2015年12月12日土曜日

12月6日、アシジでクリスマスツリーに灯をともす時に発せられた言葉



(馬小屋が小舟の中に設置されている)
舟を眺めていると…、イエスはいつも、困難な時までも、わたしたちの側にいてくださいます。どんなに多くの兄弟姉妹たちが海でおぼれたことでしょう。今、彼らは主のもとにいます。けれど主はわたしたちに希望を与えるためにやってきました。そしてわたしたちはこれを受け入れなければ理ません。主は死よりも強い、あらゆる悪よりも偉大であるとわたしたちに告げるためにやって来たのです。主は慈しみに満ち、すべてにおいて慈しみの方(全能=todo-poderosoに文字って、todo-misericordiosoという造語で語っている。「全慈」という造語もありか)であるとわたしたちに告げるためにやって来たのです。そして今年のクリスマスには、皆さんにその心を慈しみに対して、ゆるしに対して開くようにとわたしは招きます。けれどこうした殺戮を許すことは簡単なことではありません。決して簡単ではありません!

海岸警備隊の皆さんに感謝したいと思います。善意に満ちた男女の皆さんです。あなたたちに心から感謝します。というのも、イエスがわたしたちにもたらす希望の媒体的道具になってくれたからです。わたしたちの間で、あなたたちは希望、イエスの希望を蒔く人になってくれたからです。ありがとう、アントニオさん、あなたの同僚たち全員にも、そしてこのイタリアの地が寛大にも受け入れたひとびとにも、ありがとう。イタリア南部は全世界に対して連帯の模範となりました。この馬小屋を眺め味わいながらわたしは、皆さんがイエスに「わたしもあなたが希望のしるしとなるために一つ手を貸しましたよ!」と言うことが出来るようにと願っています。

そして、難民の皆さんに語ります。預言者の言葉です。「頭を上げなさい、主は近いのです。そして主と共に力と救い、希望が近くにあるのです。おそらく心には痛みがあるかもしれませんが、頭は主の希望のうちにすっと伸ばしてください。

難民の皆さん、そして海岸警備隊の皆さん、わたしの抱擁を受け取り、主の希望と優しくなでる手つきを存分に受けた、聖なるクリスマスをお過ごしください。

2015年12月8日:いつくしみの特別聖年開始



いつくしみの特別聖年開始
無原罪のマリアの祭日ミサ説教

いつくしみの聖なる扉を開く喜びが近づいています。バンギがそうしたように(訳者註:中央アフリカ共和国の首都。11月末に教皇はバンギでムスリム共同体と共に対話と祈りの場に与かってきたところ)、今聞いたばかりの、何よりも恵みを優先させるみことばに照らされ、シンプルでありながら同時に強烈に象徴的な、この行為をわたしたちは果たします。実際、こうした朗読で、天使ガブリエルが驚き困惑している若い女の子に声をかけた情景をほうふつさせる表現がしばしば繰り返されており、そこでは彼女を神秘に巻き込んでいることが指摘されます。「喜びなさい、恵みに満ちた方(新共同訳:おめでとう、恵まれた方)」と(ルカ128節)。

おとめマリアはまず、主が彼女に行ったすべての事を喜ぶようにと招かれています。神の恵みが彼女を包み込み、救い主キリストの母となる尊厳のある者とするのです。ガブリエルが彼女の家に入るとき、最も奥行きのある神秘も入り、理性の能力をずっと超えて、彼女を喜びのきっかけ、信仰のきっかけ、啓示されるみことばを前に自己放棄をするきっかけとするのです。恵みの道あふれた状態が心に変化をもたらし、その心が人類の歴史を変えることになるほど大いなるその行為を実現できるようにするのです。

無原罪の宿りの祭日は、神の愛の偉大さを表現しています。神は罪を許すだけではなく、マリアにおいて、人が誰でもこの世にくるときに自らの内に持ってきている原初の咎を予防するに至ります。これは予防し、先行し、救う神の愛です。エデンの園での罪の歴史の始まりは、救いをもたらす愛の計画と落ち合います。創世記の言葉はわたしたちの個人的・人格的存在の日々の経験に向けられています。いつでも不従順の誘惑は存在し、それは自分の生活を神のみ旨をわきに追いやって組み立てたいという望みに示されます。これこそが神のデザインに反するためにたゆまなく人々の生活にわなを掛ける敵意なのです。それにしても、罪の歴史も赦しをもたらす愛に照らしてのみ理解されるものです。罪とは何かということはこの光をもってのみ理解されるのです。もしすべての人が罪に寄せられたままなら、全被造物の中でわたしたちは最も絶望的ですが、キリストの愛の勝利の約束は御父のいつくしみのうちにすべての人を含みこんでいるのです。先ほど耳を傾けた神のことばは、この提案に疑いの余地を残しません。無原罪のおとめはわたしたちに、この約束とその成就の証しをする特権を与えてくれているのです。

この特別聖年はまた、恵みの賜物でもあります。扉を通って入るとは、すべての人々を迎え入れ、一人ひとりと出会うために個人的に出向いて行く御父のいつくしみの奥行きの深さを見いだすことを意味しています。わたしたちを探すのは御父なのです。わたしたちとの出会いのために出向いて行くのは御父なのです。この年は慈しみの確信のうちに成長するための年となるでしょう。神のいつくしみによって数ある罪が赦されるということを取り上げる代わりに、神の裁きによって罰せられるということを何よりも強調するとき、神やその恵みをどれほど傷付けることでしょう(聖アウグスティヌス。De praedestinatione sanctorum 12,24)。そうです、まさにそうなのです。裁きよりも前にいつくしみを据えなければならないのです。そしてどのような問題においても、神の裁きはいつでもその慈しみに照らして存在するのです。そのようなわけで、聖なる扉を通ることは、わたしたちがこの愛の神秘に与かっている者であることを感じさせてくれます。あらゆるタイプの恐れや不安を手放しましょう。なぜなら、それは愛されているものに伴うものではないからです。むしろ、あらゆることに変化をもたらす恵みとの出会いの喜びを体験しましょう。

今日、ここローマと世界の教区すべてにおいて、聖なる扉を通りながら、50年前に第二バチカン公会議の教父たちが世界に向けて開いたもう一つの扉のことをも思い出したいと思います。この日付は、信仰において実現した大いなる進展を今に至ってなお確証させてくれる、そこで生み出された公会議文書の豊かさによってのみ記念されるものであってはなりません。何よりもまず、公会議は出会いの場だったのです。教会と現代人とのほんものの出会いだったのです。宣教者の歩みをやる気を出して再開するために、自分の内側に長い年月のあいだ閉じこもっていた少し深い水から教会が出てくるようにと促していた聖霊の力に刻まれた出会いだったのです。自分の町や家の中、仕事の現場といった、一人ひとりの人が生きているその場所での出会いへと出向いて行く歩みを再開するものだったのです。誰か人がいるところならどこでも、教会は福音の喜びを運び、神のいつくしみやゆるしを運びに行くように招かれているのです。そのようなわけで、宣教者の中にある促しを、この数十年を経た後で、同じ力と同じやる気をもってわたしたちは再選択し続けるのです。ジュビリーの年は、この開かれた態度へとわたしたちを駆り立て、福者パウロ六世が公会議の締めくくりに思い出させたような、バチカン公会議の中で生じた精神、つまりサマリア人の聖心をないがしろにしないようにとわたしたちに強く命じます。今日聖なる扉を通るにあたり、よきサマリア人のいつくしみをわたしたちのものとする約束に対して献身することができますように。

2015年4月5日日曜日

4月3日(金)、聖金曜日、十字架の道行きのことば



あぁ、十字架に架けられたキリスト、勝利のキリスト、キリストの十字架の道行きはその生涯の要約です。これは御父のみ旨へのその従順を見える形にしたものです。これはそのわたしたち罪びとに対する無限の愛の実現です。これはその使命の試練です。これは啓示と救いの歴史の決定的な成就です。その十字架の重みはわたしたちのあらゆる重荷を解いてくれます。

 イエスの御父のみ旨への従順を見ると、わたしたちの反抗や不従順に気づかされます。自分のもとに集まった人々や、愛する人に売られ、裏切られ、十字架に架けられたのを見ると、わたしたちの日々の裏切りや習慣的な不実に気づかされます。キリストの無垢、罪なき小羊のうちに、わたしたちの罪責を見ます。その打たれ、唾を吐きかけられ、ゆがめられた顔のうちに、わたしたちのあらゆる罪の残忍さを見ます。その受難のむごさを見て、わたしたちの心や行動にある残酷さを見ます。その「見捨てられた」感のうちに、家族や社会、配慮や連帯から見捨てられたすべての人を見ます。その裸でひっかき傷だらけでずたずたになった体を見ると、長い歩みのうちにわたしたちの怠慢と無関心のためにゆがめられ、見捨てられたわたしたちの兄弟姉妹のからだを見ます。あなたの渇きのうちに、主よ、全人類を抱きしめ、ゆるし、救おうと望んでいたいつくしみ深いあなたの御父の渇きを見ます。あなたのうちに、神の愛であるあなたのうちに、さらに今日、あなたへの信仰のゆえに、わたしたちの目の前で、あるいはしばしばわたしたちの共犯的沈黙のうちに迫害され、首を切られ、十字架に架けられた兄弟姉妹を見ます。

 主よ、わたしたちの心に信仰、希望、愛徳、自分の罪ゆえの痛みの感情を刻み付けてください。そしてあなたを十字架に架けたわたしたちの罪を悔やむように導いてください。わたしたちの言葉の回心を、生き方と働きの回心へと変えるように導いてください。あなたのゆがめられた顔のはっきりとした記憶を保ち、あなたがわたしたちを解放するために払われた恐ろしい代価を忘れないように導いてください。十字架に架けられたイエスよ、わたしたちの信仰を強め、誘惑を前にして崩されないようにしてください。わたしたちのうちに希望を再燃させ、世の長きにわたる誘惑のうちに没することの内容にしてください。わたしたちのうちに愛徳を保ち、汚職や世俗性にだまされないようにしてください。十字架は復活への道であることをわたしたちに教えてください。聖金曜日は過越祭(復活祭)の光への道であることをわたしたちに教えてください。神がその子らの誰一人として忘れることなく、わたしたちを、その無限の慈しみをもってゆるし、抱きしめるのに飽きてしまうことなど決してないということをわたしたちに教えてください。けれど、ゆるしを乞い、御父の無限のいつくしみのうちに成長するのに飽きてしまわないようにわたしたちにも教えてください。

キリストの魂、わたしたちを聖化してください。
キリストの体、わたしたちを救ってください。
キリストの血、わたしたちを酔わせてください。
キリストの脇腹から流れ出た水、わたしたちを清めてください。
キリストの受難、わたしたちを強めて下さい。
あぁ、善良なイエスよ、わたしの祈りに耳を傾けてください。
あなたの傷のうちにわたしたちを隠してください。
わたしたちがあなたから離れることのないようにしてください。
悪魔のわなからわたしたちを守ってください。
臨終の時にわたしたちの名を呼び、
あなたに向かって行くようにわたしたちを引き寄せて下さい。
そうしてあなたの聖人たちとともに、いつまでもあなたを、
ほめたたえることができますように。アーメン。