈るために一つになりましょう。わたしたちの最高の言葉、最高の演説が、祈りにおいて一つになる、という行為でありますように。短い沈黙をして祈りましょう。神の前に今聞いた友達の証しを差し出しましょう。「家族が存在しない概念になり、家がただ寝て食べる場所になってしまっている」人々や、自分の失敗や罪が自分を決定的に枠の外に追いやってしまったと信じる恐れを体験している人々の現実に私たちの身を置きましょう。そして皆さんの「戦い」、わたしたちの闘い、一人ひとりの闘いを自分の心の奥底、わたしたちの神の現存の中でとらえましょう。このために、家族としているために、立って、手を取り合い、沈黙のうちに祈りましょう、みんなで。

(沈黙の祈り)

祈っている間に、私の脳裏に聖霊降臨の日の使徒たちのイメージがわきました。私たちの生活の中で、わたしたちの中で、わたしたちとともに神が実現したいと夢見たことすべてを理解するのに役立つ場面です。あの日、弟子たちは恐れで閉じこもっていました。自分たちを迫害してくるだろうという脅威におびえ、小さな部屋にかたまり、静かに動けずにいました。恐れが弟子たちを支配していたのです。その文脈の中で、何かものすごいこと、壮大なことが起こりました。聖霊が来て、炎のような舌が一人ひとりの上に留まり、それまで夢見たこともないような冒険へと弟子たちを駆り立てたのです。物事というのはそのように変わるのです。

今三つの証しを聞きました。わたしたちは心で彼らの歩み、彼らの命に触れました。わたしたちは、弟子たちと似たような時、怖れに満ちた時、すべてが崩壊するかのように見える時を彼らがどのように体験したかを見ました。家を出たらもう二度と愛する人々に会えなくなるかもしれないと分かることから生まれる恐れや不安、認められも求められもしないと感じることから来る怖れ、ほかの機会がないことからくる恐れ。

三人は弟子たちが体験したのと同じ体験をわたしたちに分かち合ってくれました。恐れはある一か所にしか私達を連れて行かないのですが、それを体験しました。恐れは私達をどこに導くのでしょうか。閉鎖です。そして恐れが閉鎖へとわたしたちを閉じ込める時、いつもその「双子」が伴います。それは麻痺です。動けないと感じるのです。この世界の中で、自分の町で、自分の共同体で、もう成長したり夢見たり、創造したり地平線を眺めたり、つまりは生きるためのスペースがないと感じることは、人生の中、とりわけ青年期に介入し得る最悪のことです。麻痺は出会いや友情を味わう魅力、共に夢見、他者と共に歩む魅力を失わせていきます。わたしたちを周りの人から遠ざけ、手を広げるのを妨げます。みんなで見てきたように、内側のその場所に閉じこもるのです。

けれど人生には青年たちにとってはもっと危険な麻痺がまだあります。それはたいがいどういうものか見定めることが困難なもので、なかなか見つけられないものです。わたしはその麻痺を「幸せ」を「ソファー」と取り違える時に生まれるものと呼ぶのが好きです。そうです、それは幸せになるためにいいソファーが必要だと思うことです。私たちが居心地よく落ち着いて、安心していられるように役立つソファー。最近は安眠マッサージ機能付きのソファーもありますが、ゲームの世界に移動させ、コンピューターの前で何時間も過ごすためのおだやかな時間を保証するソファーです。

あらゆる痛みや恐れと正反対のソファー。辛い思いも心配もせずに家の中に閉じこもらせるソファー。「ソファーの幸福」は、恐らくじわじわと青年期に最大の害をもたらすものです。神父さん、どうしてそんなことが起こるんですかときくでしょう。なぜなら、少しずつ、気づかないうちに、眠りこけ、とろくなり、阿呆になっていくからです。先日は、20歳で定年退職を迎える青年のたとえをしました。今日は眠りこけ、とろくなり、阿呆になる青年の話をしましょう。

一方で、他人が‐たぶんいちばん姑息だけれど、一番良いわけではない他者が‐、わたしたちの将来を決めていきます。当然、多くの人にとって、幸せをソファーと取り違えているとろくて阿呆な青年たちを抱えていた方が簡単で利益にもなります。けれど、神の夢や心に湧き上がる大志に応えながら目覚め、そわそわしている青年たちを抱える方がよりよいと思える人もたくさんいます。

皆さんに質問したい。皆さんは眠りこけ、とろく、阿呆な青年になりたいですか? 皆さんの将来を他人に決めてもらいたいですか? 自由でありたいですか? 将来のために奮闘したいですか? あんまり自信がなさそうですね。 自分の将来のために奮闘したいですか?(青年たち「はい!」)

真実は別のところにあるのです。大好きな青年たち、私たちがこの世に来たのは「植物状態になる」ためではありません。居心地よくときを過ごし、わたしたちを眠り込ませるソファー人生とするためではないのです。その逆で、わたしたちは別の目的で来ているのです。足跡を残すために来ているのです。何の足跡も残さずに人生の時を過ごすのはとても悲しいことです。けれど、居心地の良さを選択するとき、幸せを消費と取り違える時、そこでの支払いはとても、それにしてもとても大きなものになります。自由を失うのです。私たちが足跡を残すために自由はなくなり、自由を失います。これが支払い額です。青年たちが自由ではなく、阿呆で、とろく、眠りこけ続けるのを望む人々がたくさんいるのです。こんなことは本気でありえない。私たちの自由を守らなければならない。

それこそがまさに強大な麻痺なのです。幸せを居心地の良さの同義語だ、幸せになるというのは眠ったまま、あるいは麻酔状態で人生を過ごすことだ、幸せになる唯一の方法はとろく進むことだ、と考え始める時にそこにある麻痺です。もちろん麻薬は命によくありません。けれど社会的に認められ、わたしたちを多かれ少なかれ奴隷状態に陥らせる別の麻薬があるのです。どのようなものであれわたしたちの一番よいもの、自由をはぎ取るものがあるのです。それらは自由をはぎ取るのです。

友である皆さん、イエスはリスクの主です。いつも「更なる向こう側」の主です。イエスは快適の主ではありません。安心や居心地の良さの主ではないのです。イエスに従うためには、勇気の分け前が必要です。ソファーを質に出して今まで夢見たことも考えたこともない道、神の愛から生まれる喜び、いつくしみの行為や態度一つ一つをあなたの心に残す喜び、そういった喜びを伝染させることのできる新しい地平を切り開く道、を歩むのに役立つ靴に交換するように、やる気を出さなければなりません。

わたしたちの神の「愚かさ」に続く道を行くことは、空腹の人、飢え渇く人、裸の人、病気の人、不幸に見舞われた友人、刑務所にいる人、避難民、移民、孤独な近所の人の中で神に出会うようにとわたしたちに教えます。より連帯意識に満ちた経済について考えるようにと促す政治の主役、社会を動かそうと考える人になるようにとわたしたちを招くわたしたちの神の道を行くこと。皆さんが直面するあらゆる環境で、その神の愛はわたしたちが福音をもたらし、自分の生き方神と他者献身するようにと招きます、これこそ勇気があるということです。これこそ自由であるということです。

「神父さん、でもそれって全員のことじゃなくって、選ばれた何人かのことですよ」と私に言ってくるかもしれません。そうですね、その通りです。ですがこの選ばれた人たちが自分の命を他者と分かち合う心構えを持っていてほしいものです。聖霊が聖霊降臨の日に麻痺していた弟子たちの心を変容させたのと同じように、今日体験の証しを分かち合ってくれたわたしたちの友達にも同じことをしてくれました。

君の言葉を使わせてもらうよ、ミゲル。君は、ファチェンダ(大土地農場)で家がよりよく機能するのを助ける責任を任された日に、神が君に求めていることを理解し始めたんだと私たちに話してくれたよね。そうやって変容が始まったんだ。

これが、大好きな友達の皆さん、みんなが体験するようにと呼ばれている秘訣なんです。神さまはあなたに何かを期待しているんです。みんなわかりましたか?神さまは君に何かを求めている。神さまはあなたに何かを期待している。神さまは私たちの禁域を壊すために来ます。神さまは私たちの命、私たちの展望、私たちの眼差しの扉を開けに来るのです。神さまは君を閉じ込めるものすべてを開きに来るのです。神さまは君が夢を描くように招いています。神さまはあなたと一緒なら世界は今と違ったものになりうるということをあなたに見せたいのです。そうです、もし君が君の一番のものを提供したら、世界は今と違うものになるんです。これは挑戦です。

今わたしたちが過ごしている時代は、ソファー青年ではなくて、靴を履いた青年、いやむしろ、選手のスパイクを必要としているのです。この時代はフィールドでの選手だけが必要で、補欠のスペースはありません。今日の世界は皆さんに歴史の主役になるようにと求めているのです。なぜなら人生は、わたしたちがこれを生きようと望むならいつでも美しい、足跡を残したいと望むならいつでも美しいからです。

今日のお話は私たちの尊厳を守り、私たちの将来を他人が決めるままにしないようにと求めています。ダメです。私たちは自分の将来を決めなければなりません。皆さんは皆さんの将来を。主は、聖霊降臨の時と同じように、体験し得る最大の奇跡の一つを実現したいと望んでいます。それは君の両手、私の両手、私たちの両手が和解のしるし、交わりのしるし、創造のしるしへと変容することです。神さまは今日の世界を建設し続けるために君の両手を必要としているのです。神さまは君と一緒に世界を建設したがっている。君は、なんて答えますか?なんと答えるのですか、はい、ですか、いいえ、ですか?

「神父さん、でも私の力はとても限られています。私は罪びとです。何ができるでしょう」と言うかもしれませんね。主が私たちを呼び掛ける時は、私たちが今どんな人物なのかとか、これまでどういう人物だったか、過去に何をしてきたか、何をせずに来たかについては考えません。その反対です。主は、私たちに声をかけるその瞬間、私たちがこれから提供しうるすべてのもの、人に伝染させられるような愛すべてを見ています。主が期待しているのはいつも将来のこと、明日のことなのです。イエスは、あなたを地平へと送り出すであって、決して博物館送りにすることはないのです。

だから、友達のみなさん、今日イエスはあなたを招いています。あなたが人生に自分の足跡、歴史を刻む足跡、あなたの歴史と多くの人々の歴史に刻む足跡を残すようにと呼び掛けています。今日の生き方は私たちが互いを分裂させること、別れさせることに目を向ける方がずっと簡単だと語っています。自分に閉じこもるのが私たちに悪をもたらすことから自分を守るための最善の方法だと思い込ませようとしています。今日、私たち大人は、私を含め、大人たちは皆さんを必要としています。今皆さんがしているように、多様性の中、対話の中、多文化性を分かち合う中で共に生きることを、脅威ではなく一つのチャンスであるとすることを私たちに教えてくれる皆さんを必要としています。皆さんは未来に対する一つのチャンスなのです。壁を築き上げるよりも橋を建設する方がより簡単だということを私たち大人に教える勇気を持ってください。私たち大人はこのことを学ぶ必要があるのです。

そうやってみんなで一緒に、強いて兄弟愛の道に移行できるように願いましょう。もし私たち大人が壁や敵意、戦争の生き方を選ぼうものなら皆さんが私たち大人の告発者であってください。橋を建設すること。最初に建設するべき橋は何だか知っていますか? それは今、ここで作ることのできる橋です。手を伸ばしてごらんなさい。手を取り合って。さぁ、さぁ、今やってごらんなさい、人間の橋を造りましょう。手を差し出して。皆さん、全員。その最初の橋です。人間の最初でモデルとなる橋です。

一日中ずっと手を広げたままでいるのはリスクにさらされた状態です。けれど人生において、リスクにさらされるのは必須です。身をリスクにさらさない人は何も得ません。この橋で前進しましょう。この最初の橋で。手を伸ばしてください。

ありがとう。大きな兄弟愛の橋。この世界の大人たちがこの橋を作ることを学んでくれますように。でもそれは写真撮影のためではないですよ。あれは握手しますけど、別のことをやってます。いつも前より大きな橋を建設し続けるためです。この人間で造られた橋が他の多くの人にとって種となりますように。そうすればこれが足跡になるでしょう。

今日、道であるイエスは、君に、あなたに、あなたに、君に呼び掛け、歴史に自分の足跡を残すように声をかけています。命であるイエスは、あなたの歴史と他の多くの人々の歴史を命で満たすような足跡を残すようにと招いています。真理であるイエスは、不和や分裂、無意味の歩みから離れるようにと招いています。分かりました? 皆さん分かりましたか? 今どう応えますか? 分かりましたか? 道、真理、命である主にあなたの両手両足を見せてほしい。

皆さんの夢を主が祝福してくださいますように。ありがとう。

WYDクラクフ2016 十字架の道行きにて



「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた。』 (Mt 25,35-36).

 このイエスの言葉はしばしば私達の脳裏や心にこだまする「神はどこにいるのか」という問いに答えています。世界には悪があるのに、人々が飢餓に苦しんでいるのに、家がない人がいるのに、逃亡生活しているのに、逃げ込む先を探しているのに、神はどこにいるのか。無垢な人が暴行やテロ、戦争で死ぬとき、神はどこにいるのか。ひどい病が命のつながりや愛情を破壊するときに、神はどこにいるのか。子どもたちが人身売買に回されたり、辱めを受けたり、あるいはひどい病理に苦しんでいる時、神はどこにいるのか。疑いのある人や苦悩する魂を抱える人のやるせなさを前に、神はどこにいるのか。人間的な答えの見つからない問いがあります。そこではイエスを見つめ、イエスに問い掛ける以外有りません。そしてイエスの答えはこれです。「神はその人たちと共にいる」。イエスは彼らと共にいて、彼らの内で苦しみ、その一人ひとりと深く自分を重ねているのです。イエスは「たった一つの体」ともいえるようなものを形作るほどに彼らと一つになっているのです。
 イエス自身、自分をこうした苦悩する兄弟姉妹の一人とみなすことを選び、カルワリオへと導く痛みに満ちた道を進むことを受け入れました。イエスは、十字架上で死にゆきながら、御父の御手に自らをゆだね、行いの伴う愛をもって、裸や飢え、渇き、孤独、痛み、あらゆる時代の男女の死を背負いました。この午後のひとときに、イエスが、そしてイエスと共に私達が、戦争から逃げてきたシリアの兄弟たちを特別な愛をもって抱擁します。彼らに兄弟愛と共感を持ってあいさつし、受け入れます。
 イエスの十字架の道をたどりながら、わたしたちは14の憐れみのわざを通してイエスの型に自分たちを当てはめていくことの重要性を再発見しました。これらのわざはわたしたちが神のいつくしみに自らを開き、いつくしみなくして何もなされえないこと、そう、いつくしみなくしてはわたしも、あなたも、わたしたちすべてが何も出来ないことを理解する恵みを求めることが出来るようにしてくれます。最初に身体的な慈しみのわざを七つ見ましょう。飢えた人に食べさせること、渇いた人にのませること、旅人を迎え入れること、病人の側にいること、刑務所にいる人を訪問すること、死者を弔うことです。こうしたことをわたしたちはただで受けたのだから、ただで与えなければならないのです。わたしたちは疎外された人すべての中で十字架に架けられているイエスに仕え、除外されている人、飢え渇き、裸で、刑務所に入れられ、病み、雇用がなく、迫害され、逃亡中で、移民となっている人のうちにおられるイエスの祝福に満ちた肉体に触れるようにと呼ばれています。そこで私達の神に出会い、そこで主に触れるのです。イエス自身このことをわたしたちに語り、わたしたちが裁かれることとなるその「規定事項」を説明します。こうしたことをわたしたちの兄弟のうち最も小さな者にすることは、これを主と共に行うのです(マタイ2531-46節参照)。
 身体的ないつくしみのわざの後に、霊的なわざがきます。助言を必要な人に助言し、物を知らない人に教え、過ちのある人を正し、悲しむ人を慰め、されたことをゆるし、忍耐をもって厄介な人に耐え、生者と死者のために神に願い求めるように。わたしたちのキリスト者としての信ぴょう性は身体的に傷ついている疎外されている人々や、魂において傷ついている罪人の受け入れ方に依拠します。それは概念的にではありません。
 今日、人類は男女、特に皆さんのような青年たち、「中途半端な」生き方をしたがらない、わたしたちの救いのためにささげ尽くしたキリストに模して、最も貧しく弱い兄弟たちに寛大に奉仕するために自分の人生を捧げる心構えのある青年たちを必要としています。
 悪や苦しみ、罪を前にして、イエスの弟子にとっての唯一の応答の可能性は、キリストに倣って命をも含め自分自身をささげることにしかありません。これが奉仕の姿勢です。もし自分はキリスト者であると言っている人が人の役に立つために生きるのではないなら生きること自体役に立たないものになるのです。自分の命でイエス・キリストを否むことになるのです。
 愛する青年の皆さん、今夜、主は皆さんが奉仕の主役となるようにと改めて皆さんを招いています。皆さんを人類の窮乏と苦しみに対する具体的な答えとなるようにと望んでおられます。皆さんがわたしたちの生活する現代にとっての慈しみに満ちたその愛のしるしとなるようにと望んでおられるのです。
 この使命を果たすために、主は個人的な献身、自己犠牲の生き方を示しておられます。それは十字架の道です。十字架の道は、しばしば日々の生活の劇的な状況において、最後までキリストに従う幸福の道です。それは失敗や孤立、孤独を怖れない道です。人の心をキリストのあふれる程の豊かさで満たすからです。十字架の道は命の道、神のあり方の道であり、イエスがしばしば分裂し不正や汚職に満ちた社会の小道をも通っていくようにと命じておられるその道です。
 十字架の道は自虐的な道でも他者を苦しめて喜ぶ道でもありません。十字架の道は罪や悪、死に打ち勝つ唯一の道です。新しく満たされたいのちへの地平を開くキリストの復活の輝かしい光に流れ込んでいく道だからです。それは希望と未来の道です。信仰をもって寛大にこの道を歩む人は希望の種を蒔きます。そしてわたしは皆さんがそうした希望の種蒔きとなるようにと望んでいるのです。
 愛する青年の皆さん、あの聖金曜日には、多くの弟子たちが悲嘆に暮れて自分の家に帰り、またほかの弟子たちは十字架を忘れるために農地に仕事に出かけることを選びました。今私は問います。そして皆さん一人ひとり自分の心の中で応えてください。今夜皆さんはどのような心持ちで自分の家や宿泊所、テントに帰りたいですか。今夜どのように自分自身を見いだしたいと望んでいますか。
 世界はわたしたちを見ています。皆さん一人ひとりがこの問いの挑戦に対して答えるにふさわしいかを見ているのです。