2014年2月26日水曜日

2月25日(火)、朝ミサ説教:神に近づきなさい、神は皆さんに近づきます


 難民キャンプの空腹の子どもたちと、武器製造者たちのパーティ会場での宴会。これが今朝聖マルタの家でのミサでパパ・フランシスコが思い起させた情景である。教皇の説教は平和への呼びかけ、家族として世界でのあらゆる戦争に反対する呼びかけであった。パパは平和が単なる「言葉」に留まってはならず、全キリスト者に、戦争のスキャンダルに「慣れてしま」わないようにと勧告した。

 皆さんの間にある喧嘩や口論はどこから来るのですか?と教皇は第一朗読の使徒ヤコブの手紙から着想を得て語り、あらゆる戦争への揺り動かす断罪をもちあげた。自分たちの間で誰が一番偉大であるかを見ようとしてイエスの弟子たちの間で生まれた口論についてコメントしながら、「心と心が離れる」時に「戦争が生まれる」ことを証明した。「毎日、新聞で、戦争を目にします。―苦しそうにしながら―そうした場所で、二人死んだ、五人死んだ」他の場所でもっと犠牲者が出た、と。

「そして死者はまるで日々の決算の一部になっているかのようです。わたしたちはこうしたことを読むのに慣れ親しんでしまっているのです!もし世界じゅうでこの瞬間にあるあらゆる戦争を引用する忍耐があるならば、何ページも何ページも埋まってしまうでしょう。まるで戦争の精神がわたしたちを支配してしまっているかのようです。あの大戦争の100周年を、何万もの死者を出したことの記念式典をするのです…。そしてだれもがスキャンダルを感じるのです!けれど、今日も同じことです!大戦争の代わりに、あらゆるところで、小さな戦争があります。ばらばらになった民があります。…自分の関心を保とうとするために殺人を犯し、互いに殺し合うのです」。

皆さんの間にある喧嘩や口論はどこから来るのですか?」教皇は繰り返した。「戦争、憎しみ、敵意は、市場で買ってくるものではありません。ここに、心の中にあるのです」。子どもの頃、要理の時間に「カインとアベルの話がなされた時、だれもがスキャンダルを感じた」。誰かが自分の兄弟を殺すなど、信じられなかったのです。けれど、今日、「兄弟同士、自分たちの間で殺し合っている人がごまんといます。けれどわたしたちは慣れ親しんでしまっています」。第一次世界大戦は、「スキャンダルになります、けれど大戦争でないなら、あらゆるところで少しずつある、少し隠れたそうした戦争はスキャンダルにならないのです。スキャンダルにならない!そしてほんの小さな土地のせいで、野心のため、憎しみのため、民族意識のために多くの人々が死んでいます。情念がわたしたちを戦争に、世の精神へと導くのです。

「また一般的に、対立を前にして、わたしたちは興味深い状況にまみえます。ぶつかり合いながら解決するために前進するということです。戦争の言葉づかいをもって。平和の言葉づかいが第一に来るわけではないのです!その結果はどうでしょう?難民キャンプにいておなかをすかせている子どもたちのことを考えなさい…。そのことだけ考えなさい。これが戦争の実りなのです!そしてもし望むならば、パーティ会場のことを思い描きなさい。武器を製造する、武器工場の経営者たちが催している宴会のことを考えなさい。武器(売買の結果)がそこに行きついているのです。難民キャンプの病気でおなかをすかしている子どもと、武器製造者たちの送っている大宴会や幸せな生活」。

 「わたしたちの心に何が生じますか?」教皇は繰り返した。使徒ヤコブは、単純な助言をわたしたちにくれます。「神に近づきなさい。そうすれば神があなたがたに近づいてくださいます」と。そういうわけで、「この神からわたしたちを引き離す戦争の精神は、わたしたちから遠くないのです」。「それはわたしたちの家の中にも」あるのです。

「どれほど多くの家族が、パパやママが平和の道を見出す能力に欠け、戦争を好み、きっかけとなって崩壊していることか…戦争は破壊するのです!『皆さんの間にある喧嘩や口論はどこから来るのですか?まさに自分たちの仲間の中でぶつかり合う情念、心からではないのですか?』今日、平和のために祈るようにと皆さんに提案します。その平和ということばは、どうもただのことば、それだけになってしまったかのようですが。このことばが実践する能力を持ちますように。『自分の悲惨さを認識しなさい!』という使徒ヤコブの助言に従いましょう」。

 あの悲惨さこそが、戦争のもとなのです。「家族のなかでの争い、近所の地区での争い、あらゆる所での争いです」。「ああいった情景をテレビで見て、新聞で読んで、涙を流して泣いた人はどれほどいるでしょうか?あんなにも死者が出ているのです」。使徒ヤコブが言うように「皆さんの喜びが嘆きに変わり、歓喜が悲しみになるように…」。これは、「今日、2月25日に、あらゆる所にある、多くの争いを前にして一キリスト者がしなければならないことです」。「泣くこと、嘆くこと、辱しめられること」。「主がこのことを理解させ、戦争のニュースに慣れ親しむことから救ってくださいますように」。  
(RC-RV)

2月24日(月)、朝ミサ説教:救いとはイエスとともに、教会のうちで、家に帰ること

 イエスに従うということは「概念」ではなく、「継続的に家」、キリストがいつもすべての人を還らせる家、ここから遠く離れた人をも変えるようにする家「にとどまること」なのです。パパ・フランシスコは聖マルタの家の小聖堂で今朝のミサの説教で語った。発作に苦しむ青年が、驚き無防備な群衆の間で、地面でのたうちまわり、口から泡を出す。そしてその父親は、イエスにすこし飛び付くような感じで自分の子をその悪魔の憑依から解放してくれるようにと願い出る。これが今日の福音で繰り広げられているドラマで、パパはポイントごとに分析をした。そこのいた人々は、結果もなく議論しており、そこにイエスが到着して、「知名度が下がったことが」報告される。心配した父親は群衆の間から抜け出し、あらゆる希望に反してイエスに信頼することを決意します。そしてイエスは、あの父親の水晶のように透き通った信仰に心を動かされ、悪霊を追い出し、死んでしまったかのように見えた青年の前でやさしく身をかがめ、もう一度起き上がるのを助けます。

「あの無秩序状態、あの議論はすべて、ひとつの仕草で終わります。イエスは身をかがめ、青年の前で身を傾けます。このイエスの仕草はわたしたちに考えさせます。イエスは癒す時、人々のところに入り込んで誰かを癒す時、決してその人を一人きりにしません。イエスは魔術師や霊媒師のように言っていやし、そのまま自分の生き方だけを続けるような人ではありません。イエスは一人ひとりが自分の家に帰れるようにし、道端に置き去りにしないのです。こうした仕草は、主の最高に美しい仕草です」。

 ここに教えがあります。「イエスは、いつもわたしたちを家に返し、決して道端に置き去りにしないのです」。福音は、こうした仕草に満ちています。ラザロの復活、ヤイロの娘が息を吹き返したこと、あのやもめの息子の出来事。そしていなくなった羊を柵に連れ戻す話や、失われた銅貨がその持ち主の女性に見つけられる話も同様です。

「なぜならイエスはただ天から来ただけでなく、民の間で生まれた息子だからです。イエスは一つの民と交わされた約束そのものであり、そのアイデンティティも、アブラハムが約束に向かって歩いた、あの民への帰属にあるのです。そしてこうしたイエスの仕草は、あらゆる癒し、あらゆるゆるしが、いつもわたしたちの民、教会に帰れるようにしているのだということをわたしたちに教えています」。

 イエスはいつでもゆるし、その仕草は、そのゆるしが「とても」離れてしまった人、例えば徴税人のマタイやその同僚ザアカイといったような人に届くとき、「革命的」あるいは「説明不能」にもなります。しかも、イエスは「赦す時、いつも家に帰します。このような形で、神の民がいなければ、イエスを理解することはできないのです」。「教会なしにキリストを愛すること、教会を感じずにキリストを感じること、教会の枠の外でキリストに従うこと」はおこがましいことです。教皇フランシスコはもう一度パウロ六世のフレーズを引用して言った。「キリストと教会は一つです」、そして「キリストが誰かを呼ぶ時、教会に導くのです」。このため、子どもが「教会で、つまり母なる教会で洗礼を受けるために来ることは善いことなのです」。

「そしてあのイエスのやさしさたっぷりの仕草はこのことを理解させます。わたしたちの教義は、あるいはこう言えるでしょうか、つまりわたしたちがキリストに従うことは、概念ではなく、たゆまず家に留まることなのです。そしてもしわたしたち一人ひとりが罪や間違いのため -神さまは知っておられます- 家から出る可能性や現実にあるなら、救いとは、イエスと共に、教会において家に帰ってくることなのです。それらは温もりの仕草です。一人ひとり、主はそのようにわたしたち、その民を、その家族、わたしたちの母、聖なる教会の内側に、呼びます。このイエスの仕草について考えましょう」。
 (RC-RV)









2月23日(日)、お告げの祈り:新枢機卿の叙任

2月21日(金)、朝ミサ説教:働きのない信仰は、信仰ではない


 「わざにおいて実りをもたらさない信仰は、信仰ではありません」。聖マルタの家で今朝ささげられたミサの説教をパパ・フランシスコはこのようなことばで始めた。世界は信仰宣言の言葉を暗記できているけれども、その内容を実践できないキリスト者、あるいは神学を、のちにその知恵を人生において具体的に反映させることのない、さまざまな可能性の一覧に分類する学者さんでいっぱいです。これは聖ヤコブが2000年前におそれていた危険であり、パパがヤコブの手紙の箇所についてコメントしながらその説教で今日、改めて取り上げた危険である。「その断言ははっきりしています。人生における実りのない信仰、わざにおける実りをもたらさない信仰は、信仰ではないのです」。

「わたしたちもこれについて何度もわたしたちは過ちを犯してきました。『でもわたしにはたくさん信仰があります』と言うのを聞きます。『私は全部信じてます、全部』。そしてこういうことを言いながらぬるく、弱い人生を送っていることもあり得るのです。その信仰は、理論のようであるけれど、その生き方で体験されていないものなのです。使徒ヤコブは、信仰について語るとき、まさに教義について、信仰の内容であるあのことについて語ります。みなさんは十戒のすべてを知り、あらゆる予言を知り、あらゆる信仰の真理を知ることができますが、もしこれを実践せず、わざに行かなければ、役に立たないのです。理論的に信仰宣言を暗唱できるかも知れませんが、信仰なしでもできますし、実に多くの人がそのようにしています。悪魔だって同じことをするのです!悪霊たちは信仰宣言において言われていることをよく知り、それが真理であることを知っています。

 教皇のことばは聖ヤコブの断言の中で響く。「あなたは、たった一人の神がいることを信じているのですよね?いいでしょう。悪霊たちですらこれを信じ、おそれに震えるのです」。違いは、悪霊には「信仰がない」ということです。なぜなら「信仰を持つということは、知識を持つということではなく」、キリストによってもたらされた「神のメッセージを受けること」だからです。

 福音において、「信仰は持たないけれど信じなければならないことは知っている」人のことを示す二つの種類のしるしに出会います。最初のしるしは税金を払うのは正当か、また(死んだ後)七人の夫のうちどの人がやもめと結婚すべきかを尋ねる人々に代表される「詭弁」です。二つ目は「主義」のしるしです。

「概念システムとして信仰について考えるキリスト者は、イエスの時代にもいました。使徒ヨハネはこうした人たちについて、彼らは反キリスト、信仰に関する概念主義者、またこれに限らずどんなことについてでも、概念主義者であると言っています。あの時代にはグノーシス主義がありましたが、ほかにもさまざまな主義がありましたそしてそのように、この人々は詭弁に陥いりました。あるいは主義に陥った人々は悪霊たちのように、教義は知っているけれど信仰のないキリスト者でした。違いは、これに恐れをなすか、あるいは、落ち着いて生活しているかにあるだけです」。

 その反対に、福音には「教義は知らないけれど強い信仰を持っている人々」の例もあることをフランシスコは思い出させた。ローマ司教は憑依の犠牲である娘のための癒しを信仰において得るカナン人の話と、「抽象概念ではなくイエス・キリスト」 に出会ったためにその心を開くサマリア人の話を引用した。また、イエスによって癒され、そのためにファリサイ派の人々や律法学者たちに尋問され、ついに謙虚にひざまずき自分を癒してくれた人を礼拝するに至った目の見えない人のことをも引き合いに出した。この三人は信仰と証がどれほど不可分であるかを示しています。

「信仰にはいつも証しが伴います。信仰はイエス・キリストとの出会い、神との出会いであり、そこから生まれ、証しへと導くのです。使徒がいいたいのはこれです。わざのない信仰、あなたを巻き込まない信仰、証しにあなたを導かない信仰は、信仰ではない、ということです。これは言葉だけです、言葉以外の何物でもないのです」。
 (RC-RV)

2014年2月25日火曜日

2月19日(水)、一般謁見:ゆるしの秘跡

2月20日(木)、朝ミサ説教:イエスは「私を知りなさい」とは言いません。「私に従いなさい」と言うのです


 イエスのことは、勉強しながらというよりも、従いながら知られていくものです。聖マルタの家で今朝ささげられたミサの説教でパパ・フランシスコはこう語った。日々、キリストは自分が私たちにとって「誰であるか」を尋ねます。その弟子として生きて答えを出すことができるのです。

 これは勉強家の生活というよりも、弟子の生活です。その生活はキリスト者にその人にとってイエスとは誰であるかを本当に知ることを可能にしてくれるのです。先生の足跡の上にある歩みであり、透明な証も、裏切りも、挫折も、新しいやる気も交差する歩みですが、それは単なる知的接近ではないのです。これを説明するために、パパは現代的に「勇気ある」証をする役割を負ってイエスが使徒たちに「人々は私のことを何と言っているか?」と尋ねたときに「あなたはメシアです」と答えた後で、イエスが苦しみ、死に、そのあとで復活しなければならないと告げたすぐ後でイエスを叱らなければならないと考える反対者の役割を負ったペトロを例に挙げた。「何度もイエスは私たちに向かい、質問します。『あなたにとって私は誰かな?』と」。そこで「ペトロと同じ答え、あの要理の時におぼえた」答えが得られるかもしれませんが、それでは十分ではありません。

「どうやらわたしたち誰もが心に抱く『私たちにとってイエスは誰だろう?』というその問いに答えるためには、学んできたことだけでは、要理で教わってきたことだけでは足りないようです。勉強して知ることは大切ですが、それでは純分ではないのです。イエスを知るためには、ペトロが歩き回った道を歩き回らなければならないのです。そうやって下げられた後で、ペトロはイエスとともに前進し、イエスが行った奇跡を見、その力を見、そうしてイエスに言われたように魚を釣ってコインを取り出して税金を払い、そういった多くの奇跡を見たのです。けれど、あるポイントまでで、ペトロはイエスを否定し、イエスを裏切り、そうしてあの本当に難しい学問を、学問というよりも、知恵ですが、涙の学び、うめきの学びを達成したのです。」

 ペトロは、イエスに許しを乞うたので、復活の後、ティベルア湖畔でイエスに問われます。そしておそらく、先生への完全な愛を再確認するにあたり、泣き、三度イエスを否んだことを思い出して恥じたことでしょう。

「このペトロへの最初の問い『イエスはあなたにとって誰ですか?』は歩みながら初めて、恵みと罪の長い道のり、弟子としての歩みの後で初めて理解されるものです。イエスはペトロや使徒たちに「私を知りなさい!」とは言わず、「私についてきなさい!」といったのです。そしてこのイエスについていくことが、私たちにイエスとはだれかを知らせるのです。私たちの徳をもって、また私たちの罪をも持って、イエスに従うこと、イエスにいつもついていくことです。必要なことは、勉強ではありません。弟子の生き方なのです。」

 「毎日、わたしたちの勝利も弱さもともに、日々の出会い」が必要です。けれど、「自分たちだけでは実現できない歩み」でもあります。聖霊の介入が必要です。

「イエスを知るというのは、御父からのたまものです。御父こそがわたしたちにイエスのことを知らせてくださることです。それは大変な働き者である聖霊のはたらきです。聖霊は組合活動家ではなく、大変な働き者で、私たちの中でいつも、働いています。このキリストの意義を私たちに与えるイエスの神秘を説明するこの仕事をなすのです。イエスを見つめましょう。ペトロを見つめましょう。使徒たちを見つめましょう。そして私たちの心の中でこの問いを感じましょう。『あなたにとって、私は誰かな?』そして弟子として御父に聖霊におけるキリストの知識を私たちに下さるように求め、わたしたちにこの神秘を説明してくださるように祈り求めましょう」。
(RC-RV)

2014年2月18日火曜日

2月18日(火)、朝ミサ説教:わたしたちが誘惑にさらされたとき、神のことばのみがわたしたちを救う。


 誘惑のいざないに耐えるには、「イエスの言葉に耳を傾ける時」のみこれが可能です。今朝聖マルタの家で捧げられたミサの説教でパパ・フランシスコはこう語った。わたしたちの弱さにもかかわらず、キリストはいつもわたしたちを「信頼」してくださり、わたしたちの限界よりも広い地平をわたしたちに開いてくださいます、と繰り返した。

 誘惑というのはまるで無害の魅力のように現れ、檻に姿を変えるに至ります。そこからこれを避けようと求めるよりも、神の言葉に対して耳の聞こえない人となり、その奴隷状態を最低限に保つに留まるに限ってしまおうとするほどの檻になるのです。その説教で、パパは典礼で提示されたヤコブの手紙の個所で記された真理と連続を再確認した。真理は決して人を試す神ではなく、その情欲なのである。連続は使徒が言うように、「罪をはらみ、生み出す」同じ情欲によって生まれたものです。「そして罪は、一度犯されると、罪を生み出します」。 

「誘惑は、どこから来るのでしょう?わたしたちの中でどのように働くのでしょうか?使徒はこれは神から来るのではなく、わたしたちの情欲やわたしたちの内なる弱さ、原罪がわたしたちのうちに残した傷から来ると言っています。誘惑はそこから来るのです。そうしたわたしたちの煩悩からです。興味深いのは、誘惑には三つの特徴があることです。育つこと。伝染すること。そして自己正当化をすることです。育つこと:まるで何もないかのように始まり、育ちます…。イエス自身がこれを言っていました。麦と毒麦のたとえを話された時です。麦が育っていたのですが、敵によって蒔かれた毒麦も育っていたのです。誘惑は育って育って育ちまくります…。そしてこれを留めなければ、すべてを占めてしまいます」。

 さらに、誘惑は「他の仲間を作ろうとします。伝染するのです」そして「この育つことと伝染することにおいて、誘惑は簡単には出ることのできない環境にわたしたちを閉じ込めるのです」。これは当日の福音に語られた使徒たちの体験そのものでした。十二使徒が師の眼差しのもと、舟べりでパンを持ってこなかったことについて互いに責任をなすりつけていたところです。イエスは、おそらくあの口論を見て微笑み、「ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種に注意を払っているように」と招きます。けれど使徒たちは聞くことなく、少ししつこく願うようにと招きます。パンを持ってこなかったことで、また場所がなかったこと、時間がなかったこと、神のみ言葉のための光がなかったことです。

「このようにして、わたしたちが誘惑に襲われている時、神のみ言葉を聞きません。わたしたちは聞かないのです。わたしたちは理解しないのです。そしてイエスはあの雰囲気から出てこれるように、パンの増殖のことを思い出させなければなりませんでした。なぜなら誘惑はわたしたちを閉じ込め、前もって準備する能力をすべて奪い去り、あらゆる地平に対してわたしたちを閉ざし、こうしてわたしたちを罪へと導くからです。わたしたちが誘惑にさらされた時、ただ神のことばのみが、イエスのことばのみがわたしたちを救うのです。わたしたちに地平を開くあの言葉を聞くこと…。イエスはいつもわたしたちがどうすれば誘惑から出てこれるかを教える準備ができています。そしてイエスは偉大なのです、なぜならわたしたちを誘惑から抜け出させるだけでなく、わたしたちにもっと信頼を寄せてくださるからです」。

 この信頼は、「わたしたちが誘惑にさらされている時に、大いなる力です。主がわたしたちを待っていてくださる」、「主が誘惑を受けているわたしたち、罪人のわたしたちを信頼してくださっている」、「いつも地平を開いてくださる」。その反対に、悪魔は「誘惑、閉じ込め、閉ざし、閉ざし」、そうして使徒たちの船と似たような環境を「育てる」のです。この手の雰囲気に「監禁状態に」ならないようにするには、ただただ「イエスの言葉に耳を傾ける」の御です。

「主がいつも、弟子たちにしたように、忍耐をもって、わたしたちが誘惑にさらされる時に『まぁ待ちなさい。落ち着きなさい。あのときにあなたにしてあげたこと、あの瞬間にしたことを思い出しなさい。さぁ、思い出しなさい眼差しを上げなさい。地平線に目を向けなさい。閉じないこと。閉じこもってはなりません。前進しなさい』と言ってくださるように、主に願いましょう。そしてこのことばが誘惑の時に罪に陥ることからわたしたちを救ってくださるでしょう
 (RC-RV)

2月17日(月)、朝ミサ説教:忍耐がなければ、育たない


 「忍耐は諦めではありません。別のことです」。パパは「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」と書く聖ヤコブの手紙についてコメントした。「托鉢僧になるようにと招かれているかのようです」が、そうではありません。忍耐は、「わたしたちが望まない」試練を耐え抜くことです。それは「わたしたちの人生を成熟させます。忍耐のない人はあらゆるものをすぐに欲しいと望みます。なんでも急いで」。この忍耐の知恵を知らない人は、気まぐれな子どものような、気まぐれな人です。そしてその人にとってはどんなものもよいものではありません。「忍耐のない人は、成長しない人、子どもの気まぐれに留まる人、訪れる人生を、選ぶか捨てるか、責任をもって迎えることのできない人です。これが誘惑のひとつです。気まぐれになってしまうこと」。「もう一つの忍耐のない人の誘惑は、全能であることです」。イエスに「驚くべここと、奇跡を求めて」天からのしるしを求めたファリサイ派の人々にあったように、すぐに何かがあるようにと求めることです。

「彼らは神の働き方と魔法使いの働き方とを勘違いしています。そして神は魔法使いのようには働きません。神には前進していくそのあり方があるのです。神の忍耐です。神にも忍耐があるのです。ゆるしの秘跡に赴くたびに、わたしたちは神の忍耐の賛歌を歌っているのです!どれほどの忍耐をもって主はその背中にわたしたちを背負っていかれるのでしょうか。どれほどの忍耐をもって!キリスト者の生き方はこの忍耐の音楽の上で展開されなければなりません。なぜならまさにわたしたちの父祖の音楽、神の民の音楽、神の言葉を信じ主の掟に従った人々の音楽は、わたしたちの父祖アブラハムに与えられたからです。「わたしの現存のうちに歩みなさい。そしてとがめられるところのない者として生きなさい」。

 ヘブラ人への手紙を引用しながらローマ司教は言った。神の民は、「とても苦しみました。迫害され、殺害されてきました」。けれど「遠くから神の約束に心を向ける喜びが」あったのです。「これこそが、試練においてわたしたちが持たなければならない忍耐です。大人の忍耐」、その背中にわたしたちを背負ってくださる「神の忍耐です」。そしてこれこそが「わたしたちの民の忍耐」なのです。

「わたしたちの民はどれほど忍耐強いことでしょう!今日にいたるまでです!小教区に行って、苦しみ、問題を抱え、障害や病気を抱えている子どもを持ちながらも忍耐をもって人生を前に進ませている人々と出会う時です。福音に出てきて[しるしを見せてください]としるしを求めるふりをするようなあの人々のようには、しるしは求めません。違います。求めないのです。けれど時のしるしを読むことができるます。いつイチジクが花を開くのか、いつ春がくるのか知っています。そうしたことを見分けることができるのです。一方、今日の福音に出てくる忍耐のないこうした人々は、しるしを欲しがり、時のしるしを読むことができず、そのためにイエスを認めることがないのです。

 フランシスコはその説教を、わたしたちの民の人々、苦しむ人々、あまりに多くの、たくさんのことに苦しみながらも信仰の微笑みを失わず信仰の喜びを持っている人々」をたたえながら結んだ。

「そしてこうした人々は、わたしたちの民なのですが、わたしたちの小教区において、わたしたちの機関において、実に多くの人が、教会を前へと運んでいます。その聖性をって、その毎日の、日々の聖性をって。『わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります』(ヤコブ1章2-4節)。主がわたしたち全員に、忍耐を、喜びに満ちた忍耐を、働きにおける忍耐、平和の忍耐をわたしたちに与え、神の忍耐、神が持っておられる忍耐をわたしたちに与え、本当に模範的なわたしたちの忠実な民の忍耐をわたしたちにもたらしてくださいますように」。
(RC-RV)

2月16日、お告げの祈り:わたしが来たのは律法を完成させるためである

2月14日(金)、朝ミサ説教:キリスト者は「派遣されし者」であり「喜びをもって」福音を宣べ伝える。嘆きながらでは主の望みは行われない


 キリスト者は留まることなく、様々な困難のさらに向こうへといつも歩んでいきます。聖マルタの家での今朝のミサでパパ・フランシスコはこう語った。ヨーロッパの守護聖人であるシリロ(キリル文字の発明者)とメトジオの祝日に、教皇は弟子のアイデンティティに集中して語った。福音は、喜びを持って告げ知らされ、嘆きながらでは主の望みは行われない、と忠告した。そしてオオカミの間でオオカミになってしまう誘惑に気を付けるようにと語った。

 イエスの弟子はどうあるべきなのでしょうか?パパはキリスト者のアイデンティティに留まるためにシリロとメトジオのある方から着想を得て語った。そして使徒言行録からとられた第一朗読についてのコメントをしながら、キリスト者は「派遣されし者」であることを強調した。主はその弟子たちを派遣し、前へと進んでいくように求めます。「そしてこれは、キリスト者が歩む主、いつも前へと進む主の弟子であることを意味します」。

「動きの止まったキリスト者というのは考えられません。留まるキリスト者は病者です。自分のキリスト者としてのアイデンティティにおいて何らかの病に苦しんでいるのです。あのアイデンティティに何らかの病気があるのです。キリスト者は歩み、前進するための弟子です。最後に詩篇において、主の別れの時の言葉を聞きました。『全世界に行って福音を宣べ伝えよ』と。行きなさい。歩みなさい。これです。キリスト者の最初のアイデンティティは歩くことです。もし困難があったとしても歩くこと、困難のもっと向こう側へと行くことです」。

 これは、ピシディアのアンティキアでパウロに起こったことです。「そこではユダヤ人共同体との間に困難がありました」。イエスは、「道の交差点へと行き」、「良い人も悪い人も」招くように「勧告します」。そのように福音書は語っています。「悪い人にもです!」 ですからキリスト者は、「歩み」、「もし困難があっても、それよりもっと向こうへ行き、神の国が近いことを告げ知らせるのです」。キリスト者のアイデンティティの二つ目の局面は、「キリスト者は小羊でい続けなければならないということにあります」。キリスト者は、「小羊です。そしてこのアイデンティティを保たなければならないのです」。主はわたしたちを「オオカミたちのただ中にいる小羊のように」派遣します。けれど、「狼たちに対抗する力」を使うよう提案することができる人がいるでしょうか。ダビデのことを考えてみましょう。「ペリシテ人と戦わなければならなくなった時に、サウルの武具をすべて、それもそうしたら動くことすらできなくなるほどの武具を着せてあげたいと人々は考えました」。そのように、「ダビデ自身ではなく、謙虚ではなく、単純なダビデでは内容に従ったのです。最終的には、ダビデはただ縄だけを手にし、戦いに勝ったのです」。

「小羊のように…。オオカミになることなく…。なぜなら、しばしば、誘惑というのはわたしたちにこう考えさせます。「これは難しい。このオオカミたちはずる賢くて、自分はこのオオカミたちよりもずる賢くなれるんだろうか、一体?」と。小羊です。おろか者ではなく、小羊です。小羊。キリスト者の狡猾さをもって、しかしいつも小羊です。なぜなら、もしあなたが小羊ならば、主があなたを守ってくださるからです。けれどもしあなたがオオカミのように強いと感じているならば、主はあなたを守ることなく、あなたをひとりにし、本物のオオカミたちがあなたをすぐに食べてしまうでしょう。小羊を食べるように」。

 アイデンティティの三つ目の局面は、「キリスト者のスタイル」です。それは「喜び」です。キリスト者は、「主を知っていて、自分と共に主がいることを知っているために歓喜に心躍らせる人々です」。「喜びなくキリスト者として歩むことはできません。歓喜なく小羊として歩むことはできないのです」。「問題の渦中にあっても、困難のただ中でも、自分の過ちや罪のさなかでも、いつでもゆるし助けるイエスの喜びがあるのです」。福音はそういうわけで、「喜びをもって、歩み主によって派遣されたこうした小羊たちによって運ばれて、前進しなければならないのです」。

「アダージョ・ラメントーゾ(ゆっくり、悲しみに満ちて)のリズムのキリスト者、あらゆることに文句を言って、悲しく、そうやっていつも生きているキリスト者は、主にも教会にも喜ばれることをしません…。これは弟子のスタイル(生き方)ではないのです。聖アウグスティヌスはキリスト者たちにこう言います。『行け、前進せよ、歌え、そして歩め!』。喜びをもって。そしてそれこそがキリスト者のスタイルなのです。喜びをもって福音を宣べ伝えること。そして主はこのすべてを行ってくださるのです。一方、極端な悲しみ、この行きすぎの悲しみ、それから苦々しさも、言ってしまえば、キリストのいないキリスト主義を生きるようにと持っていきます。空の十字架がマグダラのマリアのように泣きながら墓の前にいるキリスト者の前にあります。けれどそこには復活者に出会った喜びが欠けているのです」。
(RC-RV)

2月13日(木)、朝ミサ説教:信仰を持つということは、信仰宣言をそらで言えるということとは別のこと


 信者はその情欲や虚栄のせいで自分の信仰を失うこともあるかもしれないが、異教徒でその謙遜を通して信仰者になることもあり得る。これが、木曜日の聖マルタの家で支えゲラレ民差での朝の説教でのパパ・フランシスコのメッセージの要約である。

 当日の朗読は、二重の道について回想させる。「偶像崇拝から生きた神へ」の道か、そうでなければ、「生きた神から偶像崇拝へ」の道である。パパの黙想はひとりの「勇気ある女性」、カナン人女性、つまり異教徒の女性が、イエスに娘を悪霊から解放してあげてほしいと願う福音に端を発した。彼女は「絶望的な」女性であり、「母であります。子どもの健康のためには、なんでもします」。「イエスは自分がもとはイスラエルの家の羊たちのために来たのだと説明しますが、きつい言い回しでこれを説明しています。『まずは子どもたちを満腹させなさい。子どもたちのパンを取り上げて犬どもにやってしまうのは良くない』と。この女性は、間違いなく大学に行ったこともない女性ですが、どのように応えるべきかを知っていました」。そして「その頭を使うのではなく、母のはらわたの想い、その愛をもって応えます。『その通りです、主よ、でも犬たちも、食卓の下で、子どもたちがこぼしたパン屑を食べます』と」。この女性は、「恥じらいがありませんでした」。そしてその信仰のおかげでイエスは「奇跡を行ったのです」。

「大騒ぎを起こしそうな危険に身をさらしながらも、しぶとく求め、異教主義と偶像崇拝から出てきて自分の娘のための健康(救い)に出会い、娘のために生きた神に出会ったのでした。ここに、善意の人の歩み、神を探し神に出会う歩みがあります。主は彼女を祝福します。どれほど多くの人がこの歩みを行い、どれほど主がそうした人々を待っていることか!とはいえ、同じ聖霊こそがこの人々を前へと導き、この歩みを実現させてくださるのです。主の教会で日々、この歩みを実現する人々がいます。静かに、主に出会うために。なぜなら彼らは聖霊によって前へと運ばれるがままに任せているからです」。

 「けれど、その反対の道も存在します」。それは第一朗読で語られているように、ソロモンがとったあの歩みです。ソロモンは「地上で最も知恵ある人」でした。神から多大な祝福を受けていました。「普遍的な名声、全権」を手にしていました。「神を信じる人」でした。「けれど、何が起こったのでしょうか?」 彼は女性好きで、異教の側女がたくさんいました。彼女たちは「他の神々に従うようにと心を脱線」させました。このようにしてイスラエル(神の民)に偶像たちが導入されたのです。「そしてこうした女性たちが、ゆっくり、ゆっくりとソロモンの心を弱めていきました。その心は、父親のダビデの心のようには、主に完全に留まることはありませんでした」。

「その心は弱まって、弱まって、こうして信仰を失いました。信仰を失ったのです。世界で一番知恵ある人が、無分別な愛、慎み深さのない愛に流されたのです。自分の情慾に流されたのです。『でも神父さん、ソロモンは信仰を失わなかったでしょう。神を信じていて、聖書を暗唱することができたではないですか』。そうですね、それはほんとうです、けれど信仰を持つということは、信仰宣言をそらで言えるということとは別のことなのです。あなたには信仰宣言をそらんじながら、信仰を既に失っているということはあり得るのです」。

 「ソロモンは、父親のダビデと同様に、罪ある人でした。けれど、そのあとで、これを続け、腐敗者になり下がってしまいました。その心は偶像崇拝によって腐敗していたのです。父親は罪びとでしたが、主はそのすべての罪を赦しました。なぜならダビデは謙遜で、ゆるしを乞うたからです」。ソロモンは反対に、「あまりに知恵が」あったものの、虚栄とその情慾がソロモンを腐敗まで導いたのです。まさに心の中でこそ、信仰というのは失われるのです」。

「その情慾の悪い種はソロモンの心の中で育ち、彼を偶像崇拝へと導きました。そしてわたしたちは、第一朗読の後で、アレルヤのところでこの美しい助言を聞きました。『素直にみ言葉を受け入れなさい』と。素直に。『あなたちのうちに受けられたみことばはあなたたちを救いへと導くことができるのです』と。あのカナンの女性、あの異教の女性の歩んだ道を、わたしたちのうちに植えられわたしたちを救いへと導く神の言葉を受け入れながら歩みましょう。神の力強いみことばが、この歩みにおいてわたしたちを見守り、わたしたちを腐敗へと招くことなく、そしてその腐敗がわたしたちを偶像崇拝へと至らせることがありませんように」
(RC-RV)

2月12日(水)、一般謁見:聖体の秘蹟(2)

2月9日(日)、お告げの祈り:地の塩、世の光

2月10日(月)、朝ミサ説教:典礼は神の時間、神の空間。我々はそこに入っていくのであり、時計を見ているものではない。


 聖なるものの意義、ミサにおける神の本当の現存を再発見すること。これは月曜日の聖マルタの家での聖体祭儀の間になされたパパ・フランシスコによる招きであった。

 この日の第一朗読は、ソロモン王の時代の神の神顕現について語っている。主は神殿の上に、神の栄光に包まれてやって来て、雲のように下りてくる。主はその民に様々な仕方で語りかけます。預言者達を通して、祭司達を通して、聖書を通して。けれど神顕現をもってする場合、異なる仕方で語ります。「みことばとは別の形です。これは他の現存の仕方です。より近いものです。黙想のいらない、近い現存です。それは彼の現存そのものなのです」。「このことは典礼祭儀の中で生じています。典礼祭儀というのは社会的な儀礼、いい社会儀礼のようなものではなありません。一緒に祈るために信者達が集まる集会でもないのです。これは別のものです。典礼に於いて、神が現存するのです」。それももっとも近い現存です。ミサに於いて、実際に、「主の現存は本物で、まさしく本物なのです」。

 「わたしたちがミサを祝うとき、最後の晩餐の再現の劇をしているわけではありません。これは再現ではありません。別のものなのです。まさに最後の晩餐そのものなのです。まさに改めて主のあがないをもたらす受難と復活を体験することなのです。これは神顕現なのです。主が祭壇の上に現存し、父にささげられ、世を救うのです。わたしたちは次のように聞いたり言ったりします。「でも、ぼくにはできません、今、ミサに行かなくてはならないので、ミサを聞きに行かなければならないので」。ミサは「聞く」ものではなく、参与するものです。それも、この神顕現に参与するのです。このわたしたちの間にある主の現存の神秘に」。

 馬小屋や十字架の道行きは、再現です。ミサは一方、「本当の記念なのです。つまり、神顕現なのです。神は近づき、わたしたちと共にいて、わたしたちはあがないの神秘に参与するのです」。嘆かわしいことに、ミサの時に何度も時計を見ます。「何分かかったか数えるのです」。「それはまさに典礼がわたしたちに求めている態度ではありません。典礼というのは神の時間、神の空間で、わたしたちはそこに入っていかなければならないのです。神の時間、神の空間に入っていくのであり、時計を見に行くのではありません」。

「典礼というのは、まさに神の神秘のなかに入り、神秘に導かれるがままにし、神秘の内にいるがままにすることなのです。たとえば、わたしは皆さんがここに、神秘のうちに入っていくために来ていることを確信してはいますが、もしかすると、「あぁ、聖マルタの家のミサに行かなきゃ。だってローマの観光旅行のコースに聖マルタにいるパパを毎朝訪問するのが組まれているから。聖マルタの家って、観光地でしょ?」という人もいるかもしれません。皆さんは全員、ここに来て、わたしたちはここに、神秘のうちに入っていくために集まったのです。これが典礼です。神の時間、神の空間、わたしたちを包む神の雲なのです」。

 ローマ司教は、子どもの頃、初聖体の準備の間に、祭壇は「神の栄光、神の空間、神の時間の意義を」付すために天使たちによって見守られているのだと指摘する歌があったことを思い出した。そして試験の時に、ホスチアを持ってきて、子どもたちに、「ごらんなさい。ここにあるのは皆さんがもらうものとは別のものですよ。これにはなんの価値もないんです。というのはまだ聖変化が足りないからです!」と言われていました。このように、「典礼を祝うということは、神の神秘のうちに」、神の空間のうちに、神の時間のうちに「入っていき、この神秘に信頼するこの心構えを持つということなのです」。

「今日、わたしたち全員にこの『聖なるものの意義』、この、家で祈ったり教会で祈ったりロザリオを祈ったり他の様々な美しい祈りを唱えたり十字架の道行きや他の美しい行をたくさん行ったり聖書を読んだりすることと、聖体祭儀というのは別のことだということを理解させる意義がもたらされるように主に願うことはわたしたちにとって益となるでしょう。祭儀においてわたしたちは神の神秘、わたしたちにはコントロールできないあの道、ただ唯一の方、栄光である方、権威である方、すべてである方の神秘に入っていくのです。この恵みを求めましょう。主が神の神秘にどのように入れるかをわたしたちに教えて下さいますように。
 (RC-RV)

2014年2月12日水曜日

2月11日、世界病者の日:優しさにおいて育つためにはマリアを見ましょう。マリアのうちで神の憐れみが肉となる。


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2月7日(金)、朝ミサ説教:キリスト者の状況を活用せずに福音を宣べ伝えること


 パパはその説教を、洗礼者ヨハネの殉教から始めて発展させ、彼のように、キリストの本当の弟子は預言をわがもの顔に用いることなく謙遜の道を続けるということを強調した。

 ヘロデは愛人のヘロディアとその娘の気まぐれを満足させるためにヨハネを殺させる。パパは今日の福音で語られたヨハネの悲劇的死について考えを巡らせた。「ヨハネには、人生の短い時間がありました。神のみ言葉を告げ知らせるために短い時間があったのです」。彼は「神がその御子への道を準備するために遣わした人でした」。そしてヨハネはヘロデが宮廷で「祝宴を開いていた時に」その人生を不幸に終えます。

 「宮廷があるところでは、何でも可能です。腐敗、中毒、犯罪。宮廷というところはこうしたものを好むのです。ヨハネは何をしたのでしょう?何よりも主を告げ知らせたのです。救い主は近く、主、神の国は近いということを告げ知らせ、それを力強く行ったのです。そして洗礼を授けていました。すべての人に回心するように呼びかけていました。力強い人だったのです。そしてイエス・キリストを告げ知らせていました」。

 「ヨハネが行った最初の大偉業は、イエス・キリストを告げ知らせることでした」。他にしたことと言えば、「その道徳的権威を我が物顔でもちいらなかったことです!」「『わたしがメシアだ』という可能性が与えられていました。というのは多くの道徳的権威があったからです」。「あらゆる人々が彼のもとに行っていました」。そして福音はヨハネがすべての人に回心するようにと執拗に訴えたことを語っています。そしてファリサイ派の人々、学者たちはこの自分の強さを見ていました。「彼はまっすぐな人でした」。そこで彼はメシアかどうかと尋ねてきたのです。そして、あの「虚栄の有柄悪の瞬間に」、澄ました顔」をつくろい、「よく分りません」と「偽りの謙遜」をもって言えてしまうあの瞬間に、その代わりに「違う!わたしはそれではない!わたしより後から来られる方はわたしよりも力強く、わたしにはその肩の履物を脱がせることすらできないほど価値がないのです」と言うのでした。ヨハネは、「はっきりしていました」。「呼び名を盗むことをしませんでした。使命を我がもの顔で振りかざすことはありませんでした」。これが、つまり、「『真理の人』が行った二つ目のことなのです」。「尊厳を奪わないこと。ヨハネが行った三つ目のことは、キリストを真似することです」。ヘロデも、彼を殺したのです。「イエスがヨハネではないかと思っていた」からです。ヨハネは、「へりくだりの道で徳に」イエスを真似しました。ヨハネは謙遜になり、極限まで、死にいたるまでへりくだりました」。

 「恥ずかしさを与える死。ヨハネにも自分の『オリーブの園』がありました。牢屋で不安になり、間違ってしまったと思っていた時に、イエスに自分の弟子たちを送って質問させました。『おっしゃってください。あなたが間違っているのか、わたしが間違っていたのか、他にいるのでしょうか?』と。魂の暗闇、オリーブの園にいたイエスのように浄めるあの暗闇です。そしてイエスはヨハネに、慰めを受けて答えました。あの神の人、神の女性の暗闇です。福者カルカッタのマザー・テレサの魂の暗闇について今この瞬間にわたしは考えます。でしょう?あぁ、あらゆる人々がたたえていた女性、ノーベル賞も得た人です!けれどその人生、長い人生のある瞬間には、ただ暗闇があったことを知っていたのです。

 「イエス・キリストを告げ知らせる人であるヨハネは」「預言を我が物顔で用いることはしませんでした」。彼は弟子のモデルです。けれど、「この弟子の態度の源泉はどこにあったのでしょうか?」それは出会いに会ったのです。福音は、マリアとエリザベトの出会いの時に、ヨハネがエリザベトのお腹の中で喜びのあまり飛び跳ねたと私達に語っています。彼らはいとこ同士だったのです。「おそらく、その後も何度も出会っていたことでしょう。そしてあの出会いは喜びに満ちていました。ヨハネの心を喜びでいっぱいに満たしてくれたのです。そして彼を弟子としたのです」。ヨハネは「イエスを告げ知らせる男、イエス・キリストの居場所で成り替わることのない人、そしてイエス・キリストの道に従う人でした」。

 「わたしたちの弟子としての生き方について自問するのは役に立ちます。イエス・キリストのことをわたしたちは告げ知らせているでしょうか?まるで特権のように、キリスト者というわたしたちの状況を活用する、あるいは活用しないでいるでしょうか? ヨハネは預言を我が物顔で持ちいらなかったでしょうか?軽蔑の道、謙遜の道、奉仕のためにへつらうほど下がることは?わたしのイエス・キリストとの出会いはいつだったでしょうか?あの、喜びで満たしてくれたあの集いは?そして出会いに戻るといえば、最初の出会いのガリラヤに戻りましょう。わたしたち誰にでも一つはあります!そこに戻るのです!主と出会い直し、この実に美しいこの道を前進するのです。そこでは彼が大きく育ち、わたしたちは小さくなるのです
. (RC-RV)

2014年2月7日金曜日

第29回世界青年の日(ワールド・ユース・デー)2014教皇メッセージ

 
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ53節)。

愛する青年の皆さん:

 第28回世界青年の日に、リオ・デ・ジャネイロで体験した尋常ではない集いがわたしの思い出に刻まれています。あれは信仰と兄弟愛の大祭典でしたね!ブラジルのいい人たちが、コルコバードの高みからコパカバーナの海岸に拡がる全貌を治める贖い主キリストの像のように、両腕を拡げてわたしたちを迎えてくれました。海辺で、イエスは、わたしたちがイエスの弟子である宣教者となり、イエスをわたしたちの人生の最も貴重な宝として見出し、その富を他の人々、近くにいる人々にも遠くにいる人々にも、そして現代の地理的また存在的郊外の最果てにいる人々にも分かち合うようにと、わたしたち一人ひとりを改めて呼びかけ直されました。
 青年たちの諸大陸間巡礼の次のステップは、2016年のクラクフです。わたしたちの歩みを刻んでいくために、皆さんと一緒に向こう三年間、マタイ福音書で読まれる真福八端(5112節)について考えを巡らせていきたいと思っています。今年は、そのうちの最初のものを黙想し始めます。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」(マタイ53節)。2015年は「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」(マタイ58節)で、最後に、2016年のテーマは「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」(マタイ57節)になります。

1.真福八端の革命力

真福八端を読んだり黙想したりするたびにわたしたちに益となります。イエスはガリラヤ湖の沿岸で、その偉大な最初の説教をしました。あまりに大勢の人がいたので、弟子たちに教えるために山に登ったのです。だから、その説教は「山上の垂訓」と呼ばれています。聖書では、山というのは神さまが自らを啓示するところです。そしてイエスは、山から説教をしながら、自らを神からの教師、新しいモーセとして紹介します。では、何を教えるのでしょう?イエスは自分自身も歩んでいく道、いやそれよりも もっとです、自分自身が道であるのでその道を教え、これを本当の幸せへの道として提案しています。その一生涯、ベトレヘムの洞窟で生まれたところから十字架の死と復活まで、イエスは真福八端を受肉させていました。神の国のあらゆる約束はイエスの中で成就されていたのです。
真福八端を宣言するにあたりイエスは、自分に従い、永遠の命へと導く唯一の道である、愛の道を自分と一緒に歩むようにとわたしたちを招きます。簡単な道ではありませんが、主はわたしたちにその恵みを約束し、決してわたしたちを一人ぼっちにはしません。貧困、苦悩、軽蔑、正義のための闘争、日々との回心における疲れ、聖なる生き方をするようにとの呼びかけを身をもって生きる時の困難、迫害、それ以外にもたくさんの挑戦が、わたしたちの人生にはあります。けれど、もしイエスに対して扉を開くなら、もしイエスがわたしたちの生活の中にいるようにしたら、もし喜びも苦しみもイエスと分かち合うなら、無限の愛である神のみが与えることのできる平和と喜びを体験することでしょう。
イエスの真福八端は、ある種の革命的ニュース、つまり支配的意見である、習慣的にメディアがわたしたちに伝達しているものとは正反対の幸福のモデルを運ぶものです。世俗的な物の考え方では、これは神がわたしたちのうちの一人となるために来られたというスキャンダル、そして十字架で死んでしまったというスキャンダルです。この世のロジックでは、イエスが真福であると宣言している人々は、「負け組」、弱い者と考えられている人々です。一方で、手段を選ばぬ成功、いい暮らし、権力の傲慢、他の人々への偏見に基づく自己肯定といったことが持ちあげられています。
愛する青年の皆さん、イエスはわたしたちがその命の提案に応え、ほんとうの喜びに至るためにわたしたちが回ろうとしている道はどれなのかを定めるように求めています。それは信仰にとっての大変な挑戦のことです。イエスは恐れることなく、弟子たちに本当に自分について来たいのか、それとも他の道に行きたいのかを問います(ヨハネ667節参照)。そしてペトロ(岩)と呼ばれるシモンには、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか?あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」(ヨハネ668節)と答える勇気がありました。もしみなさんが、イエスに「はい」と答えることができるなら、その時皆さんの若いいのちは意味に満たされ、実りをもたらす能力のあるものとなるでしょう。

2.幸せになるための勇気

けれど、『真福な人々(ギリシャ語で「マカリオイ」)』とはどういう意味なのでしょうか?真福とは、幸せのことです。みなさん、わたしに聞かせてください。みなさんはほんとうに幸せを求めていますか?わたしたちを惹きつける幸せの装いをしたものがあまりにたくさんある時代にあって、わたしたちは少しのもので満足してしまう危険、いのちについての「ちっぽけな」アイデアを持つことで満足してしまう危険にあります。そうではなく、大きいことに心を躍らせなさい!あなたたちの心を拡げなさい!福者ピエルジョルジオ・フラッサーティがこんなことを言っていました。「続く戦いの中で、信仰も持たず、守るべき遺産をも持たず、支えることもなく生きることは、本当は、生きるとは言わない、それは引きずられていく、と言うのだ。わたしたちは決して引きずられてはならない、生きなければならないのだ」(I.ボニーニへの手紙、1925227日)。1990年の520日に行われたピエルジョルジオ・フラッサーティのれっ福式の日、ヨハネパウロ二世は彼のことを「真福の男」と呼びました(ミサ説教AAS 82 [1990], 1518)
ほんとうにみなさんの心の最も深いところにある望みを引き出させ、みなさんの中に消し去ることのできない幸せへの願いがあることに気づくでしょう。そしてこのおかげで、皆さんの周りにたくさん見受けられる「安っぽい」特典の正体を暴き、これを拒むことができるようになるでしょう。成功や快楽、利己的に所有することを求める時、わたしたちはこうしたものを偶像とします。気分よく酔い痴れたり、偽りの満足感を得たりする体験をもするかもしれませんが、最終的には自分を奴隷にし、満足することは決してなく、いつももっともっと、と求める必要性を感じるものです。「飽き足りている」けれども弱い青年層を見るのはとても悲しいことです。
聖ヨハネは、青年たちに向けて言葉を書くにあたりこう言っていました。「あなたがたは強く、神の言葉があなたがたの内にいつもあり、あなたがたは悪い者に打ち勝った」(Iヨハネ214節)。イエスを選ぶ青年たちは強く、みことばによって養われ、他のいろいろなことで「腹をいっぱいに」しません。大胆に流れに逆らって行きなさい。ほんとうの幸せを探し求める能力を身につけなさい。皆さんには責任を取ったり人生の大きな挑戦に立ち向かう力がないと見做してくる、その場限りのものの文化、表面的なものの文化、使っては捨てての文化に「否(違う、駄目だ、いらない)」と言いなさい。

3.心の貧しい人々は、幸いである…
最初の真福は、来る世界青年の日のテーマですが、心の貧しい人たちに対してその人たちは天の国が彼らに属しているのでその人たちは幸せなのだと宣言します。こんなにも多くの人々が経済危機のせいで苦しんでいる時代に、貧困を幸福と並べるなど、勘違いも甚だしいように見えるでしょう。どういう意味で貧困を祝福として語ることができるのでしょう?
まず、「心の貧しい人々」とは何を意味しているのか理解するように頑張ってみましょう。神さまの息子が人となった時、貧しさの道、軽蔑される道を選びました。フィリピの信徒への手紙の中で聖パウロがこう言っています。「皆さん互いに、キリスト・イエスに特有の感情を抱き合いなさい。それはキリストが、神の条件にありながら、神と等しい者であることに必死にしがみつこうとは思わず、かえって自分自身を脱ぎ捨て、奴隷の条件を身に受け、人間どもと同じようなものになられたときの感情です」(257節)。イエスは自らの栄光を脱ぎ捨てる神なのです。ここに、神の側からの貧しさの選択を見ることになります。豊かでありながら、その貧しさをもってわたしたちを豊かにするために貧しくなられたのです(IIコリント89節参照)。これはベツレヘムで観想する神秘です。神さまの息子を馬のえさ箱の中に見、その後、軽蔑が最高潮に達するところである十字架に見ながら。
ギリシア語の形容詞「プトホス(貧しい)」にあるのは、物質的な意味だけではありません。「物乞い」の意味もあるのです。これはユダヤ人のものの考え方にある「アナウィン」、つまりヤーウェの「貧者」とつながっており、謙遜や自分の限界に対する意識、自分の存在論的貧しさへの認識を連想させます。アナウィンたちは、主に信頼し、主に依存することを知っています。
イエスは、幼きイエスの聖テレジアが完璧に理解したように、その受肉において自らを物乞いとして、愛を必要としてこれを探し求める人として紹介します。『カトリック教会の教え』は人のことを「神の物乞い」として語っていて(2559番)、祈りとは神の渇きとわたしたちの渇きとの出会いである、とわたしたちに語ります(2560番)。
アシジの聖フランシスコは、心の貧しい人々という真福の秘密をとてもよく理解しました。実際、イエスがハンセン氏病の人や十字架の中からフランシスコに語りかけた時、フランシスコは神の偉大さと自分のへりくだりに定められた条件を認識したのです。祈りの中で、〈貧者(フランシスコの愛称)〉は主に「あなたはどなたですか?わたしは何者でしょう?」と尋ねて何時間も過ごしました。居心地のよく、明日を心配する必要のない生活を脱ぎ捨て、「貧困婦人」と結婚し、イエスのまねをして文字通りに福音を踏襲することになりました。フランシスコは貧しいキリストの模倣と貧者たちへの愛とを、同じ硬貨の裏表のように、別ち得ないものとして体験しました。
みなさんはわたしにこう質問するかもしれません。この心の貧しさがわたしたちの存在の中で具体的に反映されるようなライフスタイルに変わるようにするには、わたしたちはどうすればいいのですか?と。皆さんに、三つのポイントを示してお答えしましょう。
何よりもまず、物事との関係において、自由であるように努めなさい。主は、消費文化に引きずられない、目覚めた福音的なライフスタイルにわたしたちを招いています。本質的なものを探し、わたしたちをおぼれさせるたくさんの余分なものを脱ぎ捨てることを学ぶことを言っています。持つことへの貪欲や、偶像化されのちに浪費される金銭を手放しましょう。イエスを第一に据えましょう。イエスはわたしたちを奴隷にする偶像たちから解放することができるのです。神さまに信頼するのですよ、愛する青年の皆さん!神さまはわたしたちのことをよく知っており、わたしたちを愛し、決してわたしたちのことを忘れることがないのです。野のユリたちの面倒を見るように(マタイ628節参照)、わたしたちに何か足りない状態に放っておくことはありません。経済危機を乗り越えるためにも、ライフスタイルを変え、無駄な浪費を避ける心構えがなければなりません。幸せになるために勇気がいるように、目覚めてあるためにも勇気が必要なのです。
二番目に、この真福を生きるためには、貧しい人たちへの関わり方においての回心が必要です。貧しい人たちのことを心配し、その霊的また物質的な必要に対して敏感であるべきなのです。青年のみなさん、みなさんには特に、人間文化の中心に連帯を据え直す務めを委ねます。職業難、移民、様々なタイプの依存症といった、貧困の昔からのあり方と新しいあり方を前にして、無関心という誘惑に打ち勝って注意深く、目覚めている義務がわたしたちにはあるのです。愛されていると感じていない人々、将来への希望のない人々、落胆したり、幻滅したり、臆病になったりしていて人生に献身するのをあきらめる人々のことをも考えましょう。貧しい人たちと一緒にいることを学ばなければなりません。貧しい人々についての美しい言葉で口を満たすことのないようにしましょう。貧しい人々に近づいて行き、その目を見つめ、貧しい人々が言っていることに耳を傾けましょう。貧しい人たちというのは、わたしたちにとっては、キリスト自身に出会い、苦しむキリストの肉体に触れる具体的なチャンスなのです。
けれど貧しい人たちは ―そしてこれが三つ目のポイントですが―、わたしたちが何か与えることのできる相手の人、というだけではありません。貧しい人たちにもわたしたちに提供できるもの、教えられるものがあるのです。わたしたちは貧しい人たちの知恵からどれほど多くのことを学ばなければならないでしょうか!18世紀の聖人でベネディクト・ヨセフ・ラブレという人がいますが、彼はローマの通りで寝、人々の施しで生活していましたが、多くの人々の霊的助言者になりました。その中には貴族や高位聖職者として威張っていた人々もいたのです。ある意味で、貧しい人々というのは、わたしたちにとって教師のような存在です。わたしたちに、人が価値あるのは、持っているものによるのではない、銀行にある貯金がどれほどあるかによるのではないということをわたしたちに教えています。貧しい人、つまり物質的なものを持っていない人は、いつもその尊厳を保ちます。貧しい人たちはわたしたちに多くのことを教えることがありえます。謙遜や神への信頼についてもです。ファリサイ人と徴税人のたとえ(ルカ18914節参照)の中で、イエスはこの後者の方を模範として紹介します。というのはこの人は謙遜で自らを罪びととみなしているからです。また神殿の賽銭箱に小さな硬貨二枚を投げ入れるやもめも、持っているものは少ない、あるいはまったく無いにしてもすべてを与える人の、寛大さの模範です(ルカ2114節参照)。

4.天の国は、その人たちのもの(だから)である
イエスの福音で中心となるテーマは、神の国です。イエスは人となった神の支配、インマヌエル、神-我らと-共になのです。神の国、神の支配権が確立し育つのは、人の心の中です。神の国は同時に、賜物であり約束でもあります。すでにイエスにおいてわたしたちに与えられたものですが、その満ち満ちた状態において成就するまではまだまだです。だからこそ毎日わたしたちは御父に向かって「み国がきますように」と願い求めるのです。
貧しさと福音化との間、前回の世界青年の日のテーマである「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ2819節)との今年のテーマである「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ53節)との間には、深い絆があります。イエスは十二人を送り出す時に、「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には服も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である」(マタイ10910節)と彼らに言いました。福音的貧しさは神の国が広まっていくための基本条件なのです。わたしが人生の歩みの中で見たもっとも美しく自然な喜びは、しがみつく者がほとんどない貧しい人々の喜びです。福音化は、わたしたちの住む現代では、喜びの伝染を通してのみ可能となるでしょう。
これまで見てきたように、心の貧しい人々の真福はわたしたちの神との関係、物質的財産との関係、貧しい人々との関係のあり方を正します。イエスの生き方の模範とことばを前にすると、わたしたちに、回心や、存在するということのロジックが、より多く持つことのロジックにずっと勝るようにすることの必要性がどれほどあるか、気づかされます。聖なる人々とは、真福八端の深い意味を一番よくわたしたちに理解させてくれる人のことです。復活節第二主日に行われるヨハネ・パウロ二世の列福式はその意味で、わたしたちの心を喜びで満たしてくれる出来事です。ヨハネ・パウロ二世こそが世界青年の日の保護聖人になるでしょう。これを始め、推進した人ですから。聖人たちとの交わりの中で、皆さん全員にとって、父であり、友であり続けるでしょう。
次の四月はまた、青年たちに贖いの歓喜の十字架が渡されてから30周年になります。まさにこの象徴的な行為に端を発してヨハネ・パウロ二世はその時から、五大陸を乗り越えて続けられている青年の大巡礼が始まったのです。1984年の枝の主日に、その行為に伴ったパパの言葉を覚えている人は大勢いることでしょう。「愛する青年たち、聖年を締めくくるにあたり、この歓喜の年のシンボルを皆さんに委ねます。キリストの十字架です!人類への主イエスの愛のしるしとしてこの十字架を世界じゅうに運び、すべての人に死んで復活されたキリストの内においてのみ救いとあがないがあるのだということを告げ知らせなさい。」
愛する青年のみなさん、マグニフィカット、つまり心の貧しいマリアの賛歌は、真福八端を生きている人の歌でもあります。福音の喜びが貧しい心から湧き出て、いつの世の人も「幸いな者」と呼んでいるおとめの心のように、神の業に喜び、驚くことを知るのです(ルカ148節参照)。貧しい人々の母であり新しい福音化の星であるマリアが、福音を生き、わたしたちの生活に真福八端を受肉させ、大胆にも幸せになるのを助けてくださいますように。
バチカン、2014121日、おとめ殉教者聖イネスの記念日に。

2月6日(木)、朝ミサ説教:神に信頼するということは、今、また生活の些細なことから始まる。


 今朝聖マルタの家で捧げられたミサの中で、パパ・フランシスコは死の神秘について考えを巡らし、三つの恵みを神に求めるようにと招いた。教会のふところで死ぬこと、希望のうちに死ぬこと、キリスト者の証しという遺産を残して死ぬこと。

 その説教で、パパはその民のための奉仕に捧げられた生涯を送った末の、ダビデの死を物語る今日の第一朗読のコメントをした。三つのことを強調した。第一のものはダビデが「その民の腕の中で」死ぬところである。「神の民へのその帰属が」最後まで生きています。罪はありました。自分のことを『罪人』と呼んでいましたが、決して神の民を離れなかったのです!」

「罪人ではありました、裏切り者ではありませんでした!そしてこれは恵みなのです。神の民に最後まで留まること。そしてこれが強調したかった最初のポイントです。わたしたちのためにも家で死ぬ恵みを求めます。家で死ぬ、つまり教会で死ぬ、ということです。これは恵みです!これは変えないものです!これは神からのプレゼントで、わたしたちが求めなければならないものです。『主よ、わたしに家で、つまり教会で死ぬというプレゼントを下さい!』と。罪びとは罪びとです。わたしたち全員がそうですよ!けれど裏切り者は、違います!いつも中に!そして教会はやはり母でして、何度も汚れていても、教会がわたしたちを洗う、というようにわたしたちのことを愛しています。母なのです。」

 二つ目の回想。ダビデは親たちと「一緒にいることになる向こう側に向かって」歩いて行く確信をもって、「穏やかに、平和のうちに、落ち着いて」死にます。「これはもう一つの恵みです。希望のうちに、向こう側でわたしたちを待っている人たちがいるというしっかりとした意識を持った状態で死ぬ恵みです。向こう側で家が存続し、家族があり続け」、わたしたちはひとりぼっちではないという意識です。「そしてこれこそわたしたちが願わなければならない恵みなのです。というのは、人生の最後の時に、人生というのは一つの闘争であることを知り、悪い霊はそこで勝機を狙っているからです」。

 「幼きイエスの聖テレジアは、その最後の時に、自分の魂の中に闘争があり、彼女が未来のことを考えると、死んだあとに、天国において待っておられる方について考えていると、『いや、違う、バカになるんじゃない、お前を待っているのは暗闇だ。無の暗闇だけがお前を待っているのだ!』という声がしたというのです。そう言った、と。それは悪魔、悪霊の声であり、彼女が神に信頼するのを望まない悪霊の声だったのです。希望のうちに死ぬことと神への信頼のうちに死ぬこと!そしてこの恵みを願うことです。けれど神に信頼することは、今、人生の小さなものごとのうちに、また大きな問題のうちにも始めるべきものです。主にいつも信頼することです。そうすれば、主に信頼するこうした習慣が身につき、希望が育まれるのです。家で死ぬということは、希望のうちに死ぬことなのです」。

 三つ目の回想は、ダビデが残す遺産のことであった。「遺産相続に関しては、あまりに多くのスキャンダルが取り巻きます」。「家族におけるスキャンダルで、家族を分裂させるものです」。一方、ダビデは、「40年の統治の遺産を残します」。「そして固められた、強い民を残すのです」。 「民間の言い回しに、人は誰でも、人生において、一人の子供を残し、一本の木を植え、一冊の本を書かなければならない、これこそが最上の遺産だ!と言うものがあります」。そこで自問するように呼びかけた。「自分は自分より後から来る人々に何を残すだろうか?命の遺産だろうか?自分のことを父や母として人々が好いてくれるように、たっぷりよいことをしてきただろうか?木を植えただろうか?いのちや知恵を与えただろうか?本を書いただろうか?と」。ダビデは自分の息子にこうした遺産を次のように言いながら残します。「お前は、強くありなさい。男らしく人に示しなさい。主の道を歩み、その掟に従いながら、主の掟を守りなさい。

 「これこそが遺産なのです。わたしたちのキリスト者として他の人々に残される証しです。そしてわたしたちの中には、大きな遺産を残す人もいるでしょう。いのちの道と生き方を遺産としてわたしたちに残してくれた、実に力強く福音を生きた聖人たちのことを考えましょう。こうしたことが、ダビデの死についてのこの個所を読んで心に浮かんでくる三つのことです。家で死ぬ恵み、教会で死ぬ恵みを願うこと、希望のうちに、希望を持って死ぬ恵みを求めること、素晴らし遺産、人間的な遺産、キリスト者としてのわたしたちの生きた証しをもってできた遺産を残す恵みを願うことです。聖なるダビデがわたしたちすべてにこの三つの恵みをもたらしてくれますように!」
(RC-RV)

2月5日(水)、一般謁見:聖体の秘跡

2014年2月5日水曜日

2月4日(火)、朝ミサ説教:父なる神もその子らのために涙を流す


 神も涙を流します。その嘆きは子どもたちを愛するあの父親の嘆きのようです。そしてたとえ反抗しても決して拒むことなく、いつも彼らを待っています。パパ・フランシスコは聖マルタの家での今朝捧げられたミサの間にこう語った。

 この日の朗読は二人の父親の姿を紹介しています。一つは、反旗を翻した息子アブサロムの死に涙するダビデ王、もう一人は娘の癒しをイエスに嘆願するシナゴーグの会堂長ヤイロです。教皇は、自分に対していくさを挑んで王国を乗っ取ろうとしたにもかかわらず、その息子の殺害の報告を受けた後のダビデの嘆きについて説明した。ダビデの軍隊は勝利したけれど、ダビデは勝敗などどうでもよかったのです。「息子を待っていたのです!ただ息子のことだけが気になっていたのです!彼は王、国のトップでしたが、父親だったのです!そしてこのようにして我が子の最期の知らせが届くと、抑えられない感情にうち震え、上にある部屋に昇り…そして泣いたのです」。

「昇りながらこう言っていました。『我が子よ、アブサロム、我が子よ !我が子よ、アブサロム!お前の代わりにわたしが死ねばよかったのに! アブサロム、我が子よ!我が子よ!』 これが我が子を決して拒まない父親の心です。『こいつはごろつきだ。こいつは敵だ。でも俺の子だ!』 そして父であることを否定しません。泣きました… ダビデは息子のために二度泣きました。今回と、もう一つ姦淫による息子が死にそうになっていた時です。あの時もダビデは断食をし、息子のいのちを救うために償いをしました。ダビデは父親だったのです!」

 もう一人の父親はシナゴーグの会堂長です。「重要な人物でしたが、娘の病気を前にしてはイエスの足元にひざまずくのを恥としません。『わたしのちっちゃな娘が死にかけています。両手を置いてやりに来てください。そうして娘が救われて生きるように!』 恥などないのです」、他の人々が何を言おうと構いません。なぜなら父親だからです。ダビデとヤイロは二人の父親なのです。

「彼らにとっては、一番大切な人は息子であり、娘であるのです!他には何もありません。立ったひとつの大切なものです!信仰宣言で神にわたしたちが言う最初のことについて考えさせられます。『…父である神を信じます…』 神の父性について考えさせられます。いやはや神はそういう方なのです。神はわたしたちに対してそうなのです! 『でも、神父さま、神さまは泣きませんよ!』とおっしゃる方もいるでしょう。何を言っているんですか!イエスのことを思い出しましょう。エルサレムを見ながら泣いた時のことです。『エルサレム、エルサレム、めんどりが雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか』(マタ23章37節)。神は泣くのです!イエスはわたしたちのために泣きました!そしてイエスのあの嘆きはまさに、自らの周りですべての人を愛する父の嘆きを代表するものでした。

「困難の時に、父は答えます。アブラハムと犠牲をささげに行く時のイサクのことを思い出しましょう。イサクはバカではありませんでした。薪は持っていっていて、火があるのに、犠牲のための羊がいないことに気付いたのです。心に恐れがありました!そこでどんな言葉を口にしますか?『お父さん!』です。そこですぐに、『息子よ、ここだよ』と答えます」。父は答えます。そのように、イエスは、オリーブの園で「あの苦悩を心に抱えて言います。「お父さん、もし可能ならば、わたしからこの杯を遠ざけてください!』。そして天使たちが彼に力を与えるためにやって来ました。わたしたちの神はこうなのです。父なのです!彼は父なのです!」。「全額全財産を持って」出て行った放蕩息子を待つあの人のような父です。「けれど父は」毎日「彼を待っていたのです。そして遠くから彼を見つけました」。「それこそがわたしたちの神です!」そして「わたしたちの不正は、つまり家庭での父親の父性も然り、司教や司祭たちの霊的な父性も然りですが、このようでなければなりません。父は子どもからもたらされる油注ぎのようなものを受けています。我が子なしでは自分自身のことを理解することはできないのです!そしてこのために子どもを必要とするのです。子どもを待ち、子どもを愛し、子どもを探し、子どもをゆるし、自分の近くに子どもにいてほしいと望むのです。めんどりがその雛を近くに寄せるように近くにいてほしいと望むのです」。

「今日この二つのイメージを持って家に帰りましょう。ダビデは泣き、もう一人のシナゴーグの会堂長は恥を受け他の人々に笑われることをも恐れずにイエスの足元に身を投げ出します。子どもたちが危機にさらされていたのです。息子が、娘が。そしてこの二つのイメージを持って、『父である神を信じます…』と言いましょう。そして聖霊に、―というのは彼だけが、聖霊だけができるので― 『アッバ!お父さん!』と口にすることをわたしたちに教えてくれるように願いましょう。これは恵みなのです!神に『お父さん、父よ!」と心から言えるのは、聖霊の恵みなのです!聖霊にこの恵みを求めることです!
 (RC-RV)

2014年2月4日火曜日

2月3日(月)、朝ミサ説教:困難の時に神や民を自己防衛のために用いないこと


 聖マルタの家でのミサで今朝、パパ・フランシスコは、息子アブサロムの裏切りを前にしたダビデの態度についてコメントしながら、いつも神への信頼の道を選ぶようにと勧告した。

 ダビデ王は、自分の息子アブサロムが裏切ったので逃げます。教皇はその説教を、この「大いなる裏切り」とその結果について語るサムエル記下からとられた第一朗読を中心にした。ダビデは悲しみます。というのは「民も」息子と共に王に反旗を翻していたからです。そして「まるでこの息子が死んでしまったかのよう」に感じます。けれど、「では、この息子の裏切りを前にしたダビデの反応はどのような物だったのでしょうか?」 教皇は三つの態度を指摘した。何よりも、ダビデは「政治屋として、あるがまま現実を手に取り、この戦争はとてもきついものとなり、多くの死者を出すだろうと知っています」。だから、「自分の民が死なないようにする決断を取ります」。彼は「エルサレムで自分の息子の軍隊と戦う事もできた」はずですが、エルサレムが破壊されないようにと決断します。

「ダビデは、これが最初の態度なのですが、自己防衛のために神もその民も用いません。そしてこれこそが一人の王の、自分の神とその民への愛を意味するのです。罪ある王は、-その話を知っていますよね-それでもこの大いなる愛を持っています。その神にしっかりひっついていて、またその民にしっかりくっついています。そして自己防衛のために神もその民をも用いないのです。人生における逆境で、おそらく絶望からどうでもいいから自分を守ろうとして、神や人々をも用いることまであるかもしれません。ダビデは違います。これが最初の態度です。神もその民をも用いないこと。

 そこでダビデは逃げることを選びます。二つ目の態度は「償いに満ちたもの」です。「泣きながら」「頭を布で覆い足も裸足で」歩きながら山に登ります。そして「ダビデと共にいた人々は全員頭を布で覆い、登りながら泣いていました」。これは本当に「償いの歩み」でした。「おそらく、その心の中には恐ろしい事、自分が犯してきた多くの罪がたくさん浮かんできたでしょう」。自分は「無実」ではないと考えたでしょう。また自分の息子が裏切るのは正しくないと考えながらも、自分も聖人ではないことを認識し、「償いを選びます」。


「この山登りは、その別の、つまりイエスがエルサレムから出て行ったときのことを考えさせます。イエスも痛みに満ち、裸足で、自分の十字架をかつぎながら山を登ったのです。この償いの態度です。ダビデは喪に服し泣くことを受け入れます。わたしたちは、自分たちにこうしたことが起こると、いつも、本能的に、自己正当化に走ります。ダビデは自分を正当化しようとしません。彼は現実主義者で、神の箱とその民を救う方法を探します。そしてその歩みをもって償いをします。彼は偉大です。大変な罪人であり、大変な聖人です。どうしてこの二つのことが並行してあり得るのでしょう・・・神のみぞ知る!」

 歩みの中で、もう一人の登場人物が出てきます。シメイという人ですが、ダビデとその従者達全員に石を投げてきます。彼はダビデを呪っていく「敵」です。王の友人の一人が、そこで、この「不吉なうっとうしい男」、この「死んだ犬」を殺したいと表明します。しかしダビデはこれを留めます。「あれほどの罵倒に対して復讐を選ぶ代わりに神への信頼の方をとるのです」。さらに、シメイが呪っているのは「主に命じられた」のだからと、呪うがままにするように言います。「ダビデはいつも、何かが起こるのは、主が許可したからだと知っています」。「ダビデは、主は自分の苦しみを見、今日の呪いの代わりに良いことをして下さるだろうと考えるのでしょう」。三つ目のダビデの態度はつまり、主に信頼することです。ダビデの振る舞いも、わたしたちに益となりえます。「なぜなら」暗闇と試練の時を通して「わたしたちは誰でもいのちについて考えるからです」。そういうわけで、ここにダビデの三つの態度があります。「神やわたしたちが属しているものと取引しないこと」、「償いを受け入れて自分の過ちについて泣くこと」、最後に「自分の手で裁きを下さず、神に信頼することを求めること」です。

 このことを感じ、こうした三つの態度を見るのは素晴らしいことです。神を愛し、その民を愛し、取引をしない人、自らを罪人と感じて償いをする人、自分のに安心感を抱き神に委ねる人です。ダビデは聖人です。そしてわたしたちは彼を聖人として崇敬しています。ダビデに、人生の逆境においてわたしたちが、こうした態度でいられるようにと教えてくれるよう、取り次ぎを求めましょう。

2月2日(日)、お告げの祈り:奉献生活者は、神のしるしとたまもの、より公正で兄弟愛に満ちた社会の成長のためのパン種


 パパ・フランシスコは、世界奉献生活者の日、ローマの雨降りの主日、主の奉献の祭日に行われたサン・ピエトロ広場でのお告げの祈りの時に、今日の教会と世界がどれほど修道者の存在を必要としているかを強調した。

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2014年2月3日月曜日

教皇、カトリックカリスマ刷新の集いを訪問する予定

※ このページはこちらのサイトの邦訳です。

 パパ・フランシスコは、6月1日と2日に祝われる、イタリアのカトリックカリスマ刷新の第37回全国総会に参加するためにローマのオリンピック・スタジアムに赴く予定である。

 「カトリックカリスマ刷新の総責任者にバチカンの秘書部によって公的になされたこの常軌を逸するニュースで、カリスマ刷新に属する人々に大いなる感謝の念が注ぎこまれるでしょう」。当該運動によって1月29日に出版された新聞社の報告を読むとこのような文章に出会う。

 アドリア海岸のリミニで伝統的に祝われる、何千人級の集いであるが、パパの訪問のために、今年はイタリア中心部で行われることになる。

 刷新の運動に属さない人であっても、「福音の喜びを証しするための宣教の『出向き』に教会を据えようというパパ・フランシスコの願いへの応えとして刷新によって企画される祈りと福音化のこの大イベントに参加しようと望み、この機会に感謝している」司祭団や一般信徒たちによる大いなる働きがある。


前代未聞の出来事
 パパ・フランシスコが教会のこの潮流にある集いに顔を出すことは、刷新運動と教会の歴史の中で歴史的で前代未聞の出来事になるであろう。


 カトリックカリスマ刷新のリーダーたちや、何千ものメンバーがバチカンのサン・ピエトロに赴き、これまでの教皇たちとの会見を求めたことはあったが、今まで教皇がバチカンを離れてカリスマ刷新の独自の集いに赴くということは決してなかった。

 新聞記事はさらに、オリンピック・スタジアムの舞台について触れながら、「我々の時代の《アレオパゴス》、つまり都心部の象徴的な場所のひとつをパパが訪問するのは最初のこととなるでしょう。そこではイタリアと世界の様々な場所から到着する5万人ほどの信者が予想されており、教皇は彼らと交わります」と指摘している。 

カリスマ的人々についてのフランシスコのコメント
 去年の7月に、リオ・デ・ジャネイロのワールド・ユース・デーの帰りの飛行機の中で記者団に対して行われた教皇の記者会見の間、カリスマ刷新について語る機会が持たれた。新聞記者の一人は次のように質問した。
 「カリスマ刷新の運動は、信者たちがペンテコステ派の教会に行かないようにするための誤魔化しでしょうか?」 

 教皇はその機会に次のように語った。「何年も前、70年代の終わりか80年代の初めには、わたしは彼らに会ったことがありませんでした。一度、彼らと語りながら次のように言ったことがあります。『この人たちは典礼祭儀とサンバの学校とを履き違えている』と。このようにわたしは言ったのです。わたしは考え直しました。その後で、もっとよく彼らのことを知ることになりました。よい指導者たちに恵まれた時には、この運動がよい歩みをしたことも確かです。そして今は、この運動は、一般的には、教会にとても益になっていると思います。ブエノス・アイレスでは、わたしはしばしば彼らを集め、1年に一回カテドラルで彼らみんなとミサをささげたものです。わたしがやり直したとき、彼らがしている良いことを見た時、わたしはいつも彼らを支えてきました。なぜなら教会のこの時点で、―そしてここでは、もうすこし答えを拡げますが―わたしは多分様々な運動が必要なのだと思うのです。様々な運動というのは、聖霊の恵みだと思います。

 『でもこんなにも自由勝手な運動をどう支えることができるのですか?』と問う人もいるでしょう。教会も自由です。聖霊は為したいことをするのです。しかも、聖霊は調和のはたらきをします。けれどわたしは様々な運動というのは恵みだと思います。教会の精神をもっている諸運動は。ですからカリスマ刷新の運動は、ペンテコステ派の信仰告白へと移行するのを妨げるためだけに役立つのではありません。それではないのです。教会そのものに役立つのです。つまりわたしたちを新たにするのです。そして一人ひとり自分のカリスマに従って、聖霊が促して連れて行くところで、自分の運動を探すのです。


賛美の祈り
 一方で、賛美がカリスマ刷新だけの何かなのではなく、全キリスト者のものであるべきであると確認しながら、ちょうど1日前、1月28日に、聖マルタでの説教で、パパは賛美の祈りについて語るにあたりカリスマ刷新について触れた

 カトリックカリスマ刷新のイタリアにおける去年の全国総会では、新宣教推進委員会議長のリノ・フィジケッラ卿の臨席を仰いだ。その際、フィジケッラ卿は参加者たちにこう語った。「今朝、出かける前に、わたしはパパ・フランシスコと一緒にいました。そして彼にこう言いました。『教皇さま、少ししたらわたしは出かけなければなりません。カリスマ刷新の何千もの信者たち、男女、青年たちから成る何千もの信者たちが待っているリミニに行きます』。パパは大きな笑顔を作ってこうわたしに言いました。『皆さんに、わたしは皆さんのことが大好きですよ!と伝えてください』」と。

2月2日(日)、主の奉献のミサ説教:世の光であるキリストとの出会いの神秘=遵守と預言、喜びと素直さ





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 『主の奉献』の祝い、わたしたちをいつも驚きと感謝の念で満たす「イエスの民との最初の出会い」の祝い、そして同時に第18回世界奉献生活の日において、パパ・フランシスコは「イエスに出会い、彼を認め、受け入れ、抱きしめることのできる神殿、つまり教会にわたしたちを連れてくる」「イエスが中心にいる」と繰り返した。サン・ピエトロ大聖堂で、火の灯ったろうそくをもって行われる行列の補助的儀式を、その教皇職において初めて行いながら、ローマ司教はこの主日、2月2日に、「主の律法において歩む喜びを」もって「若いマリアとヨゼフが」エルサレム神殿に「うまれたばかりの」世の光であるキリストを「つれていった」ことを記念する日を祝った。


〔①〕マラキ3・1~4
〔②〕ヘブライ2・14~18
〔福〕ルカ2・22~40

パパ・フランシスコの説教全文


 神殿へのイエスの奉献の祭りは、出会いの祭りとも呼ばれています。イエスとその民との出会いの始まりです。マリアとヨセフがその赤ん坊をエルサレム神殿に連れて行った時、シメオンとアンナという二人の老人に代表される民とイエスとの初めての出会いが生じました。


 あの出会いは民の歴史の内部での出会いでもあります。つまり若者たちと老人たちとの間の出会いです。若者というのは生まれたばかりの赤ちゃんを連れたマリアとヨセフです。そして老人というのは神殿に足しげく通っていた二人の人物、シメオンとアンナでした。


 福音記者ルカが彼らについてどんなことを言っているか、彼らのことをどのように描写しているかを観察してみましょう。おとめマリアと聖ヨセフについては、彼らは主の律法に定められていたことを行いたがっていたと四回繰り返されています(ルカ2章22節、23節、24節、27節参照)。イエスの両親は神の考えを喜んで順守していることが直観で、ほぼ手に取るように感じられます。そうです。主の律法において歩む喜びです!結婚したばかりの二人です。子どもを授かったばかりの二人です。そして定められていることを果たしたいという望みにうながされています。外面的なことではありません。決まり事を守ればいい、というものではありません。ちがいます!これは強く、深く、喜びに満ちた願望なのです。これこそ詩篇が言っているものです。「わたしは…あなたの道に目を注ぎます。わたしはあなたの掟を楽しみとし…あなたの律法はわたしの楽しみです」(119編15,16,77節)。

 では老人たちについて聖ルカはどのようなことを言っているでしょう?聖霊によって導かれていたことが強調されています。シメオンについては、彼は正しく敬虔で、イスラエルの慰めを待ち望んでおり、「聖霊が彼と共にあった」と明言されています(2章25節)。主のキリストを見るまでは死なないと「聖霊が彼に約束をしていた」と言われています(26節)。そして最終的に「聖霊によって導かれて」神殿に向かいました(27節)。それからアンナについては、彼女が「女預言者」であったこと(36節)、つまり神によって霊感を受けていたこと、神殿から離れず、「断食と祈りをもって夜も昼も神に仕えていた」ことが語られます(37節)。つまり、この二人の老人は、いのちに満ちていたのです!彼らが命に満ちていたのは、聖霊によって活力を与えられており、その働きに対して素直で、その呼びかけに対して敏感だったからです…。

 ここに、聖家族とこの神の聖なる民の二人の代表者との出会いがあります。その中心にはイエスがいます。イエスこそが全員を動かし、どちらをも自らの父の家である神殿にひきつける方なのです。

 これは主の律法を守ることで喜びに満ちた青年たちと聖霊のはたらきによる喜びに満ちた老人たちとの出会いなのです。これは、律法の遵守と預言とのまたとない出会いなのです!青年たちが決まりを守り、老人たちが預言的であるという、普通逆なんですがね、ここでは何かが違っています。実際、もしよく省察を加えると、律法の遵守は同じ聖霊によって活力を与えられ、預言は律法によって編まれた歩みにおいて動いていることが分かります。マリアほど聖霊に満ちた人はいるでしょうか?マリアほど聖霊のはたらきに素直な人がいるでしょうか?

 この福音のシーンに照らされて、奉献生活をキリストとの出会いのひとつとして見てみましょう。キリストこそがマリアとヨセフに率いられてわたしたちのもとに来てくださる方です。そしてわたしたちこそが聖霊に導かれてキリストに向かって行く者なのです。けれどその中心にはキリストがいます。キリストがすべてを動かします。わたしたちがキリストに出会い、認め、受け入れ、抱きしめることのできる神殿、つまり教会にわたしたちを引き寄せてくださるのはキリストなのです。

 イエスは教会において、修道会の創立に関わるカリスマを通してわたしたちと出会うために出てきます。わたしたちの召命においてこのように考えるのは素晴らしいことです!わたしたちのキリストとの出会いは、自らの証し人である男性、あるいは女性のカリスマを仲介にして教会においてその形を取りました。これはいつもわたしたちを驚かせ、また感謝の念を引き起こします。

 そしてまた、奉献生活においても青年たちと老人たちとの出会い、決まりの遵守と預言との出会い体験されます。このことを対立する二つの現実として見ないようにしましょう!むしろ聖霊が両者に活力を与えるように任せましょう。その時、これが実現しているというしるしは喜びに見られます。決まりを順守する喜び、生活の決まりごとの中で歩む喜びです。そして聖霊によって導かれ、けっして厳格ではなく、閉鎖的ではなく、いつも地平線に向かって行くようにと語りかけ、わたしたちに開き、わたしたちを導き、わたしたちを招く神の声に対して開かれている喜びです。

 老人にとって、青年たちに知恵を伝達することは益となりますし、青年たちにとって、この経験と知恵の遺産を受け取り、未来に向かってこれを運ぶこと、これを美術館にしまっておくのではなく、わたしたちに人生がもたらす挑戦に背を向けず、これを未来に向かって運ぶのは益になるのです。当該の修道会家族と、全教会にとっての益となるのです。

 この神秘の恵み、出会いの神秘がわたしたちを照らし、わたしたちをこの歩みの中で慰めてくださいますように。アーメン。 
(Traducción del italiano: Raúl Cabrera – RV)

2014年2月2日日曜日

2月1日(土)、ネオ・カテクメナートへの激励の言葉:教会との一致の中で、また存在の中心から外れたところで、キリストの福音の伝達者になってください


 位階的聖なる母なる教会の名で、教会と世界において行っていることに感謝しながら、ローマ司教は、世界じゅうの様々な場所で福音を告げ知らせ、証しするための家族の喜びと派遣で特徴づけられた会合で、『ネオ・カテクメナートの道』のメンバーにいくつかの提言をした。緊張感高く、喜びと熱意に満ちた雰囲気の中で、パウロ六世ホールで、パパ・フランシスコはこの道の8000人以上のメンバーを迎えた。そこで国際的に担当している中枢グループと、司祭団、要理担当者、特に集いに参列していた多数の子どもたちに心から挨拶をした。

「教会は皆さんの寛大さに感謝していますよ!教会と世界の中で皆さんがしているすべてのことに感謝します。そしてまさに、聖イグナシオが好んでしたように、わたしたちの母なる教会、位階的教会の名において、わたしは単純ないくつかの提案をしたいと思います。最初のものは、皆さんがこれから働きに行くであろうそれぞれの小教区の中で聖体的一致を建設し保持するために最高の注意を払うことです。『ネオ・カテクメナートの道』には、教会の深い次元を支えているあらゆる聖霊の賜物のなかで、独自のカリスマ、自らのダイナミックス、賜物があります。それは教会の生命に責任者たちが送っている生命に、その富を認めながら、地方教会の牧者の導きのもとにある唯一の群れとして、もし必要であれば、一緒に歩きながらであるならば、その弱さのために、苦しみを認めながら、耳を傾けることです」。

 二つ目の勧告で、パパは、どこに行こうとも、わたしたちよりも前にいつでも神の霊が到着するということを思い出すことはわたしたちにとって益となる、と繰り返した。

「主はいつもわたしたちより一足先に行かれるのです!聖霊がいつも一足先に赴くのです!神はいつもわたしたちが付くより前に到着するのです!もっとも人里離れたところであっても、最も異なる文化においてであっても、神はどこでもそのみ言葉の種を蒔くのです。そこから、みなさんが家族としてはたらこうとする土地の文化的文脈に特別な意識を向ける必要性が湧き出るのです。つまり、しばしば皆さんが生まれたところとはずいぶん異なる環境がある、ということです」。

 三つ目の勧告は、愛をもって互いに気を配り合うこと、特に一番弱い人たち、歩みの途中で出会う兄弟姉妹が直面している困難に対して気を配ることであった。

「こうしたケースにおいて、共同体側の忍耐と憐れみを磨くことは、信仰の成熟度のしるしとなります。個々人の自由は強制されて変えられるものであってはならず、ネオ・カテクメナート以外のところで、主の呼びかけに応えながら育つのを助けるキリスト者としての生き方の他のあり方を探そうと決めた人々の選択の可能性も尊重されなければなりません」。

 マリアの学び舎において、愛をもって福音をつたえ、神の憐れみの伝達者、証し人になりなさい、というのが教皇の最後の勧告であった。そこでより遠く離れたところでイエス・キリストの福音を宣べ伝えるようにと招いた。

「愛する家族の皆さん、愛する兄弟姉妹の皆さん、どこでも、最もキリスト教化されていない環境においても、特に存在の中心から離れたところに、イエス・キリストの福音を運ぶようにと皆さんを励まします。愛をもって福音を述べなさい。神の愛をすべての人々に運びなさい。その宣教の行く道で出会う人々に、神はありのままで、その限界や過ち、罪をもひっくるめて人を愛しているのだと言いなさい。そしてそのために、自らわたしたちの罪を担うために御子を送ってくださったのだ、と。父の限りない善意とその尽きぬ憐れみの伝達者、証し人になりなさい。皆さんを聖母マリアにささげます。そうして皆さんの使徒的活動にいつも霊感を注ぎ、これを支えてくださいますように。この温もりに満ちた母の学び舎にあって、 熱心で喜びに満ちた宣教師でありなさい。喜びを失うことがないように!がんばって!
(CdM - RV)

2014年2月1日土曜日

1月31日(金)、朝ミサ説教:誘惑というのは日々の食卓に上るパンのよう=日常茶飯事。

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〔①〕サムエル下11章1-4a、5-10a、13-17節
〔福〕マルコ4章26-34節

 人々の間で神の現存があまり現れてこない時、「罪の意義を見失います」そしてこのようにしてわたしたち「キリスト者の中途半端さ」の代償を他の人々に払わせることになりかねないのです。パパ・フランシスコは、今朝の聖マルタの家でのミサ中説教でこう語った。「神の国の現存がわたしたちの間で決して弱まらないように祈りましょう」。

 たとえば姦淫のような重罪が、現代では「解決しなければならない問題」程度に軽減されている。パパは、今日の第一朗読が語っている、ダビデ王が果たす選択を、鏡とし、その前に全キリスト者の意識を据えた。ダビデは自分の軍隊の統率者ウリヤの妻、ベトシェバに対してその気になり、自分のもとに連れ込み、夫を戦闘の前線へと送り、死をもたらし、結果として殺人へと身をやつしました。しかしながら、姦淫も殺人も彼をそれほど動揺させません。「ダビデは重罪を前に立っているのですが、自らを罪びとだと感じないのです」。「ゆるしを乞おうという考えは脳裏に浮かびません。彼の頭の中を駆け巡っている考えは、『どうやってこれを解決しよう?』という問いです」。


「これは、わたしたち誰にでも起こりうることです。わたしたちは誰もが罪人ですし、誰もが誘惑にさらされています。実に誘惑というのは日々の食卓に上るパンのよう(に日常茶飯事)なのです。もしわたしたちのうちの一人が「でもわたしは誘惑を感じたことなど一度もありません」と言うならば、どちらかと言えば、天使ケルビムか、すこし脳足りんでしょう?分るでしょう…生きていれば、内なる戦いはふつうのことですし、悪魔は黙っておらず、勝機を狙っているのです。けれど問題なのは、この聖書個所で一番の問題は、誘惑や十戒の第九戒を破る罪にあるのではありません。そうではなくて、ダビデがどのようにこれに対して反応するかにあるのです。そしてここでダビデは、罪について語らず、解決しなければならない問題について語るのです。これこそがしるしです!神の支配(くに)があまり来ていない時、神の支配(くに)が小さくなる時、様々なしるしがありますがその一つが、罪の感覚を失うことなのです」。

 毎日、「主の祈り」を祈りながら、神に「み支配(くに)が来ますように」と求めているけれど、これは「あなたの支配(くに)が大きくなっていきますように」という意味です。一方、罪の感覚を失うと、「神の支配(くに)の感覚」をも失い、その代わりに、「わたしは何をしたって構わない」という「超パワフルな文化人類学的展望」が頭をもたげます。

「人間的なパワーが神の栄光に取って代わるのです!これは日々のパンのような出来事(日常茶飯事)です。だから毎日の神への祈りは、『み国が来ますように、あなたの支配が大きくなりますように』なのです。なぜなら救いというのはわたしたちのいたずらや非行、ずる賢さ、取り引きをする知能から来るものではないからです。救いは神の恵みから、そしてキリスト者としての生活の中で子の恵みを実現させようとする日々の鍛錬からもたらされるのです。

「現代の一番大きな罪は、人々が罪の感覚を失ったことにあります」。フランシスコはピオ十二世のこの有名なフレーズを引用した後で、その眼差しを、自分の王のせいで死に送られた無垢な男であるウリヤに向けた。「ウリヤは、そこでわたしたちの口にできない傲慢の犠牲者全員の紋章となります」。

「わたしは、こうした不正、人間的傲慢を見る時、またこうしたことが自分自身にも起こる危険性、罪の感覚を失う危険性を見る時、歴史のなかで多くのウリヤのような人々、わたしたちキリスト者の中途半端な生き方のせいで苦しんでいる第二、第三のウリヤがどれほどいるかを考えることは、益になる、と心から思います。わたしたちが罪の感覚を失う時、わたしたちが神の支配が弱まっているのを見過ごす時…、彼らは、わたしたちの自覚のない罪による殉教者なのです。今日、互いのために祈ることは益になるでしょう。わたしたちの間で神の支配が弱まらないために、罪の感覚を失わない恵みをいつも主がくださいますように。そして、自分は大丈夫だと思っている人々、自分は大丈夫だと思いこんでいるキリスト者の宴会の支払いをさせられている、こうした現代のウリヤたちの墓に霊的な花を携えましょう。