2013年10月31日木曜日

10月27日、ミサ説教:キリスト教的家庭の三つの性質:祈り、信仰、喜び

 この主日の朗読は、キリスト教的家庭の基本的な性質についていくつか黙想するようにとわたしたちを招いています。

1.最初に、祈る家族。福音のテキストは二つの祈り方をはっきりと示しています。一つは偽りの祈り、ファリサイ人のものですが、もう一つはほんものの祈り、徴税人のものです。ファリサイ人は神の恵みや神のあわれみに感謝するような態度は身につけておらず、むしろ自己満足に終始します。ファリサイ人は自分が正しい人だと感じ、すべてうまく行っていると感じ、このことを自慢し、その高みから足元に遠く他者を眺めて裁きます。一方、徴税人は、言葉を並べたてません。その祈りはつつましく、はっきりしていて、尊厳を失った状態にあるという自覚と自らの哀れな状態に裏打ちされています。この人は本当に神のゆるし、神のあわれみの必要性を身にしみて感じています。

 徴税人の祈りは、貧しい人の祈りです。第一朗読が言っているように「雲まで上る」(シラ書35章16節)神に認められる祈りです。一方、ファリサイ人の祈りは虚栄の重みによって刻まれています。

 こうしたみ言葉に照らして、皆さん、愛する家族の皆さんに訊いてみたいと思います。皆さんは家族で祈ることがありますか?ん~、ある人ははい、と言っていますね。知っています。けれど、多くの人はわたしにこう言います。でもどうするんですか?と。徴税人のようにするのです。はっきりしています。謙虚に、神の前で。一人ひとり、へりくだりをもって神に見ていただくのです。そしてその善意を求め、わたしたちのところに来てくださるように求めるのです。けれど、家族で、となると、どうすれば?なぜなら祈りというのは個人的なものに思えるし、しかも家族ではちょうどいい機会も静かな時間も全くないのです…と。そうですね、その通りですね。けれどそれも謙虚さの問題です。徴税人のように、神を必要としている、と認識するかどうかの問題です。そしてどの家族も、神を必要としています。全家族、あらゆる家族がです。その助け、その力、その祝福、そのあわれみ、そのゆるしを必要としているのです。そしてそこにはシンプルであることが求められます。家族で祈るためには、シンプルである必要があります。共に「主の祈り」を、テーブルを囲んで祈るとか、何か特別なことではないのです。簡単です。夫は妻のために、妻は夫のために、二人は子どもたちのために、子どもたちは親やおじいちゃん、おばあちゃんのために…互いに祈り合うのです。これが家族で祈るということです。これが家族を強くするのです。祈り。

2.第二朗読はもう一つの局面をわたしたちに勧めています。 家族は信仰を保つ。使徒パウロは、その人生の終わりに、根本的な人生の清算をします。そして「わたしは信仰を保ち続けました」(2ティモテ4章7節)と言います。どのように保ったのでしょう?金庫の中ではありません。あの〈譬え話に出てくる〉少し怠け者のしもべのように地中に隠したわけでもありません。聖パウロは自分の人生を戦闘や競走と比較します。彼は信仰を保ちました。なぜならそれを守ろうとけちけちすることなく、これを告げ知らせ、輝かせ、遠くまで運んだからです。保管したい人と決定的に反対のことをしたのです。パレスチナの地の果ての内側でキリストのメッセージの香油をかぐわせたのです。このため勇気ある選択をし、敵地に赴き、信仰から離れている人々、異なる文化の人々の反感を受け入れ、はっきりと恐れることなく語ったのです。聖パウロが信仰を保ったのは、辺境まで出ていき、防衛的態度にたてこもることなく、自分が受けたように、人に与えたからです。

 ここでも、わたしたちは問うことができます。どのようにして、家族で、わたしたちの信仰を保つことができるのでしょう?わたしたちは信仰を自分たちのため、自分たちの家族のため、私有財産のように、銀行の口座に振り込まれているもののように抱えこんでいるのでしょうか、それとも他者への証し、歓迎、開きをもってこれを分かち合うことができているでしょうか?だれでも、家族は、特により若い家族は「競走」に出ていくことがしばしばであることを知っています。とても忙しいのです。けれど、この「競争」は信仰の競走にもなりうることを考えたことはありますか?キリスト者の家庭は宣教者の家庭です。昨日、この広場で家族ぐるみで宣教をしている人たちの証しを聞きました。彼らは日々の生活においても宣教者です。毎日の仕事をしながら、すべてのことに信仰の塩味をつけ、イースト菌を入れているのです。家族において信仰を保ち、あらゆることに信仰の塩味を付け、信仰のイースト菌を入れること。

3.そして最後の局面は、神のみ言葉に見られます。喜びに生きる家族です。答唱詩篇に次のような表現が見られます。「貧しい人々がこれを聞き、喜ぶ」(詩篇33編3節)。この詩篇全体は、喜びと平和の源泉である主への賛美です。ではこの喜びの動機はどのようなものなのでしょう?これです。主が近くにおられること、主が貧しい人々の叫びを聞き、悪から解放してくださることです。聖パウロも書いています。「皆さんいつも喜んでいなさい…主は近くにおられます」(フィリ4章4-5節)。わたしは今日一つの問いかけをしたいと思います。けれど一人ひとりが自分の家の心の鍵をもっているんですよ、いいですか!実現すべき宿題としてです。だから個人的に応えてください。あなたの家には喜びがありますか?あなたの家族には喜びがありますか?自分たちなりに応えてください。

 愛する家族の皆さん、皆さんはよく知っています。家族で味わわれる本当の喜びは、何か表面的なものではなく、物質から来るものでも、好ましい状況から来るものでもないことを。本当の喜びは人と人との間の深い調和から来るのです。それは誰もがその心で体験するもので、わたしたちに一緒にいることや人生の歩みにおいて互いに支え合うことの美しさを感じさせるものです。この深い喜びの感情の深い所には、神の現存があります。家族における神の現存です。その人を迎え入れる愛、あわれみの愛、すべての人に対して尊敬深い愛があるのです。そして何よりも、忍耐強い愛があります。忍耐は神の徳であり、家族においてわたしたちにこの忍耐強い愛を一人ひとり互いに持つようにと神は教えています。自分たちの間で忍耐をもつこと。忍耐強い愛。神だけが相違に調和を作り出すことができます。もし神の愛が欠けているなら、家族も調和を失い、個人主義に苦しみ、喜びが消えます。その逆に、信仰の喜びを生きる家族はそれを自発的に伝達し合います。その家族は社会全体にとって地の塩であり、世の光であり、イースト菌(パン種)なのです。

 愛する家族の皆さん、ナザレの聖家族のように、信仰とシンプルさをもって生きてください。主の喜びと平和がいつでも皆さんと共に!

10月26日(土)、演説:信仰年イベント「家族、信仰の喜びを生きるもの」の巡礼者たちに向けて

家族(ファミリー)の皆さん、
こんばんは。そしてローマへようこそ!

 みなさんは世界じゅうの様々なところから聖ペトロの墓の前でその信仰を告白するために巡礼をしてここに到着しました。この広場が皆さんを抱きしめて迎えます。わたしたちはたった一つの民をなします。たった一つの魂で。わたしたちを愛し、わたしたちを見捨てない主に呼び集められて。テレビやインターネットでわたしたちにフォローしている全家族にも挨拶します。国境なく広がる広場です。

 皆さんはこの瞬間を「家族、信仰の喜びを生きるもの」 と呼びたいと望みました。わたしはこの名前が好きです。皆さんの体験や、話された人生の歩みを聞きました。多くの子供たちや高齢者の皆さんを見ました…。貧困と戦争のただ中で生きている家族の痛みを感じました。何千もの困難にも拘らず結婚しようと望んでいる青年たちに耳を傾けました。これらすべての真ん中で、自問いたしましょう。今日、家族で信仰の喜びを生きるにはどうすればいいのでしょうか?けれどさらに皆さんに尋ねます。この喜びを生きるのは可能でしょうか、可能ではないのでしょうか?

1.イエスの語ったいくつかの言葉があります。マタイ福音書にありますが、わたしたちを助けるために駆けつけてくれます。「誰でも疲れているもの、苦悩している者はわたしのところに来なさい。わたしが軽くしてあげよう」(マタイ11章28節)。人生はしばしば重々しく、多くの場合悲惨でもあります。先ほど聞いたばかりです…仕事をすれば疲れます。仕事を探すのは厳しい。しかも仕事を見出すのには、今は多大な努力が求められます。けれど人生でもっとも重くのしかかってくるのは、これではありません。こうしたあらゆることの中で一番つらいのは、愛の欠如です。笑顔をもらえないこと、いてほしいと思ってもらえないことは、きついものです。重苦しい沈黙もあります。しばしば家族の中でも、夫婦間でも、親子間でも、兄弟間でもあります。愛がないと困難はもっときついし、耐えられないものになります。一人暮らしの高齢者のことを考えています。家で特別に面倒見てもらう必要のある人を解放するために援助が得られないために辛い日々とを送る家族のことを考えています。「疲れているもの、苦悩ししている者たちは皆、わたしのもとに来なさい」こうイエスは言います。

 愛する家族の皆さん、主はわたしたちの困難を知っています。それを身にしみておられるのです!わたしたちの人生の辛さを知っています。けれど主はまたわたしたちの間に慰めの喜びを見出す深い望みがあることをも知っています。覚えていますか?イエスはこう言いました。「あなたたちの喜びが完全なものとなるように」(ヨハネ15章11節)。イエスはわたしたちの喜びが満ち満ちたものとなるようにと望んでいます。これを使徒たちに言いました。そしてわたしたちに、今日を生きるわたしたちに繰り返します。これがこの夕刻、皆さんと分かち合いたいと思った最初のことです。そしてそれはどれもイエスの言葉です。わたしのもとに来なさい、世界じゅうの家族の皆さん、とイエスは言います。わたしがあなたがたを軽くする。皆さんの喜びが満ち満ちたものとなるように。そしてこうしたイエスの言葉を家に持ち帰りなさい。心の中で持ち運びなさい。家族でこれを分かち合いなさい。イエスはご自分のところにわたしたちが赴き、ご自分をわたしたちに差し出し、すべての人々に喜びをもたらして下さいます。

2.次の言葉は、婚姻の儀からとります。結婚する人は秘跡においてこう言います。「わたしは順境においても、逆境においても、健康の時も、病気の時も、わたしの人生のあらゆる日々にあなたにいつも忠実でいて、あなたを愛し、あなたを尊重することを誓います」。夫婦はその時、どのようなことが起こるのかを知りません。どのような順境や逆境が待ち受けているかを知らないのです。歩み(行進)が始まります。アブラハムのような旅です。共に歩み始めるのです。そしてこれが婚姻なのです!行進し始めること、共に歩むこと、手を取り合って、主の大いなる手に信頼しながら。手を取り合って、いつも、全人生を通して!そしてわたしたちの人生を粉々にするその場限りのこの文化に流されないように。

 この神の忠実への信頼があれば恐れなく責任をもってあらゆることに立ち向かうことができます。キリスト者の夫婦はバカ正直ではありません。問題を知っており、人生の危険を知っています。けれど神と社会を前にして自分の責任を受けて立つのに物怖じしないのです。逃げることなく、孤立することなく、家族を作り子どもを世にもたらす使命を破棄することなく。でも、神父さん、今の時代では難しいんですよ…おっしゃる通り、難しいです。だからこそ恵みが必要なのです。秘跡がわたしたちにもたらす恵みが。秘跡は人生の飾りではありません。「いやしかしなんてきらきらした新婚さんでしょう、なんて素敵な結婚式、なんて盛大な披露宴!」と言いますが、それは秘跡ではありません。それは秘跡の恵みの部分ではないのです。それは飾りの部分です。そして恵みは人生を飾るものではなく、人生において力を与えるためのものなのです。わたしたちに勇気を与え、前進して歩んでゆける力をもたらすためのものなのです。孤立せず、いつも一緒に。キリスト者は秘跡を通して結婚します。なぜならこれが必要だと知っているからです。互いに一つであるため、また親としてのその使命を果たすために不可欠なのです。「順境においても、逆境においても、健康の時も、病気の時も」です。秘跡において夫婦はこう言いますし、結婚式で共に祈り、共同体と共に祈ります。なぜでしょうか?なぜそんな習慣があるのでしょうか?習慣ではありません。必要だからするのです。友に積み上げていかなければならない長い旅路に必要なのです。本の短い期間の旅行ではなく、全人生の間続く長い旅なのです!そしてイエスの助けを必要としています。信頼をもって互いに歩むため、今日も明日も互いに好きであり続けるために、日々ゆるし合うために。そしてこれは重要です。家族でゆるし合うことができること。なぜなら誰にも欠点があるからです。誰にも!しばしば良くないことをしますし、他の人を傷つけることもします。家族で間違いがあったらゆるしを求める勇気をもつこと・・・。数週間前にこの広場で、家族が前進していくためには三つの言葉があると語りました。繰り返したいと思います。「ちょっといい」、「ありがとう」、「ごめん」。三つのキーワードです!家族において尊重し合えるために許可を求めます。「これしてもいい?そういうことをしたいと思う?」と。許可を求める言葉づかいで。ありがとう、と言いましょう。愛に対して感謝しましょう。けれどどうなんですか。あなたの奥さんに対して、あなたの旦那さんに対して、一日に何回くらいありがとうと言いますか?この言葉を発音せずに過ぎてしまう日が何日あることでしょう、ありがとう、という言葉を言わずに!最後に、ごめん、です。誰もが間違いますし、しばしば家族や夫婦間で人を傷つけることがあります。そしてしばしば、皿が飛んだり、きつい言葉が交わされたりします。でもこの忠告を聞きなさい。平和に収めずに一日が終ることのないようにしなさい。家庭において日々新たにされる平和を!「ごめんなさい」。そうして新しくやり直すのです。ちょっといい、ありがとう、ごめん。一緒に言いましょうか?(はい!と会場から返事)。ちょっといい、ありがとう、ごめん!皆さん、家族でこの三つの言葉を使いましょう。日々ゆるし合うことを!

 家庭生活では素敵な時もたくさんあります。休みのとき、一緒にご飯を食べる時、講演や野原に出ていく時、おじいちゃんやおばあちゃんのところに行く時、病気の人を訪問する時…。けれどもし愛が足りなければ、喜びが足りなければ、祝いがなければ、イエスがいつもわたしたちにくれる愛がなければ…。イエスは涸れることのない泉です。そこで、彼が、秘跡において、そのみ言葉を与え、命のパンを下さり、わたしたちの喜びが満ち満ちたものになるようにしてくれるのです。

 結びにあたって、皆さんにはこの前のところに神殿でのイエスの奉献の御絵を見ることができます。とても美しく大切な御絵です。眺めましょう。そしてこの絵が何かの助けになるようにしましょう。皆さんと同様、このシーンの登場人物たちもその歩みをしました。マリアとヨゼフは歩みをはじめ、エルサレムに向かう巡礼者として、主の掟を成就するためです。同様に老人シメオンと、こちらも高齢の女預言者アンナが、聖霊に導かれて神殿にやって来ました。このシーンはわたしたちに三世代の出会いを示します。三世代の集い会合です。シメオンは幼子イエスをその腕に抱き、メシアであると認識し、アンナは神をたたえながら登場し、イスラエルのあがないを待ち望む人への救いを告げます。この二人の老人は記憶としての信仰を代表しています。そこでみなさんにお尋ねします。「皆さんは年寄りに耳を傾けますか?年寄りがわたしたちに伝える記憶に心を開きますか?」。年寄りは家庭の知恵です。民の知恵なのです。そして年寄りに耳を傾けない民は死滅する民です。年寄りに耳を傾けること!マリアとヨゼフはあらゆる約束の成就であるイエスがいることで聖化された家族です。どの家族も、ナザレの家庭と同じように、民の歴史の一部をなし、前の世代なくして存在することはありえないのです。だからこそ今日、高齢者と子供たちがいるのです。子どもたちはお年寄りの皆さん、前の世代から学ぶのです。

 愛する家族の皆さん、皆さんは神の民の一部をなします。この民と共に喜びをもって歩みなさい。いつでもイエスと一つになって留まりなさい。そしてすべての人にイエスの証しをしなさい。来てくれてありがとう。共に、困難の時にわたしたちに力を与え、これからも与え続ける聖ペトロの言葉をわたしたちのものにしましょう。「主よ、あなたの他に誰のところに行けばいいのですか?あなたは永遠の命の言葉をもっているのです」(ヨハネ6章68節)。キリストの恵みをもって、信仰の喜びを生きなさい。 主が皆さんを祝福し、わたしたちのお母さんであるマリアが皆さんを守り、皆さんと共に歩んでくださいますように。ありがとう。

(翻訳冒頭のみ)10月25日(金)、朝ミサ説教:神の前で、恐れることなく告白をしましょう


 隠すことなく、勇気をもって聴罪司祭に罪に名をつけながら告白をすること。聖マルタの家で今朝祝われたミサの説教で、パパは和解の秘跡にその中心を置いた。告白するというのは、神のゆるしを感じ取らせる「恥の恵み」を拒むのではなく受けとめながら素直な心で、子どもの透明さをもってイエスの愛に出会うために出かけていくことであると語った。

Para muchos creyentes adultos confesarse ante el sacerdote es uno esfuerzo insostenible – que induce con frecuencia a esquivar el Sacramento – o una pena tal que transforma un momento de verdad en un ejercicio de ficción. San Pablo, en su Carta a los Romanos – comentó el Papa – hace exactamente lo contrario: admite públicamente ante la comunidad que en “su carne no habita el bien”. Afirma que es un “esclavo” que no hace el bien que quiere, sino que realiza el mal que no quiere. Francisco observó que esto sucede en la vida de la fe porque “cuando quiero hacer el bien, el mal está junto a mí”:

“Y esta es la lucha de los cristianos. S nuestra lucha de todos los días. Y nosotros no siempre tenemos el coraje de hablar como habla Pablo de esta lucha. Buscamos siempre una vía de justificación: ‘Pero sí, somos todos pecadores’. Lo decimos así, ¿no? Esto lo dice dramáticamente: es nuestra lucha. Y si nosotros no reconocemos esto, jamás podemos tener el perdón de Dios. Porque si ser pecador es una palabra, un modo de decir, una manera de decir, no tenemos necesidad del perdón de Dios. Pero si es una realidad, que nos hace esclavos, tenemos necesidad de esta liberación interior del Señor, de esa fuerza. Pero más importante aquí es que para encontrar el camino de salida, Pablo confiesa a la comunidad su pecado, su tendencia al pecado. No la esconde”.
La confesión de los pecados hecha con humildad es “lo que la Iglesia pide a todos nosotros”, recordó el Papa, y citó también la invitación de Santiago: “Confiesen entre ustedes los pecados”. Pero “no – aclaró Francisco – para hacer publicidad”, sino “para dar gloria a Dios” y reconocer que “es Él quien me salva”. He aquí porqué, añadió el Santo Padre, para confesarse se va al hermano, “el hermano sacerdote”: es para comportarse como Pablo. Y sobre todo, subrayó, con la misma “concreción”:

Algunos dicen: “Ah, yo me confieso con Dios”. Pero es fácil, es como confesarte por e-mail, ¿no? Dios está allá, lejos, yo digo las cosas y no hay un cara a cara, no hay un a cuatro ojos. Pablo confiesa su debilidad a los hermanos cara a cara. Otros: “No, yo voy a confesarme”, pero se confiesan cosas tan etéreas, tan en el aire, que no tienen ninguna concreción. Y eso es lo mismo que no hacerlo. Confesar nuestros pecados no es ir a una sesión de psiquiatría, ni siquiera ir a una sala de tortura: es decir al Señor: “Señor soy pecador”, pero decirlo a través del hermano, para que este decir sea también concreto. “Y soy pecador por esto, por esto y por esto”.
Concreción, honradez y también – dijo el Papa Francisco – una sincera capacidad de avergonzarse de las propias equivocaciones: no hay sendas en sombra alternativas al camino que lleva al perdón de Dios, a percibir en lo profundo del corazón tu pecado y su amor. Y en este punto el Pontífice dijo que hay que imitar a los niños:

“Los pequeños tienen esa sabiduría: cuando un niño viene a confesarse, jamás dice una cosa general. “Pero, padre he hecho esto y he hecho esto a mi tía, al otro le he dicho esta palabra” y dicen la palabra. Son concretos, ¡eh! Tienen esa sencillez de la verdad. Y nosotros tenemos siempre la tendencia a esconder la realidad de nuestras miserias. Pero hay una cosa bella: cuando nosotros confesamos nuestros pecados como son ante la presencia de Dios, siempre sentimos esa gracia de la vergüenza. Avergonzarse ante Dios es una gracia. Es una gracia: “Yo me avergüenzo”. Pensemos en Pedro, cuando, después del milagro de Jesús en el lago dice: “Pero, Señor, aléjate de mí, yo soy pecador”. Se avergüenza de su pecado ante la santidad de Jesucristo”.

(翻訳冒頭のみ)10月24日(木)、朝ミサ説教:本気でキリストのことを考えましょう。


 洗礼を受けた人は全員聖なる人になっていく歩みを進んでいくように呼ばれていて「道の途中でたたずむキリスト者」に終わるわけにはいかない。いつものように聖マルタの家の小聖堂で今朝祝われたミサの説教でパパはこう明言した。

El Pontífice dijo que siempre en nuestra vida hay un antes y un después de Jesús, subrayando que Cristo ha obrado en nosotros “una segunda creación” y que nosotros debemos llevar adelante con nuestro modo de vivir.

Antes y después de Jesús. Francisco desarrolló su homilía inspirándose en el pasaje de la Carta a los Romanos, centrado en el misterio de nuestra redención. El Apóstol Pablo, dijo, “trata de explicarnos esto con la lógica del antes y el después: antes de Jesús y después de Jesús”. San Pablo considera el antes “basura”, mientras el después es como una nueva creación. Y nos indica “un camino para vivir según esta lógica del antes y el después”:

“¡Hemos sido re-hechos en Cristo! Lo que ha hecho Cristo en nosotros es una re-creación: la sangre de Cristo nos ha re-creado. ¡Es una segunda creación! Si antes toda nuestra vida, nuestro cuerpo, nuestra alma, nuestras costumbres estaban en el camino del pecado, de la iniquidad, después de esta re-creación debemos hacer el esfuerzo de caminar por el camino de la justicia, de la santificación. Utilicen esta palabra: la santidad. Todos nosotros hemos sido bautizados: en aquel momento, nuestros padres – nosotros éramos niños – en nuestro nombre, hicieron el Acto de fe: ‘Creo en Jesucristo”, que nos ha perdonado los pecados. ¡Credo en Jesucristo!”.

Esta fe en Jesucristo, prosiguió el Papa, “debemos volver a asumirla” y “llevarla adelante con nuestro modo de vivir”. Y añadió: “vivir como cristiano es llevar adelante esta fe en Cristo, esta re-creación”. Y con la fe, dijo Francisco, llevar adelante las obras que nacen de esta fe, “obras para la santificación”. Debemos llevar adelante, reafirmó, “la primera santificación que todos nosotros hemos recibido en el Bautismo”:

“En verdad nosotros somos débiles y tantas veces, tantas veces, comentemos pecados, imperfecciones… Y esto está en el camino de la santificación. ¿Sí o no? Si tú te acostumbras: ‘Tengo una vida un poco así, pero creo en Jesucristo, pero vivo como quiero… ¡Y, no, eso no te santifica; eso no va! ¡Es un contrasentido! Pero si tú dices: ‘Yo, sí, soy pecador; yo soy débil’ y vas siempre al Señor y le dices: ‘Pero, Señor, tú tienes la fuerza, ¡dame la fe! ¡Tú puedes curarme!’. Y en el Sacramento de la reconciliación te haces curar..., sí también nuestras imperfecciones sirven para este camino de santificación. Pero siempre es: antes y después”.

“Antes del Acto de fe, antes de la aceptación de Jesucristo que nos ha re-creado con su sangre – reafirmó el Papa – estábamos en el camino de la injusticia”. Después, en cambio, “estamos en el camino de la santificación, ¡pero debemos tomarla en serio!” Y añadió que para tomarla en serio, es necesario hacer obras de justicia, obras “sencillas”: “adorar a Dios: ¡Dios es El primero siempre! Y puedes hacer lo que Jesús aconseja: “ayudar a los demás”. Estas obras, recordó Francisco, “son las obras que Jesús ha fecho en su vida: obras de justicia, obras de re-creación”. “Cuando nosotros damos de comer a un hambriento”, dijo, “re-creamos en él la esperanza. Y así con los demás”. Su en cambio “aceptamos la fe y después no la vivimos – advirtió – somos cristianos sólo de memoria”:

“Sin esta conciencia del antes y del después de la que nos habla Pablo, nuestro cristianismo ¡no sirve a nadie! Es más: va por el camino de la hipocresía. “Me digo cristiano, ¡pero vivo como pagano!”. Algunas veces decimos “cristianos a mitad de camino”, que no toman en serio esto. Somos santos, justificados, santificados por la sangre de Cristo: ¡tomar esta santificación y llevarla adelante! ¡Y no se la toma en serio! Cristianos tibios: “Pero, sí, sí; pero, no, no”. Un poco como decían nuestras mamás: “¡cristiano al agua de rosa, no!”. Un poco así… Un poco de barniz de cristiano, un poco de barniz de catequesis… Pero dentro no hay una verdadera conversión, no existe esta convicción de Pablo: “He dejado pasar todo lo que considero basura, para ganar a Cristo y ser encontrado en Él”.

Ésta, recordó el Papa, “era la pasión de Pablo, y ¡ésta es la pasión de un cristiano!” Es necesario, añadió, “dejar todo lo que nos aleja de Jesucristo” y “hacer todo nuevo: ¡todo es novedad en Cristo!”. Animando a los fieles presentes el Papa dijo que esto “se puede hacer”. Lo hizo San Pablo, pero también tantos otros cristianos: “no sólo los santos, los que conocemos; también los santos anónimos, aquellos que viven el cristianismo en serio”. La pregunta que, por tanto, hoy podemos hacernos, dijo Francisco, es precisamente si queremos vivir el cristianismo en serio, si queremos llevar adelante esta re-creación. “Pidamos a San Pablo – concluyó – que nos de la gracia de vivir como cristianos en serio, y creer verdaderamente que hemos sido santificados por la sangre de Jesucristo”.

10月23日(水)、一般謁見:教会のイメージでありモデルである母マリア

(翻訳冒頭のみ)10月22日(火)、朝ミサ説教:神は何かの条文で私達を救うのではない。私達の傷をいやすために私達に巻き込まれる


 観想、距離の近さ、豊かさ:今朝の聖マルタの家でのミサ説教でパパ・フランシスコが中心的に語った三つのキーワードである。教皇が強調したのは、神は治世だけでは理解できるものではなく、「神の挑戦」はわたしたちのいのちに「献身して」私達の傷口を癒すことで、まさにイエスがなさったようなことだ、というところである。

Inspirándose en la Primera Lectura de hoy, que corresponde a un pasaje de la Carta de San Pablo a los Romanos, el Papa explicó que la Iglesia, “cuando quiere decirnos algo” sobre el misterio de Dios, usa sólo una palabra: “maravillosamente”. Porque este misterio, dijo, es “un misterio maravilloso”:

“Contemplar el misterio, esto que Pablo nos dice aquí, sobre nuestra salvación, sobre nuestra redención, sólo se comprende de rodillas, en la contemplación. No sólo con la inteligencia. Cuando la inteligencia quiere explicar un misterio, siempre – ¡siempre! – ¡se vuelve loca! Y así ha sucedido en la historia de la Iglesia. La contemplación: inteligencia, corazón, rodillas, oración… todo junto, entrar en el misterio. Esta es la primera palabra que tal vez nos ayude”.
La segunda palabra que nos ayudará a entrar en el misterio, dijo a continuación el Papa, es “cercanía”. “Un hombre ha cometido un pecado - recordó - un hombre nos ha salvado”. “¡Es el Dios cercano!” Y, prosiguió, “cerca de nosotros, de nuestra historia”. Desde el primer momento, añadió Francisco, “cuando eligió a nuestro Padre Abraham, ha caminado con su pueblo”. Y esto se ve también con Jesús que hace “un trabajo de artesano, de obrero”:

A mí, la imagen que me viene es la del enfermero, de la enfermera en un hospital: cura las heridas una a una, pero con sus manos. Dios se implica, se mete en nuestras miserias, se acerca a nuestras llagas y las cura con sus manos, y para tener manos se ha hecho hombre. Es un trabajo personal de Jesús. Un hombre ha cometido el pecado, un hombre viene a curarlo. Cercanía. Dios no nos salva sólo por un decreto, una ley; nos salva con ternura, nos salva con caricias, nos salva con su vida, por nosotros.
La tercera palabra, prosiguió el Papa, es “abundancia”. “Donde abundó el pecado, sobreabundó la gracia”. “Cada uno de nosotros – observó – conoce sus miserias, las conoce bien. ¡Y abundan!” Pero, evidenció, “el desafío de Dios es vencer esto, curar las llagas” como ha hecho Jesús. Es más: “hacer ese regalo sobreabundante de su amor, de su gracia”. Y así, explicó el Papa Francisco, “se comprende esa predilección de Jesús por los pecadores”:

“En el corazón de esta gente abundaba el pecado. Pero Él iba hacia ellos con esa sobreabundancia de gracia y de amor. La gracia de Dios siempre vence, porque es Él mismo quien se entrega, quien se acerca, quien nos acaricia, quien nos cura. Y por esto, quizá a alguno de nosotros no nos guste decir esto, pero aquellos que están más cerca del corazón de Jesús son los más pecadores, porque Él va a buscarlos, llama a todos: ‘¡Vengan, vengan!’. Y cuando le piden una explicación, dice: ‘Pero, aquellos que tienen buena salud no tienen necesidad del médico; yo he venido para curar, para salvar”.
“Algunos santos – afirmó también el Papa – dicen que uno de los peores pecados es la difidencia: desconfiar de Dios”. Por eso el Santo Padre se preguntó “¿cómo podemos desconfiar de un Dios tan cercano, tan bueno, que prefiere nuestro corazón pecador?” Este misterio, reafirmó una vez más, “no es fácil de entender, no se lo comprende bien, con la inteligencia”. Quizá nos ayuden sólo estas tres palabras”: contemplación, cercanía y abundancia. Es un Dios, concluyó el Pontífice, “que siempre vence con la sobreabundancia de su gracia, con la su ternura”, “con su riqueza de misericordia”.

(未翻訳)10月21日(月):世界ルター派連盟の代表者と、ルター派とカトリックの一致委員会の代表者たちへ

愛するルター派の兄弟姉妹の皆さん、
カトリックの兄弟姉妹の皆さん、


De buen grado os doy la bienvenida a todos vosotros, delegación de la Federación luterana mundial y representantes de la Comisión para la unidad luterano-católica. Este encuentro es una respuesta al encuentro, muy cordial y agradable, que mantuve con usted, estimado obispo Younan, y con el secretario de la Federación luterana mundial, reverendo Junge, con ocasión de la celebración de inicio de mi ministerio como Obispo de Roma.
Contemplo con sentido de profunda gratitud al Señor Jesucristo los numerosos pasos que las relaciones entre luteranos y católicos han dado en las últimas décadas, y no sólo a través del diálogo teológico, sino también mediante la colaboración fraterna en múltiples ámbitos pastorales y, sobre todo, en el compromiso de avanzar en el ecumenismo espiritual. Este último constituye, en cierto sentido, el alma de nuestro camino hacia la plena comunión, y nos permite pregustar de él ya desde ahora algún fruto, si bien imperfecto: en la medida en que nos acercamos con humildad de espíritu a Nuestro Señor Jesucristo, estamos seguros de acercarnos también entre nosotros; y en la medida en que invocamos del Señor el don de la unidad, tenemos la certeza de que Él nos tomará de la mano y Él será nuestro guía. Es necesario dejarse tomar de la mano por el Señor Jesucristo.
Este año, como resultado del diálogo teológico, que ya cumple cincuenta años, y en vista de la conmemoración del quinto centenario de la Reforma, se publicó el texto de la Comisión para la unidad luterano-católica, con el significativo título: «Del conflicto a la comunión. La interpretación luterano-católica de la Reforma en 2017». Me parece realmente importante para todos el esfuerzo de confrontarse en diálogo sobre la realidad histórica de la Reforma, sobre sus consecuencias y las respuestas que a ella se dieron. Católicos y luteranos pueden pedir perdón por el mal causado unos a otros y por las culpas cometidas ante Dios, y juntos gozar por la nostalgia de unidad que el Señor ha despertado en nuestro corazón, y que nos hace mirar adelante con una mirada de esperanza.
A la luz del camino de estos decenios, y de los numerosos ejemplos de comunión fraterna entre luteranos y católicos, de lo cual somos testigos, confortados por la confianza en la gracia que se nos da en el Señor Jesucristo, estoy seguro de que sabremos llevar adelante nuestro camino de diálogo y de comunión, afrontando incluso las cuestiones fundamentales, como también las divergencias que surgen en el ámbito antropológico y ético. Cierto, las dificultades no faltan y no faltarán, requerirán aún de paciencia, diálogo, comprensión recíproca, pero no nos asustemos. Sabemos bien —como muchas veces nos recordó Benedicto XVI— que la unidad no es primariamente fruto de nuestro esfuerzo, sino de la acción del Espíritu Santo a quien es necesario abrir nuestro corazón con confianza para que nos conduzca por las vías de la reconciliación y la comunión.
El beato Juan Pablo II se preguntaba: «¿Cómo anunciar el Evangelio de la reconciliación sin comprometerse al mismo tiempo en la obra de la reconciliación de los cristianos?» (Carta encíclica Ut unum sint, 98). Que la oración fiel y constante en nuestras comunidades sostenga el diálogo teológico, la renovación de la vida y la conversión del corazón, a fin de que, con la ayuda del Dios uno y trino, podamos caminar hacia la realización del deseo del Hijo, Jesucristo, que todos sean uno. Gracias.

(翻訳冒頭のみ)10月21日(月)、朝ミサ説教:金銭への執着は家庭を崩壊する。他者を助けるために神からいただいた財産を使おう

 わたしたちが受けた財産は、他者を助けるため、世界を進展させることのできるプロジェクトを支えるために有効利用されるべきであって、がめつく貯めこまれるものではない。これは今朝聖マルタの家の小聖堂で捧げらたミサの説教でのパパ・フランシスコの回想である。

Al comentar el Evangelio del día, en el que un hombre pide a Jesús que intervenga para resolver una cuestión de herencia con su hermano, el Papa desarrolló el problema de nuestra relación con el dinero:

“Este es un problema de todos los días. ¡Cuántas familias destruidas hemos visto por el problema del dinero: hermano contra hermano; padre contra hijo! Es esto lo que causa este apego al dinero, ¡destruye! ¡Cuando una persona está apegada al dinero, se destruye a sí misma, destruye la familia! ¡El dinero destruye! Hace esto, ¿no? Te ataca. El dinero sirve para llevar adelante tantas cosas buenas, tantos trabajos para desarrollar la humanidad, pero cuando tu corazón está tan apegado, te destruye”.
Jesús relata la parábola del hombre rico, que vive para acumular “tesoros para sí mismo” sin enriquecerse ante Dios. Y dijo que la advertencia de Jesús es que estemos lejos de la codicia:

“Es lo que hace mal: la codicia en mi relación con el dinero. Tener más, tener más, tener más... ¡Te lleva a la idolatría, te destruye la relación con los demás! No el dinero, sino la actitud, que se llama codicia. Además esta codicia te enferma, porque te hace pensar sólo en función del dinero. Te destruye, te enferma… Y al final - esto es lo más importante - la codicia es un instrumento de la idolatría, porque va por el camino contrario al que ha hecho Dios con nosotros. San Pablo nos dice que Jesucristo, que era rico, se ha hecho pobre para enriquecernos a nosotros. Este es el camino de Dios: la humildad, el abajarse para servir. En cambio la codicia te lleva por el camino contrario: tú, que eres un pobre hombre, te haces Dios por la vanidad. ¡Es la idolatría!”.
Por esta razón – prosiguió afirmando el Papa – Jesús dice cosas “tan duras, tan fuertes, contra este apego al dinero. Y explicó que nos dice que no se puede servir a dos patrones: o a Dios o al dinero. Nos dice, prosiguió, que no nos preocupemos, que el Señor conoce nuestras necesidades y nos invita “al abandono confiado en el Padre, que hace florecer los lirios del campo y da de comer a las aves”. Mientras el hombre rico de la parábola sigue pensando en las riquezas, si bien Dios le dice: “¡Necio, esta noche se te pedirá tu vida!”. El Papa concluyó afirmando que este camino contrario al de Dios es una necedad, que nos lleva lejos de la vida y que destruye “toda fraternidad humana”:

“El Señor nos enseña cuál es el camino: no es el camino de la pobreza por la pobreza. ¡No! Es el camino de la pobreza como instrumento, para que Dios sea Dios, ¡para que Él sea el único Señor! ¡No el ídolo de oro! Y todos los vienes que tenemos, el Señor nos los da para hacer que el mundo vaya adelante, para que la humanidad vaya adelante, para ayudar, para ayudar a los demás. Que permanezca hoy en nuestro corazón la Palabra del Señor: ‘Estén atentos a estar lejos de toda codicia, porque incluso si uno está en la abundancia, su vida no depende de lo que él posee’”.

10月20日(日)、お告げの祈り:神に昼も夜も叫び求めること


10月19日(土)、バチカン美術館の「芸術のパトロンたち」への演説

愛する兄弟姉妹の皆さん、おはようございます!

 創立30周年を記念してローマに巡礼に来ているバチカン美術館の「芸術のパトロンの皆さん」を勧化します。この30年の歩みの中で、パトロンたちはバチカン所蔵の芸術の数多くの宝をよみがえらせるために多大の寄与をしてくださいました。そして、より一般的に、美術館の宗教的、芸術的、文化的機能の実現に貢献してくださいました。皆さんに心から感謝します。

 バチカン美術館の芸術のパトロンたちの誕生は、教会が抱える聖なることに関する芸術の遺産への責任に関する称賛に値する意義によってのみならず、教皇庁のコレクションが作られるようにと導いた霊的また宗教的理想に継続性を与えたいという望みからでもありました。それぞれの時代に教会は自らの信仰の美しさを表現し、神の創造の偉大さとその似姿とイメージに作られた人間の尊厳、罪と死の悲劇によって刻まれた世にあがないと再生をもたらしたキリストの死と復活の力の福音的メッセージを告げ知らせるために、芸術を求めました。バチカン美術館は、その唯一で豊かな歴史をもって、数知れない巡礼者やローマに到着する訪問者たちに人類の霊的望やキリスト者の信仰の奥深い神秘、神にその起源と実現を見出すその素晴らしい美しさの探求の証しをする芸術という作品を通してこのメッセージに出会える可能性を提供しています。

 愛する友の皆さん、バチカン美術館の芸術作品に対する皆さんの支えが、いつも教会の命と使命の内奥への参与のしるしでありますように。これが、神の国の美しさ、調和、平和が人の心一つ一つの望みであり、人類の芸術へのより高い望みのインスピレーションであるところの、その神の国の到来へのわたしたちの希望の表現でもありますように。

 皆さんと、皆さんの家族の上、皆さんの援助している方々の上に、心から、たゆまぬ主の喜びと平和の現れである使徒的祝福を与えます。

(未翻訳、早く訳したいメッセージです)10月18日(土)、バチカンテレビ局開局30周年メッセージ

MENSAJE DEL PAPA FRANCISCO
POR LOS TREINTA AÑOS DEL CENTRO TELEVISIVO VATICANO

Al Rev.mo Mons.
Dario Edoardo Viganò Director del Centro televisivo vaticano

Deseo dirigir mi cordial saludo a todos los presentes en el Congreso que quiere no sólo recordar los treinta años del Centro televisivo vaticano, sino, sobre todo, reflexionar sobre sus perspectivas para un servicio cada vez más atento y cualificado. Saludo a los relatores y a los invitados, en particular a monseñor Claudio Maria Celli y a los miembros del Consejo de administración.
1. Desearía ante todo subrayar que vuestro trabajo es un servicio al Evangelio y a la Iglesia. El aniversario del CTV se sitúa en el marco de otra importante celebración: los cincuenta años de la aprobación del decreto conciliar Inter Mirifica, que cuenta entre los maravillosos dones de Dios los instrumentos de la comunicación social, incluido, precisamente, el medio televisivo. Las palabras de los padres conciliares nos parecen proféticas; subrayaban justamente lo importante que es el uso de estos medios, de modo que «como sal y como luz darán sabor a la tierra e iluminarán el mundo», llevando la luz de Jesucristo y contribuyendo al progreso de toda la humanidad.
En estas décadas la tecnología ha viajado a gran velocidad, creando inesperadas redes interconectadas. Es necesario mantener la perspectiva evangélica en esta especie de «autopista global de la comunicación», tener siempre presente la finalidad que quiso establecer el beato Juan Pablo II dando vida al CTV: favorecer «una acción más eficaz de la Iglesia en lo relativo a las comunicaciones sociales (…) a fin de ofrecer nuevos instrumentos con los cuales desarrollar en el mundo la universal misión de la Iglesia» (Rescripto del 22 de octubre de 1983). Como os recordó también Benedicto XVI: «Al poner las imágenes a disposición de las mayores agencias televisivas mundiales y de las grandes televisiones nacionales o comerciales, favorecéis una información adecuada e inmediata sobre la vida y la enseñanza de la Iglesia en el mundo de hoy, al servicio de la dignidad de la persona humana, la justicia, el diálogo y la paz» (Discurso al CTV, 18 de diciembre de 2008). No olvidéis, por lo tanto, que el vuestro es un servicio eclesial, en el interior de la misión evangelizadora de la Iglesia.
2. Por esto —y es el segundo elemento que desearía subrayar— al presentar los eventos vuestra óptica no puede ser nunca «mundana», sino eclesial. Nosotros vivimos en un mundo en el que prácticamente no existe casi nada que no tenga relación con el universo de los media. Instrumentos cada vez más sofisticados refuerzan el papel cada vez más penetrante que juegan las tecnologías, los lenguajes y las formas de la comunicación en el desenvolvimiento de nuestra vida cotidiana, y esto no sólo en el mundo juvenil. Como recordaba después de mi elección como Obispo de Roma, precisamente encontrando a los representantes de los medios de comunicación social presentes en Roma con ocasión del Cónclave, «el papel de los medios de comunicación ha ido creciendo cada vez más en los últimos tiempos, tanto que se ha hecho imprescindible para relatar al mundo los acontecimientos de la historia contemporánea». Todo esto se refleja también en la vida de la Iglesia. Pero si no es algo sencillo contar los eventos de la historia, aún más complejo es relatar los acontecimientos ligados a la Iglesia, la cual es «signo e instrumento de la íntima unión con Dios», es Cuerpo de Cristo, Pueblo de Dios, Templo del Espíritu Santo. Ello requiere una responsabilidad particular, una fuerte capacidad de leer la realidad en clave espiritual. En efecto, los eventos de la Iglesia «tienen una característica de fondo peculiar: responden a una lógica que no es principalmente la de las categorías, por así decirlo, mundanas, y precisamente por esto no son fáciles de interpretar y comunicar a un público amplio y diversificado» (Discurso a los representantes de los medios, 18 de marzo de 2013).
Hablar de responsabilidad, de una visión respetuosa de los acontecimientos que se quieren relatar, significa tener también la conciencia de que la selección, la organización, la emisión y la distribución de los contenidos requiere una atención particular porque usan instrumentos que no son ni neutros ni transparentes. Esta conciencia recorre hoy el CTV, empeñado en una reorganización según paradigmas tecnológicos capaces de servir mejor a todas las latitudes del mundo, contribuyendo a favorecer la respiración de la catolicidad de la Iglesia. Desearía dar las gracias de corazón a usted, monseñor Dario Edoardo Viganò, y a todo el personal del CTV, por la capacidad de tejer relaciones con realidades diferentes de todo el mundo, para construir puentes, superando muros y fosos, y llevar la luz del Evangelio. Todo ello según la indicación de Inter Mirifica que precisa cómo también en el mundo de los medios, la eficacia de la actividad apostólica requiere «unidad de propósitos y de esfuerzos» (n. 21). Converger en lugar de competir es la estrategia de las iniciativas mediáticas en el mundo católico.
3. Finalmente desearía recordar que vosotros no desarrolláis una función puramente documental, «neutral», de los acontecimientos, sino que contribuís a acercar la Iglesia al mundo, anulando las distancias, haciendo llegar la palabra del Papa a millones de católicos, también allí donde a menudo profesar la propia fe es una elección valiente. Gracias a las imágenes, el CTV está en camino con el Papa para llevar a Cristo a las muchas formas de soledad del hombre contemporáneo, alcanzando también las «sofisticadas periferias tecnológicas». En esta misión vuestra, es importante recordar que la Iglesia está presente en el mundo de la comunicación, en todas sus variadas expresiones, sobre todo para llevar a las personas al encuentro con el Señor Jesús. Es sólo el encuentro con Jesús, de hecho, lo que puede transformar el corazón y la historia del hombre. Os doy las gracias y os aliento a proceder con parresia en vuestro testimonio del Evangelio, dialogando con un mundo que necesita ser escuchado, ser comprendido, pero también recibir el mensaje de la vida verdadera.
Roguemos al Señor para que nos haga capaces de llegar al corazón del hombre, más allá de las barreras de la desconfianza, y pidamos a la Virgen que vele nuestros pasos de «peregrinos de la comunicación». Os ruego que oréis por mí, ¡lo necesito! Invoco la intercesión de santa Clara, patrona de la televisión, y os acompaño con mi bendición.
Vaticano, 18 de octubre de 2013
FRANCISCO

10月18日、フィリピンでの新宣教に関する第1回総会へのビデオメッセージ

主イエス・キリストにおける愛する兄弟姉妹の皆さん、



 皆さんに、わたしたちの主の平和と喜びをもってあいさつします。新宣教に関するフィリピン第1回総会は、信仰年にふさわしい寄与です。ですから、皆さん、司教団の兄弟の皆さん、司祭の皆さん、ブラザー、シスターの皆さん、神学生たち、信徒の皆さん、総会を組織してくださり、これに参加してくださっていることに感謝します。フィリピンやアジアの様々なところからマニラに到着されたと知り、うれしく思います。聖霊は皆さんの中で活発に働きます。キリストの教会は生きています!

 この総会を通して、皆さんが、改めて皆さんの人生の中でイエスの愛に満ちた現存を体験し、 もっと教会を愛し、へりくだりと喜びをもってあらゆる人に福音を分かち合うことができるようになることを望んでいます。倦むことなく、貧しい人たち、病人、見捨てられている人たち、青年たち、家族たちに主のあわれみをもたらして下さい。政界において、また商売や芸術、科学や技術、ソーシャルコミュニケーションの機関にイエスのことを知らせてください。聖霊が被造物を刷新し、わたしの心のとても近くにあるフィリピンと広範にわたるアジアの大陸に正義と平和をもたらすようにしてください。

 お願いですから、わたしのために祈ってください。必要としています。特別な仕方で皆さんのために母に、幸いなるおとめマリアに、新宣教の星に祈りをささげることを約束します。

Mabúhay ang Pilipínas! Mabúhay ang Asia! Pagpaláin kayo ng Dios!
タガログ語で:フィリピンに幸あれ!アジアに幸あれ! 神の祝福あれ!)

 +神が父と子と聖霊の名によって皆さんを祝福してくださいますように。

(翻訳冒頭のみ)10月18日(金)、朝ミサ説教:使徒の衰退


 モーセ、洗礼者ヨハネ、聖パウロ。今朝の聖マルタの家でのミサ説教の中心はこの3人の登場人物にあった。そこで、この誰一人として苦悩から自由だった人はいないこと、けれど主は彼らを見捨てなかったことを強調した。老人ホームで生活している多くの神父さんたちやシスターたちのことを考えながら、教皇は信者たちに、彼らを訪問するように招いた。なぜなら彼らはほんものの「聖性の聖地、使徒性の聖地」だからである、と確言した。

El comienzo de la vida apostólica y el ocaso del apóstol Pablo. Francisco se inspiró en las lecturas del día para detenerse en estos dos extremos de la existencia del cristiano. Al inicio de la vida apostólica, observó, comentando el Evangelio de hoy, los discípulos eran “jóvenes” y “fuertes” y también los “demonios iban por delante” para “la predicación”. La primera lectura, agregó, nos muestra a San Pablo al final de su vida. “Es el ocaso del Apóstol”:

“El apóstol tiene un comienzo alegre, entusiasta, entusiasta con Dios dentro, ¿no? Pero tampoco le fue ahorrado el ocaso. Y me hace bien pensar en el ocaso del Apóstol... Se me ocurren tres iconos: Moisés, Juan el Bautista y Pablo. Moisés es aquel que es el jefe del pueblo de Dios, valiente, luchando contra los enemigos y también luchando con Dios para salvar al pueblo: ¡fuerte! Y al final está sólo sobre el Monte Nebo, mirando a la tierra prometida, pero sin poder entrar allí. No podía entrar en la promesa. Juan el Bautista: en los últimos tiempos no le fueron ahorradas angustias”.

Juan el Bautista, continuó el Pontífice, debe enfrentar también una “angustia dudosa que lo atormentaba” y “terminó bajo el poder de un gobernante débil, borracho y corrupto, bajo el poder de la envidia de la adúltera y del capricho de una bailarina”. Y también el apóstol Pablo, en la primera lectura, habla de aquellos que lo han abandonado, de quienes le han causado daño ensañándose contra su predicación. Cuenta que nadie le ayudó en el tribunal. Todos lo han abandonado. Pero, dice San Pablo, “El Señor estuvo a mi lado, dándome fuerzas, para que el mensaje fuera proclamado”:

“Esto es lo grande del Apóstol, quien, con su vida hace lo que dijo Juan el Bautista: ‘Es necesario que él crezca, y yo disminuya’. El apóstol es el que da la vida para que el Señor crezca. Y al final este se apaga así... También Pedro con la promesa: ‘Cuando serás viejo te llevarán a donde tú no querrás ir’. Y cuando pienso al ocaso del Apóstol, me viene al corazón el recuerdo de esos santuarios de la apostolicidad y santidad que son las casas de reposo de los sacerdotes y monjas: buenos sacerdotes, buenas monjas, envejecidos, con el peso de la soledad, esperando que venga el Señor a llamar a la puerta de su corazón. Estos son verdaderos santuarios de la apostolicidad y santidad que tenemos en la Iglesia. No los olvidemos, ¡eh!”

Si observamos “más profundamente”, dijo el Papa, estos lugares “son bellísimos”. A menudo escucho decir que “se peregrina al Santuario de Nuestra Señora”, “de San Francisco”, “de San Benito”, “tantas peregrinaciones”:

“Me pregunto si nosotros cristianos tenemos el deseo de hacer una visita - ¡que será una verdadera peregrinación! - ¿a estos santuarios de santidad y de apostolicidad, que son las casas de reposo de los sacerdotes y monjas? Uno de ustedes me dijo hace unos días, que cuando iba a un país de misión, iba al cementerio y veía todas las tumbas de los antiguos misioneros, sacerdotes y monjas, sepultados allí desde hace 50, 100, 200 años, desconocidos. Y me decía, ' pero, todo estos puede ser canonizados, porque al final cuenta sólo la santidad cotidiana, esta santidad de todos los días’. En los hogares de ancianos, estas hermanas y estos sacerdotes esperan al Señor un poco como Pablo: un poco tristes, de verdad, pero también con una cierta paz, con el rostro alegre”.

“Hará bien a todos nosotros - concluyó el Obispo de Roma - pensar en esta etapa de la vida que es el ocaso del apóstol y orar al Señor: 'Cuida a los que están en el momento del despojo final, sólo para decir una vez más ‘Sí, Señor, quiero seguirte’”. (RC-RV)

(翻訳冒頭のみ)10月17日(木)、朝ミサ説教:祈りは信仰の扉を開く鍵


 「もしあるキリスト者がある理念の弟子になるなら、信仰を失ったということです」とパパ・フランシスコは今朝の聖マルタの家でのミサで語った。ローマ司教は、キリスト者でありながら「ポケットに鍵を入れたまま、また扉も閉ざしたまま」でいるような態度に注意を促し、もし祈りがなければ、信仰を手放し、理念と道徳主義に陥ることになると繰り返し語った。

“¡Ay de ustedes, doctores de la Ley, porque se han apoderado de la llave de la ciencia!” El Santo Padre desarrolló su homilía partiendo de la advertencia de Jesús de la que habla el Evangelio de hoy. El Papa actualizó esta advertencia. “Cuando vamos por la calle y nos encontramos una iglesia cerrada - dijo - sentimos algo extraño”, porque “una iglesia que esté cerrada, no se entiende”. “A veces,” subrayó, “se nos dan explicaciones” que no son tales: “son pretextos, son justificaciones, pero la realidad es que la iglesia está cerrada y la gente que pasa no puede entrar”. Y, peor aún, “el Señor que está dentro no puede salir”. Hoy, agregó el Pontífice, Jesús habla de esta “imagen de la clausura”, es “la imagen de los cristianos que tienen la llave, pero la ocultan, no abren la puerta”. Peor aún, “se detienen en la puerta” y “no dejan entrar”, y al hacerlo, “ni siquiera ellos entran”. La “falta de testimonio cristiano - observó - hace esto” y “cuando ese cristiano es un sacerdote, un obispo o un Papa es peor”. Pero, se preguntó Francisco, ¿cómo es que un “cristiano cae en esta actitud de llave en el bolsillo y puerta cerrada?”.

“La fe pasa, por así decirlo, por un alambique y se convierte en ideología. Y la ideología no convoca. En las ideologías no está Jesús: su ternura, su amor, su docilidad. Y las ideologías son rígidas, siempre. Ideologías de todo tipo: rígidas. Y cuando un cristiano se convierte en discípulo de la ideología, ha perdido la fe: no es más un discípulo de Jesús, es un discípulo de esta actitud de pensamiento, de esto... Y por esto Jesús les dice: 'Ustedes se han llevado la llave de la ciencia’. El conocimiento de Jesús es transformado en un conocimiento ideológico e incluso moralista, porque estos cerraban la puerta con tantas prescripciones”.

Jesús nos lo dijo, continuó el Papa: “Ustedes cargan sobre los hombros de la gente tantas cosas, pero sólo una es necesaria”. Esto es por lo tanto el proceso “espiritual, mental” de los que quieren la llave en el bolsillo y la puerta cerrada:

"La fe se convierte en ideología y la ideología asusta, la ideología ahuyenta a la gente, aleja, aleja a la gente y aleja a la Iglesia de la gente. Es una enfermedad grave, la de los cristianos ideológicos. Es una enfermedad, pero no es nueva, ¿eh? Ya el apóstol Juan en su primera carta, hablaba de esto. Los cristianos que pierden la fe y prefieren las ideologías. Su actitud es: volverse rígidos, moralistas, especialistas en ética, pero sin bondad. La pregunta puede ser ésta, ¿no? ¿Por qué un cristiano puede volverse así? ¿Qué sucede en el corazón de aquel cristiano, de aquel sacerdote, de aquel obispo, de aquel Papa, que se vuelve así? Simplemente una cosa: aquel cristiano no ora. Y si no hay oración, tu siempre cierras la puerta”.

“La llave que abre la puerta a la fe - anotó el Papa- es la oración”. Y advirtió: “Cuando un cristiano no ora sucede esto. Y su testimonio es un testimonio soberbio”. “El que no ora es un soberbio, es un orgulloso, es uno seguro de sí mismo. No es humilde. Busca la propia promoción”. En cambio, afirmó, “cuando un cristiano ora, no se aleja de la fe, habla con Jesús”. Y, puntualizó “digo orar, no digo decir oraciones, porque estos doctores de la ley decían tantas oraciones” para hacerse ver. En cambio, Jesús dice: " Cuando ores, entra en tu habitación y ora al Padre en secreto, de corazón a corazón”. “Una cosa - dijo el Papa - es orar, y otra cosa es decir oraciones”.

“Estos no oran, abandonan la fe y la transforman en ideología moralista, la casuística, sin Jesús. Y cuando un profeta o un buen cristiano los reprende, hacen lo mismo que hicieron con Jesús: ‘Cuando salió de allí, los escribas y los fariseos comenzaron a acosarlo, exigiéndole respuesta sobre muchas cosas y tendiéndole trampas -son insidiosos- para sorprenderlo en alguna afirmación’. Ellos no son transparentes. Pobrecitos, son gente manchada por la soberbia. Pidamos al Señor la gracia, primero: de no dejar de orar, para no perder la fe: permanecer humildes, y así no nos cerraremos, gente que cierra el camino al Señor”. (RC-RV)

10月16日(水)、一般謁見:使徒的教会について

(翻訳冒頭のみ)10月15日(火)、朝ミサ説教:わたしの隠れた偶像はなんでしょう?


 偶像崇拝と偽善は、キリスト者の生活すら見逃さない。パパ・フランシスコは今朝の聖マルタの家でのミサで、この両方の「中毒」に注意をするようにと促した。この二つの罪に陥らないためには、神への愛と隣人への愛の実践をすることが必要であると語った。


Convertirse en un apóstol de las propias ideas, o un devoto del propio bienestar, en lugar que de Dios. Hablar mal de alguien porque no se adecua a ciertas formalidades, olvidando que el mandamiento “nuevo” del cristianismo es el amor al prójimo sin condiciones. La liturgia de la misa de hoy fue el motivo de la reflexión del Santo Padre sobre las trampas que constelan la vida de fe. El Papa partió de las palabras de San Pablo, para estigmatizar el pecado de la idolatría, aquel de personas que -como dice el Apóstol- “habiendo conocido a Dios, no lo glorificaron ni le dieron gracias como corresponde”, prefiriendo adorar “a las criaturas antes que al Creador”. Es una idolatría, afirmó el Obispo de Roma, que llega a “ahogar las verdades de la fe”, en las que se revela la justicia de Dios”:


“Pero como todos nosotros tenemos necesidad de adorar -porque tenemos la huella de Dios en nosotros- cuando no adoramos a Dios, adoramos a las criaturas. Y este es el paso de la fe a la idolatría. Ellos, los idólatras, no tienen ninguna razón para excusarse: a pesar de haber conocido a Dios, no lo han glorificado como a Dios ni dado las gracias como Dios. Y ¿cuál es el camino del idólatra? Se dice claramente: ‘se han perdido en sus vanos razonamientos y su mente obtusa se ha oscurecido’. El egoísmo del propio pensamiento, el pensamiento omnipotente, aquello que yo pienso es lo verdadero: yo pienso la verdad, yo construyo la verdad con mis pensamientos…”.


Las críticas de San Pablo de hace dos mil años, se dirigían a los idólatras que se postraban ante reptiles, aves, cuadrúpedos. Y aquí, Francisco se adelanta inmediatamente a la objeción de que hoy en día nadie va por ahí adorando estatuas. No es así, afirmó el Papa, la idolatría ha encontrado otras maneras y formas:


“Incluso hoy en día, hay tantos ídolos y también hoy en día hay tantos idólatras, tantos que se creen sabios. También entre nosotros, entre los cristianos, ¡eh! Yo no hablo de aquellos que no son cristianos, no de ellos, yo los respeto. Pero entre nosotros - hablamos en familia - se creen sabios, que saben todo... Y se han vuelto necios, y cambian la gloria de Dios incorruptible por una imagen: el propio yo, mis ideas, mi comodidad... Hoy, todos nosotros - sigo adelante, ¡eh! No es una cosa solamente histórica - también hoy en día por el camino se encuentran ídolos, un paso adelante... Todos tenemos dentro algún ídolo escondido. Podemos preguntarnos ante Dios: ¿cuál es mi ídolo escondido? ¡Aquel que ocupa el lugar del Señor!”.


Si San Pablo define necios a los idólatras, en el Evangelio del día, Jesús hace lo mismo con los hipócritas, encarnados por el fariseo que se escandaliza porque el Maestro no se ha lavado antes de sentarse a la mesa. “¡Así son ustedes, los fariseos! -responde Jesús- Purifican por fuera la copa y el plato, y por dentro están llenos de voracidad y perfidia”. Y añade: “Den más bien como limosna lo que tienen y todo será puro”:


“Jesús aconseja: no mirar a las apariencias, ir derecho a la verdad. El plato es el plato, pero lo que es más importante es lo que está en el plato: la comida. Pero si eres vanidoso, si eres arribista, si eres ambicioso, si eres una persona que siempre se jacta de sí misma o que te gusta presumir, porque piensas que eres perfecto, da un poco de limosna y eso sanará tu hipocresía. Este es el camino del Señor: adorar a Dios, amar a Dios sobre todas las cosas y amar al prójimo. ¡Es tan fácil, pero tan difícil! Esto se puede hacer sólo con la gracia. Pidamos la gracia”. (RC-RV)

(翻訳冒頭のみ)10月14日(月)、朝ミサ説教:わたしが望むのは、生贄ではなく、あわれみである


 「ヨナ症候群」に対抗しなければならない、なぜならこのせいで、自分が行っているわざは、自分の救いにとって充分だと考えさせる偽善へと導くからである。パパ・フランシスコは月曜日の朝、聖マルタの家でのミサでこう語った。ローマ司教は、「完璧な宗教者の雰囲気をもった態度」に対して警鐘を鳴らした。それは教義に従うけれど、「貧しい人々」の救いへの配慮に欠けた態度だからである。

El “síndrome de Jonás” y la “señal de Jonás”. El Santo Padre centró su homilía en este binomio. Jesús, observó, habla en el Evangelio de hoy de “generación perversa”. Su palabra es muy fuerte. Pero, advirtió, no se refería a la gente “que lo seguía con tanto amor”, sino a los “doctores de la ley” que “trataban de ponerlo a la prueba para hacerlo caer en la trampa”. Estas personas, de hecho, “le pedían señales” y Jesús responde que sólo se les dará “la señal de Jonás”. Existe, sin embargo, advirtió Francisco, el “síndrome de Jonás”. El Señor le pidió que fuera a Nínive, y él huyó a España. Jonás, dijo, “tenía las cosas claras”: “la doctrina es ésta”, “se debe hacer esto” y que los pecadores “se las arreglen ellos, yo me voy”. A aquellos que “viven según este síndrome de Jonás”, añadió el Pontífice, Jesús “llama hipócritas, porque no quieren la salvación” de la “gente pobre”, de los “ignorantes” y de “pecadores”:

“El ‘síndrome de Jonás’ no tiene celo por la conversión de la gente, busca una santidad -me permito la palabra- una santidad de “lavandería”, toda bonita, impecable, pero sin ese celo de ir a predicar el Señor. Frente a esta generación enferma del ‘síndrome de Jonás’ el Señor promete la señal de Jonás. La otra versión, la de Mateo, dice que Jonás estuvo dentro de la ballena por tres días y tres noches, referencia a Jesús en el sepulcro - a su muerte y resurrección - y aquella es la señal que Jesús promete contra la hipocresía, contra esta actitud de religiosidad perfecta, contra esta actitud de un grupo de fariseos”.

Hay una parábola en el Evangelio, agregó el Pontífice, que retrata muy bien este aspecto: la del fariseo y el publicano que oraban en el templo. El fariseo, “tan seguro de sí mismo”, daba gracias a Dios ante el altar por no ser como el publicano que en cambio sólo pedía la misericordia del Señor, reconociéndose pecador. He aquí que “la señal que Jesús promete para su perdón, a través de su muerte y su resurrección”, dijo el Papa, “es su misericordia”: “Misericordia quiero y no sacrificios”.

“La señal de Jonás, la verdadera, es aquella que nos da la confianza de ser salvados por la sangre de Cristo. ¿Cuántos cristianos, cuántos hay, que piensan que serán salvados sólo por lo que hacen, por sus obras? Las obras son necesarias, pero son una consecuencia, una respuesta a aquel amor misericordioso que nos salva. Pero sólo las obras, sin ese amor misericordioso, no sirven . En cambio, el 'síndrome de Jonás’ tiene confianza sólo en su justicia personal, en sus obras”.

Jesús habla entonces de “generación malvada” y “a la pagana, la reina de Saba, casi la nombra juez: se levantará contra los hombres de esta generación”. Y esto, señaló, “porque era una mujer inquieta, una mujer que buscaba la sabiduría de Dios”:

“He aquí que, el 'Síndrome de Jonás' nos lleva a la hipocresía, a aquella autosuficiencia, a ser cristianos limpios, perfectos, ‘porque hacemos estas obras: cumplimos los mandamientos, todo’. Es una gran enfermedad. Es la señal de Jonás, de la misericordia de Dios en Jesucristo, muerto y resucitado por nosotros, por nuestra salvación. En la primera lectura hay dos palabras que se conectan con esto. Pablo dice de sí mismo que es un apóstol, no porque ha estudiado, no: Apóstol por llamado. Y a los cristianos les dice 'Están llamados por Jesucristo’. La señal de Jonás nos llama: seguir al Señor, pecadores, somos todos, con humildad, con docilidad. Hay una llamada, también una opción”.

“Aprovechemos esta liturgia de hoy - pidió el Papa - para preguntarnos y tomar una decisión: ¿qué prefiero? ¿El síndrome de Jonás o la señal de Jonás?”. (RC-RV)

2013年10月14日月曜日

ファティマの聖母への奉献


幸いなるマリア、ファティマのおとめ、
あなたが母としてここにおられることに改めて感謝をしながら、
わたしたちはあなたのことを幸いな者と呼ぶ
全世代の人々と声を合わせます。

あなたの中で神の大いなるわざが行われたことを祝います。
飽きることなく
悪によって苦しみ、罪に傷ついた人類の上に
憐れみをもって身をかがめ、癒し、救ってください。


今日信頼しながら
わたしたちすべてが心から愛する
このあなたの像の前で
あなたの守りのもとに委ねるこの奉献を
母の思いやりをもって受け止めてください。

わたしたち一人ひとりが
あなたの目には貴く
わたしたちの心の中にあるものすべてが
あなたには他人ごとではないと
わたしたちは確信しています。

あなたのこのうえなく甘美な眼差しがわたしたちに届きますように。
あなたの微笑みの慰めに満ちた愛撫をわたしたちはいただきます。
あなたの腕の中でわたしたちの命を守ってください。
善い望みの一つ一つを祝福し、力づけてください。
信仰を再燃させ、培って下さい。
希望を保たせ、照らして下さい。
愛徳を奮い立たせ、励まして下さい。
わたしたちすべてを聖性の歩みにおいて導いてください。 

小 さき者たち、貧しい人たち、
疎外されている人たち、苦しむ人たち、
罪びとたち、心を失ってしまった人たちへの
特別な配慮のあるあなたの愛そのものをわたし たちに教えてください。
わたしたちすべてをあなたの守りのもとに集め、
あなたの愛する御子、わたしたちの主イエスを
わたしたちにお譲りくださ い。
アーメン。

10月13日(日)、ミサ説教:マリアのように答えるように


 パパ・フランシスコはミサの終わりにファティマの聖母への奉献の祈りをささげた。「ファティマの聖母、あなたが母としてここにおられることに改めて感謝をしながら、わたしたちはあなたのことを幸いなものと呼ぶ全世代の人々と声を合わせます。」「わたしたちの命をその腕の中で守ってください」
 

聖母マリアへの奉献

 マリアよ、小さき者たち、貧しい人たち、疎外されている人たち、苦しむ人たち、罪びとたち、心を失ってしまった人たちへの特別な配慮のあるあなたの愛そのものをわたしたちに教えてください。わたしたちすべてをあなたの守りのもとに集め、あなたの愛する御子、わたしたちの主イエス・キリストをわたしたちにお譲りください。



 

教皇の説教全文

 詩篇で「新しい歌を主に歌え、大いなることをなさったから」(詩篇97篇1節)とみんなで唱えました。


 今日、わたしたちはそのような主の大いなるわざのうちの一つの前にいます。マリアです!わたしたちのようにつつましく弱い被造物であり、神の母、創造主の母となるために選ばれた方です。

 まさに先ほど耳にした朗読に照らしてマリアを見つめながら、三つのポイントについて皆さんと分かち合いたいと思います。一つ目は、「神はわたしたちを驚かせる」、二つ目は、「神はわたしたちに忠誠を求めている」、三つ目は、「神はわたしたちの力である」というポイントです。

1.一番:「神はわたしたちを驚かせる」。ナアマンのお話があります。アラム王の軍隊長です。興味深いものです。ハンセン氏病から癒されるために、神の預言者の前に連れて来られます。相手はエリシャですが、彼は魔術的な儀式はせず、特別なことをも求めず、ただ神に信頼し、川の水で体を洗うようにと言いました。ダマスコの大きな川ではなく、小さなヨルダン川です。これはナアマンを混乱させ、驚かせもした要求でした。こんなにも単純なことを求める神はいったい何者か?と。そういうわけで立ち去ることを決めましたが、少し話しが進んでから、ヨルダン河で体を洗います。すると即座に癒されるのです。神はわたしたちを驚かせます。まさに貧しさの中、弱さの中、謙遜の中に、です。そこは神が自らを表明し、わたしたちを救い、わたしたちを癒し、わたしたちを力づけるその愛を下さるところです。わたしたちに求めるのはその言葉に従い、彼に信頼するということだけです。

 これはおとめマリアの経験でもありました。天使のお告げを前に、その驚きを隠しません。その驚きとは、神が、人となるという時に、まさにマリア、ナザレの簡素な女の子、富や権力の宮殿に住んでおらず、特別なこともしていない小娘、しかし神に開かれ、たとえすべてを理解しなくとも神を信頼する女の子を選んだ、ということを見る驚きです。「主のはしためはここに。わたしの内であなたの言葉通りのことが行われますように」(ルカ1章38節参照)、これがその応えでした。神はいつもわたしたちを驚かせます。わたしたちの型を崩します。わたしたちの計画を危機にさらしこう言います。「わたしを信じなさい。恐れてはならない。驚きなさい。自分自身の殻から出てきて、わたしに従いなさい」。

 今日、皆さん、主がわたしたちに求めるかもしれないこと、あるいは今わたしたちに求めていることに恐れをなしているかどうか自問しましょう。マリアがしたように、神に驚かされるがままにしているだろうか、それとも自分の安全牌に留まり、物質的な安全、知的安定、イデオロギー的安定、自分の計画の安定に閉じこもっているのだろうか?ほんとうに神にわたしの人生の中に入って来させているだろうか?どう彼に応えているだろうか?

2.先ほど耳にした聖パウロの朗読では、使徒はその弟子ティモテに向けて次のように言います。「イエス・キリストのことを覚えていなさい。主と共に踏みとどまっているなら、イエスと共に支配するのです」。これが二つ目のポイントです。いつもキリストのことを思い出すことです。イエス・キリストの思い出、これこそ信仰に踏みとどまるということです。神はわたしたちをその愛をもって驚かせますが、忠実に自分に従うようにとわたしたちに求めます。一つのこと、一つの計画、一つの務めにやる気を出したことが何度もあったことを考えてみましょう。けれどその後、最初の困難を前に、タオルを(リングに)投げ入れてしまいます。これは、残念なことに、婚姻のように、わたしたちの根本的な選択においても生じます。継続的であること、とった決断や引き受けた約束に忠実であることの困難です。しばしば「はい」と答えるのは簡単ですが、その後この「はい」という返事を毎日繰り返すことができないものです。忠実でいられないものなのです。

 マリアはその「はいという返事」を神に対して告げました。一つの「はいという返事」がそのつつましいナザレでのあり方を変えたのです。けれどそれは一回きりではありませんでした。むしろ喜ばしい時にも痛みの伴う時にも自分の心の中で発声された他の多くの「はいという返事」の先駆けとなったのです。これらすべての「はいという返事」は十字架のもとで口に出したもので頂点に達しました。今日、ここには大勢お母様方がお見えになっています。どのポイントまでマリアから神への忠誠は到達したのだろうかと考えてごらんなさい。十字架上の自分の一人子を見ることまでいったのです。忠実な女性は、自分の足でしっかり立ち、内側は打ちのめされても忠実で力強いものをもった女性です。

 そこでわたしは自問します。自分はほんの短い時間だけのキリスト者なのだろうか、それともずっとキリスト者なのだろうか?と。その場しのぎのもの、相対的なものの文化は信仰生活にも入り込みます。神はわたしたちに毎日、普通のものごとの中で忠実であるようにと求め、加えてしばしばわたしたちが忠実でなくとも、彼はいつも忠実で、そのあわれみでわたしたちを立ち上げるために手を伸ばすのに疲れを感じることはなく、わたしたちがもう一度歩き直そうとし、主に立ち返り、わたしたちの弱さを告白して主の力を主ご自身がわたしたちに下さるように励まします。これは決定的な歩みで、いつも、弱さにおいても、わたしたちの罪の間でも、主と共にあるものです。その場しのぎのものの道を歩くことは決してありません。これは、そうです、殺します。信仰とは、マリアの場合にそうであったように、決定的な忠実なのです。

3.最後のポイントです。神はわたしたちの力である。福音に出てくるイエスに癒された十人のハンセン氏病患者のことを考えます。主との出会いに出ていって、遠くに留まり、叫んで言うのです:「イエス、先生、わたしたちを憐れんでください(ルカ17章13節)。彼らは病気で、愛と力を必要とし、誰か自分たちを癒してくれる人を探しています。そしてイエスはその病気のすべてから自由にする、ということで応えます。興味を引くことですがしかし、たった一人だけが神をたたえ叫び声をあげながら、感謝をささげていたのです。イエス自身が彼に指示します:癒しに至ることを求めて叫んでいたのは十人だったのにたった一人だけが帰ってきて叫びで神に感謝し、主のうちにわたしたちの力があることを認識します。感謝できること、わたしたちのためにしてくださることのおかげで神に栄光を期してたたえることを知っていることです。

 マリアを見ましょう。お告げの後、彼女がする最初のことは、その年老いたいとこエリザベトへの愛徳の振る舞いです。そして最初に口から出てきた言葉は「わたしの魂は主の偉大さを宣言します」です。つまり、賛美の歌、神への感謝の行為です。自分のうちに行われたことだけのために賛美しているのではなく、救いの歴史すべてにおいて行われたことのために賛美と感謝をするのです。すべてのことは神からの賜物です。もしわたしたちがあらゆることが神からの賜物だということを理解できるなら、わたしたちの心の中にはどれほどの幸せがあることでしょう!すべてのことが神からの贈り物なのです。彼はわたしたちの力なのです!ありがとうと言うのは簡単ですが、しかしながらこれほどまで難しいのです!家庭で何度互いにありがとうと言い合っていますか?共同生活のキーワードの一つです。「失礼」「ごめん」「ありがと」。もし家庭でこの三つの言葉を言い合っているならば、家族は前進します。「失礼」「ごめん」「ありがとう」。家庭で何度「ありがとう」とわたしたちは言いますか?わたしたちを助け、わたしたちに近づき、人生においてわたしたちと共に歩んでくれる人に何度感謝を表明しますか?しばしばどれもまるで何もなかったかのように済ましてしまうものです!そして同様に、神に対しても同じく振舞っています。何かお願いするために主に向かうのは簡単です。けれど感謝するとなると、「うぅ、その気になれない」。

 マリアの取り次ぎを求めながら聖体祭儀を続けましょう。マリアがわたしたちを助け、抵抗なく神によって驚かされ、日々忠実な子らとなり、わたしたちの力である神に賛美と感謝を捧げられるようにしてくださいますように。アーメン。
(RC-RV)

2013年10月13日日曜日

10月12日:マリアの眼差しのもとで

(RV).- (Con audio) La tarde del sábado los santuarios marianos de Lourdes, Nazaret, Luján, Vailankanni, Guadalupe, Akita, Nairobi, Benneux, Częstochowa y Marian Valley se unieron al Divino Amore de Roma para una gran Vigilia de Oración ante la presencia solemne de la estatua original de Nuestra Señora de Fátima. "María, haznos sentir tu mirada de Madre, guíanos a tu Hijo, haz que no seamos cristianos 'de escaparate', sino de los que saben 'mancharse la manos' para construir con tu Hijo Jesús su Reino de amor, de alegría y de paz", fue la invocación del Papa Francisco en un videomensaje.


教皇によるビデオメッセージ




愛する兄弟姉妹の皆さん

 神の愛の聖地にいる巡礼者の皆さん、ルルド、ナザレ、ルハン、ヴァイランカンニ、グアダルーペ、秋田、ナイロビ、ベンヌー、チェストコヴァ、マリアン・ヴァレーのマリア聖地からつながっている皆さん、この夕刻、ロザリオの祈り、そして聖母の眼差しのもとでの聖体礼拝において皆さん全員と一つになっていることを感じます。

 眼差し…。何と大切なことでしょう!たった一つの眼差しでどれほど多くのことを告げることができるでしょう!愛情、励まし、同情、愛が伝わります。けれど咎め、妬み、おごり、憎しみまでもが伝わってしまいます。しばしば、眼差しは言葉数よりも多くのことを語ります。あるいは言葉では言えない、あるいは言うのがはばかれることを伝えます。

 誰をおとめマリアは見ているのでしょう?わたしたち全員を、わたしたち一人ひとりをです。では、どのようにわたしたちを見るのでしょう?母として、温もりを持って、憐れみを持って、愛を持ってわたしたちを見てくださるのです。そのように、イエスのあらゆる時に、喜びの時、輝きの時、苦しみや痛みの時、栄光の時、そう、ちょうど聖なるロザリオの神秘を観想するように、単純に愛を持ってその子イエスを見つめてきました。

 わたしたちが疲れている時、元気をなくしている時、問題に打ちのめされそうになっている時、マリアに戻りましょう。わたしたちの心に「元気を出して、子よ、わたしがあなたを支えているから!」と語りかけるその眼差しを感じましょう。おとめはわたしたちのことをよく知っています。お母さんですから、何がわたしたちの喜びであり、困難であり、希望であり、落胆であるかをよく知っています。わたしたちの弱さや罪の重みを感じる時、マリアに戻りましょう。わたしたちの心に「立ち上がって、わたしの息子イエスのところにかけよりなさい!イエスにおいて道を続けるための歓迎、憐れみ、新しい力を見出すでしょう」。

 マリアの眼差しはわたしたちだけに向けられているのではありません。十字架の足元で、イエスがその使徒ヨハネにマリアを委ねる時、同時にわたしたち全員にも委ね、こういいます。「婦人よ、あなたの子です」(ヨハネ19章26節)、マリアの眼差しはイエスに集中しています。そしてマリアはカナの結婚の時と同様に、わたしたちにこういいます。「この人が言う通りにしなさい」(ヨハネ2章5節)と。マリアはイエスを指し、わたしたちにイエスの証しをするようにと招き、その子イエスにいつも導きます。なぜならイエスにおいてのみ救いがあり、イエスだけが孤独や困難、罪の水を出会いと喜びのぶどう酒に変えることができるのです。

 「信じたあなたは幸いです」。マリアは神への信仰によって、その信仰によって幸いなる方なのです。なぜならその心の眼差しがいつも神に、その胎に連れ行き十字架において眺めることになったその神の子に集中していました。聖体礼拝において、マリアはわたしたちにこう語ります。「わたしの子イエスをごらんなさい。イエスにしっかりと眼差しを据え、耳を傾け、イエスと語りなさい。イエスは愛を持ってあなたを見つめます。恐れないで。イエスは、あなたの生活の大小の働きにおいて、家族との関わりの中で、あなたの仕事の中で、パーティーの時に、イエスに従い、その証しをするようにと教えるでしょう。あなたに自分の殻から出ていき、あなたを愛して来られ、言葉ではなく、働きをもって今も愛しておられるイエスのように周りの人たちのことを見つめるように教えています。

 おぉ、マリア!あなたの母の眼差しを感じさせてください。あなたの子に導いてください。わたしたちが「ショーウィンドーの」キリスト者にならないようにしてください。むしろ御子イエスと共にその愛と喜びと平和の国を建設するために「手を土で汚し(汗水たら)す」ことのできる人間にしてください。
(RC-RV)

(翻訳中)10月12日(土)、要理:マリアの信仰がイエスが人間の肉体を持つにいたらせた。


 何千もの白いハンカチが振られ、聖母への愛の面持ちを持った人々の間で、教皇は土曜日午後5時に、ローマのサン・ピエトロ広場にファティマの聖母像のオリジナルを迎えた。この永遠の町に像が届いたのは正午ごろ。今週末祝われるマリアデーのためである。

 教父の要理 全文
 
愛する兄弟姉妹の皆さん、

 このキリストの母、教会の母、わたしたちの母マリアに捧げられた信仰年の集いにいます。その像は、ファティマから持って来られたものですが、わたしたちの間におられるマリアの現存を感じる一助となります。これは一つの現実です。マリアはいつもイエスのところにわたしたちを連れていきます。マリアは信仰の女性です。ほんものの信者です。自問することができるでしょう。マリアの信仰とは、どのようなものだったのだろう?と。

1.マリアの信仰の最初の要素はこれです。 マリアの信仰は罪の絡み、結び目をほどく(LG56参照)ということです。これは何を意味するのでしょうか?公会議教父たちは聖エイレナイオスの次のような表現を使いました。「エヴァの不従順によってできた結び目がありますが、マリアはこれをその従順によってほどいたのです。おとめエヴァがその信仰の不足で絡ませたものを、マリアはその信仰によって説いたのです」(異端論駁3巻22,4)。
  不従順の「絡み」、不信の「絡み」です。子どもがお母さんやお父さんに反抗する時に、これをちょっとした「絡み」の形になるということができるでしょう。これは子どもが


El «nudo» de la desobediencia, el «nudo» de la incredulidad. Cuando un niño desobedece a su madre o a su padre, podríamos decir que se forma un pequeño «nudo». Esto sucede si el niño actúa dándose cuenta de lo que hace, especialmente si hay de por medio una mentira; en ese momento no se fía de la mamá o del papá. Vosotros sabéis, ¡Cuántas veces pasa esto! Entonces, la relación con los padres necesita ser limpiada de esta falta y, de hecho, se pide perdón para que haya de nuevo armonía y confianza. Algo parecido ocurre en nuestras relaciones con Dios. Cuando no lo escuchamos, no seguimos su voluntad, cometemos actos concretos en los que mostramos falta de confianza en él – y esto es pecado –, se forma como un nudo en nuestra interioridad. Estos nudos nos quitan la paz y la serenidad. Son peligrosos, porque varios nudos pueden convertirse en una madeja, que siempre es más doloroso y más difícil de deshacer.
Pero para la misericordia de Dios, lo sabemos, nada es imposible. Hasta los nudos más enredados se deshacen con su gracia. Y María, que con su «sí» ha abierto la puerta a Dios para deshacer el nudo de la antigua desobediencia, es la madre que con paciencia y ternura nos lleva a Dios, para que él desate los nudos de nuestra alma con su misericordia de Padre. Cada uno de nosotros tiene algunos y podemos preguntarnos dentro de nuestro corazón: ¿Cuáles son los nudos que hay en mi vida? Eh, Padre, ¡los míos no se pueden aflojar!. Eh, ¡esto es una confusión! Todos los nudos del corazón, todos los nudos de la conciencia se pueden aflojar. ¿Pido a María que me ayude a tener confianza, para aflojar, para en la misericordia de Dios para cambiar? Ella, mujer de fe, seguro que nos dirá: "Ve adelante, ve donde el Señor: Él te entiende". Y ella lleva de la mano de María el abrazo del Padre, del Padre de la misericordia.

2. Segundo elemento: la de fe de María da carne humana a Jesús. Dice el Concilio: «Por su fe y obediencia engendró en la tierra al Hijo mismo del Padre, ciertamente sin conocer varón, cubierta con la sombra del Espíritu Santo» (LG, 63). Este es un punto sobre el que los Padres de la Iglesia han insistido mucho: María ha concebido a Jesús en la fe, y después en la carne, cuando ha dicho «sí» al anuncio que Dios le ha dirigido mediante el ángel. ¿Qué quiere decir esto? Que Dios no ha querido hacerse hombre ignorando nuestra libertad, ha querido pasar a través del libre consentimiento de María, através de su «sí».Le ha preguntado: "¿Estás dispuesta a esto?". Y ella ha dicho: "sí."
Pero lo que ha ocurrido en la Virgen Madre de manera única, también nos sucede a nosotros a nivel espiritual cuando acogemos la Palabra de Dios con corazón bueno y sincero y la ponemos en práctica. Es como si Dios adquiriera carne en nosotros. Él viene a habitar en nosotros, porque toma morada en aquellos que le aman y cumplen su Palabra.No es fácil entender esto, pero sí, es fácil escucharlo en el corazón.
¿Pensamos que la encarnación de Jesús es sólo algo del pasado, que no nos concierne personalmente? Creer en Jesús significa ofrecerle nuestra carne, con la humildad y el valor de María, para que él pueda seguir habitando en medio de los hombres; significa ofrecerle nuestras manos para acariciar a los pequeños y a los pobres; nuestros pies para salir al encuentro de los hermanos; nuestros brazos para sostener a quien es débil y para trabajar en la viña del Señor; nuestra mente para pensar y hacer proyectos a la luz del Evangelio; y, sobre todo, ofrecerle nuestro corazón para amar y tomar decisiones según la voluntad de Dios. Todo esto acontece gracias a la acción del Espíritu Santo. Y así, somos los instrumentos de Dios porque Jesús actúa en el mundo através de nosotros Dejémonos guiar por él.

3. Es el último elemento es la fe de María como camino: El Concilio afirma que María «avanzó en la peregrinación de la fe» (LG, 58). Por eso ella nos precede en esta peregrinación, nos acompaña, nos sostiene.
¿En qué sentido la fe de María ha sido un camino? En el sentido de que toda su vida fue un seguir a su Hijo: él -él, Jesús- es la vía, él es el camino. Progresar en la fe, avanzar en esta peregrinación espiritual que es la fe, no es sino seguir a Jesús; escucharlo y dejarse guiar por sus palabras; ver cómo se comporta él y poner nuestros pies en sus huellas, tener sus mismos sentimientos y actitudes.¿ Y cuales son los sentimientos y las actitudes de Jesús? humildad, misericordia, cercanía, pero también un firme rechazo de la hipocresía, de la doblez, de la idolatría. La vía de Jesús es la del amor fiel hasta el final, hasta el sacrificio de la vida; es la vía de la cruz. Por eso, el camino de la fe pasa a través de la cruz, y María lo entendió desde el principio, cuando Herodes quiso matar a Jesús recién nacido. Pero después, esta cruz se hizo más pesada, cuando Jesús fue rechazado: María siempre estaba con Jesús, seguía a Jesús en medio del pueblo, y escuchaba las conversaciones, las odiosidades de los que no querían al Señor. Y esta cruz, ¡ella la ha portado! la fe de María afrontó entonces la incomprensión y el desprecio; y cuando llegó la «hora» de Jesús, es decir la hora de la pasión: la fe de María fue entonces la lamparilla encendida en la noche. Aquella llamas en plena noche. María veló durante la noche del sábado santo. Su llama, pequeña pero clara, estuvo encendida hasta el alba de la Resurrección; y cuando le llegó la noticia de que el sepulcro estaba vacío, su corazón quedó henchido de la alegría de la fe, la fe cristiana en la muerte y resurrección de Jesucristo. Porque siempre lafe nos porta a la alegría, y ella es la Madre de la alegría: ¡Qué nos enseña el andar por este camino de la alegría! Este es el punto culminante -esta alegría, ¿eh?, este encuentro de Jesús y de María. Pero, imaginemos como ha sucedido... este encuentro es el punto culmen del camino de la fe de María y de toda la Iglesia. ¿Cómo es nuestra fe? La tenemos encendida, como María también en los momentos difíciles, aquellos momentos de oscuridad? ¿He escuchado la alegría de la fe?

Esta tarde, Madre, te damos gracias por tu fe y renovamos nuestra entrega a ti, Madre de nuestra fe.