2014年12月6日土曜日

11月21日書簡:奉献生活者のための特別年に宛てて



教皇フランシスコ使徒的書簡
全奉献生活者へ

奉献生活者のための特別年に宛てて


親愛なる奉献生活をしている男女のみなさん、

信仰における兄弟姉妹の信仰を固めさせる務めを主イエス・キリストから託された、ペトロの後継者として(ルカ2232節参照)、また皆さんのように神に奉献している、皆さんの兄弟として、皆さんに一筆したためます。

イエスの福音への完全な委ねのうちに、また教会への奉仕のうちにわたしたちをイエスに従うようにと呼ばれ、またわたしたちの心の中に、わたしたちに喜びをもたらし、わたしたちがその愛と憐れみを世に証しさせる聖霊を注いでくださった御父に、共に感謝しましょう。

わたしは、多くの人々の気持ちと、奉献生活の修道会や使徒的生活会の気持ちをこだまさせながら、その第六章で修道者について取り扱う『教会に関する教令Lumen Gentium』と、『修道生活の刷新に関する宣言Perfectae caritatis』公布から50周年を記念して、「奉献生活者のための特別年」を呼びかけることに決めました。この特別年は来る1130日、待降節第一主日に始まり、201622日、主の奉献の祭日に幕を閉じます。

奉献・使徒的生活会省に耳を傾けた後で、この特別年のための目的として、シノドス後使徒的勧告Vita consecrataの中で「皆さんには、栄光に満ちた歴史を思い出して語るだけでなく、さらにこれから築いていく驚くべき偉大な歴史があります。将来に目を向けてください。そこでは、さらに偉大なことを行うために、聖霊が皆さんを派遣しています」(110項)とすでに言われていることをある意味で再度取り上げながら、第三千年紀のはじめに聖ヨハネ・パウロ二世が教会に提案したのと同じことをわたしは指摘しました。


Ⅰ.奉献生活者のための特別年の目的

1.第一の目的は、感謝を込めて過去を眺めることです。どの会も豊かなカリスマに満ちた歩みの歴史を持っています。その起源において、神の霊のうちに、キリストにそのすぐそばで従い、福音をある独特な生き方で翻訳し、信仰の目をもって時のしるしを読み取り、独創的に教会の必要性に応じるようにと、ある人々に呼びかける神のはたらきが目の前にある者となります。最初の頃の経験はその後育ち、発展していき、地理的また文化的な新しい文脈において新しいメンバーを迎え入れ、新しいカリスマの現実、使徒的愛徳の新しい主導性と様式に命を与えてきました。それはまるで種が枝を伸ばす気になっていくのと同様です。

この特別年は、カリスマを携えたそれぞれの修道会家族が、その始まりや歴史的な発展を思い起こし、教会に本当に多くの賜物をくださり、教会を美しくし、あらゆるよい働きのために整えてくださった神に感謝をささげる、ちょうど良い機会です。 (cf. Lumen gentium, 12).

自分たち独自の歴史に注意を向けることは、アイデンティティを活き活きと保ち修道会の家族として一致とそれぞれがその修道会のメンバーであることの意義を強めるために欠かせないものです。考古学的発掘をしたり、不毛なノスタルジーに浸ることをつちかったりしようと言っているわけではありません。そうではなく、過ぎた世代が歩んできた道をたどり直すことで、創立者や初期の共同体から始まってその歩みの中で彼らを促したインスピレーションを与えるような火花や理想、プロジェクト、価値を再発見しようというものです。これは時代を超えて、どのようにカリスマが生活に映し出されたか、繰り広げてきた独創性は何か、向き合わなければならなかった困難は何で、それはどのように乗り越えられたかということを意識する一つの方法でもあります。そこでは二元的弱さの実りである言行の不一致や、時にはカリスマの本質的な部分の何点かが忘れられていることまで見出されるかもしれません。どれもが何かを教えるものであり、同時に回心への呼びかけにもなっています。自分たちの歴史を再度めぐることは、神をたたえることであり、いただいたすべての賜物を思って神に感謝することなのです。

特別な仕方で、全教会にとって聖霊の「息吹の吹きかけ」を代表した、第二バチカン公会議からのこの50年を思い、神に感謝しましょう。この公会議のおかげで、奉献生活は刷新の実りあるプロセスを歩み始め、その光と影をもって、聖霊の現存によって刻まれた、恵みの時となったのです。

この奉献生活者のための特別年が、謙遜に、また同時に愛である神への大いなる信頼をもって(一ヨハネ48節)、わたしたちの持つもろさを告白し、主の愛の体験を、世に対して熱心に宣言し奉献生活のうちにキリストに従うよう呼ばれたことの大部分を占める聖性と活力の喜びをもって証しをするチャンスとしてこの年を生きるための、良い機会にもなりますように。

2.この特別年はまた、熱心に現在を生きるようにともわたしたちを招いています。過去の感謝に満ちた記憶は、聖霊が今日の教会に語っていることに注意深く耳を傾けながら、わたしたちが奉献生活を成り立たせている諸局面をますます深く実践するようにとわたしたちを促します。

最初の修道院制の始まりの時から、今ある「新しい共同体」に至るまで、あらゆる奉献生活の形態は福音で教えられているようにキリストに従うようにとの聖霊の呼びかけから生まれたものです(Perfectae caritatis 2)。創立者たちにとって、会則は絶対的に福音であり、他のどのような決まりも、福音の一表現、福音を十全に生きるための道具としてのみ望まれたものです。その理想はキリストであり、パウロとともに「「わたしにとって、生きるとはキリストである」(フィリ121節)と言えるまで、完全にキリストに一致することなのです。誓願はこの熱烈な愛を実現する目的においてのみ意味があるのです。

この特別年にわたしたちが自分たちに突きつけるべき問いは、わたしたちは福音によって問いただされているだろうか、またそれはどのようなものであるか、この福音は日々の生活とわたしたちが選ぶように呼ばれている選択しにとって本当にヴァデ・メクム(必携書)となっているだろうか、というものです。福音は強い要求をするものであり、抜本的にまた誠実に生きられるよう幾度となく求めてきます。これを読むだけでは足りません(たとえ聖書の読書と研究が最高度に重要であり続けていることには変わりがないにしても)。これを黙想するだけでは十分ではありません(それも喜びをもって毎日これを行っているのですが)。イエスはわたしたちがこれを実践するように、その言葉を生きるようにと求めているのです。

さらに自問しなければなりません。イエスは、わたしたちが誓願を宣立したときに示したように、本当に一番のそして唯一の愛の対象でしょうか?そのようであって初めて、わたしたちはわたしたちの歩みにおいてであうすべての人を真理と憐れみのうちに愛することができ、またそのようにのみ愛さなければならないのです。というのも、わたしたちはイエスから何が愛でありどのように愛さなければならないかを学んだはずだからです。わたしたちが愛することができるのはイエスと同じ心を持つからでしょう。

わたしたちの創立者たちは自らのうちに、牧者のない道に迷った羊たちのような群衆を見るにあたりイエスを引き付けていたあの共感があるのを感じていました。イエスと同じように、この共感に突き動かされて、イエスの言葉を差し出し、病人たちを癒し、食べるためにパンを与え、自らの命をささげ、そうして創立者たちも、聖霊が彼らを派遣したあの人類に、より多様な形で奉仕することに身を置いたのです。それには取り次ぎ、福音の説教、要理、教育、貧者への奉仕、病人への奉仕など枚挙にいとまがありません。愛徳の夢には限界がなく、様々な文化に、また社会のより多様な状況に福音の息吹を運ぶために数知れない道を開くことができたのです。

奉献生活者のための特別年は、わたしたちに託された使命への忠誠について問いただします。わたしたちの奉仕職や事業、同伴は、聖霊がわたしたちの創立者たちに求めたことに応えているでしょうか?それは今日の社会と教会においてその目的を網羅するのにふさわしいでしょうか?何か変わらなければならないことがあるでしょうか?わたしたちが共に歩んでいる人々に対して同じ熱意を持っているでしょうか?わたしたちはこの人々にとってその苦しみも喜びも分かち合い、その必要性を本当に理解しそれにこたえるためにわたしたちの貢献を提供できるほど近い存在となっているでしょうか?聖ヨハネ・パウロ二世はこう言っていました。「創立者たちを駆り立てた同じ寛大さと自己犠牲が、その霊的な子らである皆さんを動かし、皆さんの修道会を創立させた同じ聖霊の力をもって、教会への奉仕に身を置き、み国の導入を実現させるためのそのほんものとしての特徴を失わずに、これを豊かにし状況に適合させ続けているそれぞれのカリスマを保つものでなければなりません[1]

起源に関する記憶をたどると、奉献生活のプロジェクトに関するまた別の局面が日の目を見ることになります。創立者たちはイエスの周りに集まった十二使徒の一致、エルサレムの最初の共同体の特徴であったコムニオン(聖体的一致)に魅了されていました。自分の共同体を生き生きとさせると、彼らは全員、一つの心と一つの魂になること、主の現存を喜ぶことといったあの福音的モデルを再生産しようと努めました。

熱心に今を生きるというのは、「コムニオ(聖体的一致)のプロ」、「神に従って生きる人の歴史の頂点をなすあの『コムニオのプロジェクト』の証し人かつ製作者」になるということです[2]。対立社会、異なる諸文化間の共存が困難な社会、より弱い人々への絶対的権力社会、不平等社会において、一人一人の尊厳を認識することや一人一人が自ら持っている賜物を分かち合うことを通して兄弟愛に満ちた関係を生きることができる共同体の具体的なモデルを提供するようにとわたしたちは呼ばれているのです。

そのようなわけで皆さん、コムニオの女、コムニオの男になりなさい。決断をもって創意や緊張のあるところで共にいる者になりなさい。そして心の中にすべての人が一つになるように(ヨハネ1721節参照)という熱意を注ぎ込む聖霊の現存の信頼のおけるしるしとなりなさい。出会いの神秘の仕組みを体験しなさい。それは「耳を傾ける能力、他の人々に耳を傾ける能力です。共に道と方法論を探し求める能力なのです」[3]。そのために人間相互の関係すべてのモデルである神の三位格を流れる愛の関わり(一ヨハ48節)に照らされなさい。

3.希望をもって未来を抱きしめる、というのをこの特別年の三つめの目的としたいと思います。奉献生活が直面している困難がいろいろとあるのは周知のとおりです。特に西洋での召し出しの減少や高齢化、世界経済恐慌の結果としての経済問題、国際化とグローバル化の持つ様々な挑戦、社会的疎外や無意味化などが挙げられます。まさにわたしたちが同時代の人々と分かち合っているこうした不安定な状態の中で、歩みの歴史を生きる主への信仰の実りである、わたしたちの希望がすっくと頭を上げ、今日も同じ主は繰り返しこう言います。「恐れるな。わたしがあなたと共にいる」(エレミヤ18節)。

 わたしたちが語っているところの希望は、人数や事業にではなく、わたしたちが信頼を置き(二テモ112節)「おできにならないことはない」(ルカ137節)方にその根拠があります。これこそが期待を裏切らない希望、奉献生活が、そこに向かって聖霊がわたしたちとともに偉大なわざを行い続けるためにわたしたちを導いていることに気づきつつわたしたちが見続けなければならない未来において、偉大な歩みの歴史を書き続けることを可能にする希望なのです。

人数や効率の誘惑に道を譲ってはなりません。自分たち自身の力に信頼する誘惑などもってのほかです。用心深い目覚めのうちに人生の前に広がる地平と今というときを吟味しなさい。ベネディクト十六世とともに繰り返します。「現代の教会における奉献生活の終局と無意味さとを告げる不幸の預言者たちと手を組んではなりません。むしろ、聖パウロが勧告しているように、目覚め、用心し続けながら、イエス・キリストを身にまとい、光の武具を身につけなさい(ロマ131114節参照)」[4]。主への信頼をもってわたしたちの歩みを続け、いつでも再出発しましょう。

わたしは特に皆さん、青年のみなさんに言葉を向けます。皆さんのいる会の中心部で活発に生き、皆さんの選択に伴うさわやかさと寛大さをもって決定的な貢献を提供しながら、今という時と場になりなさい。皆さんは同時に未来でもあります。なぜなら、みなさんはすぐに、鼓舞や養成、奉仕や宣教の指導の役割をその手に引き受けるように呼ばれるからです。この特別年、皆さんはその後に続く世代との対話における主役となります。兄弟愛に満ちたコムニオのうちに、皆さんはその経験と知恵をもって豊かになることができ、同時にその始めに体験した理想を改めて提示し、皆さんの熱意の勢いとみずみずしさを提供し、そうして共に福音の新しい生き方と証しと宣言の強い要求にますますよりふさわしい応答を繰り広げる良い機会を得ることになるでしょう。

わたしは、様々な会の青年同士で、皆さんが集うための機会を持つことになっていると知ってうれしく思います。その集いがコムニオと相互扶助、一致の歩みを習慣的なものとしてくれますように。


II 奉献生活者のための特別年に期待すること

わたしが特にこの奉献生活の恵みの年に期待していることは何かを語りましょう。

1.かつてわたしが言ったことですが、「修道者のいるところには喜びがある」ということがいつも真実でありますように。わたしたちは、神がわたしたちの心を満たし、ほかのところに幸せを求めずともわたしたちを幸せにすることのできるということ、またわたしたちの共同体で体験されるほんものの兄弟愛がわたしたちの喜びを養うこと、わたしたちの教会や家族、青年、高齢者、貧者たちへの奉仕への完全なささげがわたしたちを人として自己実現させ、わたしたちの人生に満たされた状態をもたらすということを体験し、示すように呼ばれています。

わたしたちの間で悲しい顔つき、不満な人が見受けられませんように。なぜなら「哀しい気分でついていくことは、哀れについていくこと」だからです。わたしたちも、他のどの男女にもあるように、困難や霊的な夜、落胆、病気、高齢による力の喪失などを感じるものです。まさにこのことのうちに、わたしたちは「完全な喜び」を見いだし、あらゆることにおいてわたしたちと似たものとなられたキリストの顔ぶれを認めることを学び、そうしてわたしたちへの愛のために十字架に身をゆだねるのも否まなかったキリストにわたしたちが似たものであると知ることから来る喜びを感じなければならなかったはずです。

効率や、過剰な健康維持、成功に躍起になり、貧しい人たちを疎外し「敗者」を排斥する社会において、わたしたちは自分のいのちを介して聖書の「わたしは弱いときにこそ、強い」(二コリ1210節)という言葉の真理を証しすることができるのです。

わたしが使徒的勧告『福音の喜びEvangelii gaudium』で書いたことは、奉献生活によくあてはまるでしょう。それはベネディクト十六世の説教から引用ですが、「教会は熱心な勧誘によってではなく、魅力によって育つのです」(14項)。そうです、奉献生活は、召し出しの美しいキャンペーンを企画するときではなく、青年たちがわたしたちを知り、わたしたちに魅力を感じ、わたしたちを幸せな男性、幸せな女性として見るときに育つのです。その使徒的効率というのも、そのメディアの効率や力によるのではありません。わたしたちの生き方こそが語らなければならないのです。福音を生きキリストに従う喜びと美しさを透き通って見せる生き方こそが。

先の聖霊降臨徹夜祭の時に教会の様々なムーブメントに向けて語ったことを皆さんに繰り返します。「教会の価値というのは、根本的に、福音を生きわたしたちの信仰を証しすることにあるのです。教会は地の塩、世の光であり、社会のただなかで神の国のパン種を現存させ、何よりもまず、その証し、兄弟愛や連帯と分かち合いの証しをもってこれを行うのです」(2013518日)。

2.わたしは皆さんが「世界を目覚めさせる」ようにと期待しています。なぜなら奉献生活を特徴づけるしるしは預言だからです。管区長たちに語ったように、「福音の急進性は修道者たちだけのものではありません、全員に強く求められているものです。けれど修道者たちは主に特別な仕方で従っているのです。それは預言的な仕方です」。これこそがわたしたちに今求められている優先課題なのです。「この地上でイエスが生きたように預言者になることです…。修道者は決して預言することを放棄してはなりません」(20131129日)

預言者は、生活している時代の歴史を観察し、出来事を解釈する能力を神から受けます。それは夜の間目覚めていていつ朝が来るかを知っている番兵のようです(イザヤ211112節)。預言者は神のことを知り、その兄弟である男性たち、女性たちのことを知っています。預言者には識別する能力があり、また罪の悪や不正を告発する能力もあります。というのは、預言者は自由であり、神以外の主人に決算を提出する必要もなく、神以外には関心がないからです。預言者は一般的に貧しい人々や守られていない人の仲間です。というのは、神自身がその一部だからであることを知っているからです。

そういうわけで、「夢・ユートピア」を皆さんが生き生きと保つことを期待しています。けれど、賜物や兄弟愛、多様性の歓迎、相互の愛という福音的論理が体験される「他の色々な場所」を作ることも覚えてほしいと思います。愛徳とカリスマに満ちた独創性が創立してきて、またこれからさらなる独創性をもって創立されてくる修道院や共同体、霊性センター、「町」、学校、病院、受け入れの家やそうしたすべての場所は、福音においてインスピレーションを受けた社会、真理やイエスのみ言葉の力について語る「山の上の町」のためにますますパン種となっていかなければならないのです。

時々、エリヤやヨナにもそうだったように、これがあまりに強い要求をしてくるから、あるいは疲れているから、結果を見てがっかりしているからという理由で、預言者の成すべきことから逃げたり、これを避けたりする誘惑もあるでしょう。けれど預言者は自分が決して一人ぼっちではないことを知っています。わたしたちにも、エレミヤのように、神は約束してくれます。「恐れることはない、わたしはあなたを解放するためにあなたと共にいる」(エレミヤ18節)と。

3.修道者や修道女たちは、他のすべての奉献生活者たち同様、「コムニオのプロ」になるように呼ばれています。そういうわけで、聖ヨハネ・パウロ二世によって指摘された「コムニオの霊性」が現実のものになり、皆さんがこの新千年紀において「わたしたちの前にしかれている大きな挑戦」を受け入れるために最前線にいてくれるようにと期待しています。その挑戦とは「教会をコムニオの家、また学び舎にする」ということです[5]。この特別年に皆さんが創立者たちによって探し求められた兄弟愛の理想が同心円のように、より様々なレベルで成長するために落ち着いて働いてくれるであろうとわたしは確信しています。

 コムニオは何よりもまず皆さんが関係している会の諸共同体で実践されるものです。この点に関して、わたしが繰り返してやまないほどしばしば訴えかけていることを再読するように招きます。批判や陰口、妬み、やっかみ、敵対主義といったものは、わたしたちの家に存在する権利のないものです。けれど、この前提に立って、愛徳の道がわたしたちの前にほぼ無限に開かれます。というのも相互の歓迎とケアを求めること、物質的また霊的財産のコムニオを実践すること、兄弟愛に満ちた訂正、より弱い人たちへの尊重などといったものがそこで問われるからです。これはわたしたちの人生を「一つの聖なる巡礼」にする「共に生きることの神秘体験」なのです[6]。同様に、わたしたちの共同体がますます国際的になることを考慮に入れたうえで、異なる諸文化からの人々との関係についても自問しなければなりません。どのようにすればそれぞれが自己表現し、そのそれぞれの特別な賜物とともに受け入れられ、応答の責任を完全に共有する人として見られるようになるのでしょう?

 また他の会のメンバーたちとのコムニオも成長するようにと期待しています。この特別年が、より勇気をもって現地の環境やグローバルな環境において、養成や福音宣教、社会介入に関する共通のプロジェクトをともに発展させるために自分の会の境界線から出て行くための良い機会になりえると思いませんか?そのようにしてより効果的に預言者としてのほんものの証しを示すことができるでしょう。異なるカリスマや召し出しの間でのコムニオと出会いは、希望の歩みです。だれも孤立しながら未来を作ることも、自分だけの力でそうすることもなく、常に出会いや対話、傾聴、相互扶助に対して開かれ、わたしたちを自分についてばかり言及する病理から守ってくれるコムニオの真理において自己認識しながら未来を作るのです。

 同時に、奉献生活は、司祭団と信徒たちから初めて、「何よりもまずその内側、そしてさらに、教会共同体自身の中、そしてその境界線を越えて、コムニオの霊性を培う」[7]ように、教会にあるあらゆる召し出しの間での誠実なシナジー(共同で行って得られるエネルギー)を求めるように呼ばれています。


4.さらに皆さんには、教会の全メンバーにわたしが求めていることを期待しています。それは、自分自身の殻から出て行って存在の中心から外れたところに行くということです。「全世界に行きなさい」というのは、イエスが自分のもとにいた人たちに向けた最後の言葉であり、今日わたしたち全員に向けられ続けている言葉です(マルコ1615節参照)。これを待っている人類全体というのがあるのです。そこには、あらゆる希望を失った人もいれば、困難にある家族、捨てられた子供たち、一歳の未来に閉ざされた青年、見捨てられた病人や老人、財産に飽き足りているけれど心が空虚になっている金持ち、生きる意味を探している男女、神に関わる者に飢えている人もいるのです。

 自分自身に意識を向けて縮こまってはなりません。家での小さな喧嘩が皆さんを窒息させるようにしてはなりません。皆さんの問題の囚人になったままではなりません。こうしたことは、外に出て行って他の人の問題を解決するのを助け、よい知らせを告げ知らせると勝手に解決していくのです。いのちを与えながらいのちを見いだし希望を与えながら希望を見いだし、愛しながら愛を見いだすのです。

 皆さんには難民の受容、貧者への近さ、要理や福音の宣言、祈りの生活への導入における独創性という具体的な行動を期待しています。そういうわけで、構造が軽くされ、大きな家が実際の福音宣教と愛徳の必要性により即した事業に応えるよう再利用され、事業が新しい必要性に適合されるようにと期待しています。

5.あらゆる形の奉献生活が、今日神と人類が求めていることについて自問するようにと期待しています。

 禁域修道院や観想生活のグループは互いに集い、あるいは何らかの仕方でコンタクトを保ち、祈りの生活について、全教会とのコムニオにおいて成長するありかたについて、どのように迫害されているキリスト者を支えることができるかについて、より密度の高い霊的生活を探している人々や道徳的もしくは物質的支援を必要としている人を受け入れ彼らに同伴する仕方についての体験について意見を交わすことも出来るでしょう。

 これと同様のことは愛徳や教育、文化推進にささげられた修道会や福音宣教に乗り出す修道会、ある特定の司牧的奉仕職を繰り広げる修道会、社会構造内の細部に入り込む在俗会でもできることです。聖霊の夢がこれほど異なる生き方と事業を作ってきており、簡単には分類したり前もってつくられた枠組みにはめ込んだりはできません。そういうわけで、わたしにはそれぞれのカリスマに満ちた形に対して個別に言及することは不可能です。それでも、この特別年に、教会のいのちにおけるその存在と、わたしたちの周りに起こってくるこれまで通りの対話の相手や新しい対話の相手や貧しい人たちの叫びへのその答え方について、真剣な点検から免れる人はありえないでしょう。

 この世の必要性への意識と聖霊への素直さをもってはじめて、この奉献生活者のための特別年はほんもののカイロス、つまり恵みと変容に満ちた神の時になることができるのです。

III 奉献生活者のための特別年の前に広がる地平

1.この書簡をもって、奉献生活者に加えて、理想や精神、使命を彼らと分かち合う信徒のみなさんに言葉を向けます。修道会の中には、この意味で、長い伝統を持ったところもありますし、他の修道会ではより最近の経験となっているところもあります。実際、それぞれの修道会家族の周りや、使徒的生活会や在俗会の周りにも、より大きな家族が存在しています。それは「カリスマにおける家族」、つまり同じカリスマにおいて自らを認める様々な会や、何よりも、まさにその信徒としての条件のうちに、同じカリスマにおける精神に参与することに呼ばれていると感じているキリスト教信徒たちのことです。

 忠実な信徒のみなさんも、この奉献生活者のための特別年を、皆さんが受けた恵みに対する意識をより高めることのできる恵みとして生きるようにとわたしは励まします。その全「家族」とともにこれを祝い、成長し、現実社会における聖霊の呼びかけに答えなさい。さまざまな会の奉献生活者たちがこの特別年に会合するような機会があったら、他のカリスマをもった家族や他の信徒グループの体験を知り、互いに豊かになり助け合う目的で、神の唯一の賜物の表現として、何とかして皆さんもそこにいるようにと努めなさい。

2.奉献生活者のための特別年は、奉献生活者だけではなく、全教会に影響をおよぼします。そういうわけで、わたしは、キリスト教の歴史を紡ぎ出してきた偉大な成人たちの遺産相続者である、多くの奉献生活者たちの賜物についてますます意識するようにと、キリストに連なるすべての民に言葉を向けます。聖ベネディクトや聖バジリオ、聖アウグスチヌス、聖ベルナルド、聖フランシスコ、聖ドミニコのいない教会、聖イグナシオ・デ・ロヨラやアヴィラの聖テレジア、聖アンジェラ・メリチや聖ヴィンセンシオ・ア・パウロのいない教会はいったいどうなっていたでしょう?数え上げれば、聖ヨハネ・ボスコやカルカッタの福者マザー・テレサまでほぼ無限にリストが続きます。福者パウロ六世はこう言っていました。「全教会に精気をもたらすこの具体的なしるしや愛徳がなければ、教会は冷え込む危険に走り、福音の救済をもたらすパラドックスは個性を失い、信仰の「塩」は世俗化した世界に溶け込んでしまうでしょう」
 (Evangelica testificatio, 3)

 そのようなわけで、何よりもまず、創立者たちの聖性や同じカリスマにささげられた多くの奉献生活者の忠誠を通してこれまで受けた賜物やこれからも受ける賜物を思って主に感謝し、その賜物の記憶を知られるようにしながら全キリスト教共同体がこの特別年を生きるようにとわたしは招きます。奉献生活者が教会全体のものでもあるその奉仕職とその事業を実現できるために、皆さんが奉献生活者の周りに集まり、彼らとともに喜び、その困難を分かち合い、できる限りで彼らに協力するようにとわたしは招きます。

 奉献生活者のための特別年と家族についてのシノドスが幸いにも同じときに行われたことを思い、主を賛美します。家族と奉献生活は、すべての人に対する富と恵みの運び手である召し出しであり、生きた関わりづくりにおける人間らしさを生み出す環境であり、福音宣教の場なのです。相互に助け合うことができます。

3.わたしはこの書簡を、大胆にもカトリックとは異なる伝統の教会に属する奉献生活者や、兄弟として生活する団体や共同体のメンバーたちにも向けようと思います。隠遁生活は分かちえない教会の財産であり、いまだにオーソドックス教会においてもカトリック教会においても実に活き活きとしています。隠遁生活のうちに、また西方教会が一致していた時より後に生まれた他の経験においてもそうですが、のちにその内側において他の兄弟愛に満ちた共同体や奉仕の表現を生み出し続けた、改革の教会共同体の環境において生まれた類似した主導性にインスピレーションが与えられたのです。

 奉献・使徒的生活会省はさまざまな教会の奉献生活や兄弟的生活の体験に属するメンバー同士の集いをさせていただくための声掛けを計画しています。そうして相互理解、尊重、相互協力、奉献生活のエキュメニズムが全教会間の一致へのより広いプロジェクトにおける一助となる方法が育つようにと、こうした会合をわたしは元気よく応援します。

4.修道生活という現象や他の宗教的兄弟愛の表現が他の大きな宗教にも存在していることをも忘れるわけにはいきません。カトリック教会と大きな宗教伝統のいくつかとの間での、修道院間の対話の、これもまた確かな体験には事欠きません。奉献生活者のための特別年が、これまで通ってきたあゆみを評価し、この畑での奉献生活者が感受性を増し、ますます深まる相互理解に向けて踏み出す新しい一歩について自問し、人のいのちへの奉仕に関する多くの共通の環境において協力するための良い機会となることをわたしは期待しています。

 ともに歩くということはいつでも、豊かになることであり、この時点で困難に満ちて出てくる諸国民や諸文化間の関係作りのための新しい道を開くことができるのです。

5.最後に、司教職における私の兄弟たちに言葉を向けます。この特別年が心温かく喜びをもって、奉献生活を、修道会という家族だけでなくキリストの神秘体全体の善のための霊的財産として受け入れるための良い機会となりますように(Lumen Gentium, 43)。「奉献生活は教会のための賜物であり、教会の中で生まれ、教会の中で育ち、まったくもって教会に向けられています」[8]。ここから、教会のための賜物として、孤立した現実や疎外的現実ではなく教会に密接に帰属した者として、奉献生活はキリスト者の召し出しの深奥にある本性と唯一の花婿との一致に向かう花嫁である教会全体の緊張を表現するうえで、その使命の決定的な要素として教会の心臓部にあるのです。そういうわけで、「議論する余地なくその教会のいのちと聖性に属するのです」(同上、44)。

 この文脈において、地方教会の司牧者たちに特別な配慮をしていただくように招きます。皆さんの共同体で、伝統的なものであれ、新しいものであれ、様々なカリスマを推進し、支え、励まし、識別を助けてください。彼らに近い存在となり、奉献生活者の中には痛みと弱さの状況にいる人もいるかもしれませんからその人たちには優しさと愛を持って近づき、神の民に奉献生活の価値を教えながら照らし、教会においてその美しさと聖性が輝くようにしてください。

 傾聴と観想のおとめであり、その愛する御子の最初の弟子であるマリアに、この奉献生活者のための特別年をゆだねます。御父の寵愛を受けた娘であり恵みの賜物すべてを身にまとったマリアに、神への愛と隣人への奉仕における追従の無比のモデルとして心を向けましょう。

 今からすでに、主がわたしたちを豊かにしようと望んでいるその恵みと光の賜物を思い、皆さん全てと共に感謝の心に満ちて、使徒的祝福をもってわたしは皆さん全員と歩みをともにします。

バチカン、20141121
聖母マリアの奉献の祝日に
フランシスコ


[1] 新世界福音宣教500周年記念のラテンアメリカの修道者に宛てた使徒的書簡「Los caminos del Evangelio福音の道」(1990629), 26.
[2] 奉献・使徒的生活会省『修道者と人のいのちの推進(1980812), 24: L’Osservatore Romano, Suppl., 12 November 1980, pp. i-viii.
[3] ローマにある教皇庁の学校と宿舎に住む院長と学生への演説(201452).
[4] 教皇ベネディクト十六世、主の奉献の祭日説教(201322日)。
[5] 使徒的書簡『新しい千年紀の初めに』(200116日)、43
[6] 使徒的勧告『福音の喜び』(20131124日)、87
[7] ヨハネ・パウロ二世、シノドス後使徒的勧告『修道生活』(1996325日)、51
[8] J.M.ベルゴリオ司教当時、奉献生活とその教会と世界における使命に関するシノドスでの意見、第十六回総会、19941013日。