2013年9月16日月曜日

9月12日(木)、朝ミサ説教:イエスの謙遜を学びましょう

 9月12日(木)マリアのみ名
          コロサイ3・12-15
          ルカ6・27-38

 イエスの「苦しみを伴う謙遜」とマリアの「やさしさ」は、福音が求めていることを生きられるようにするためにキリスト者が見つめなければならない二つの「極」である。とパパ・フランシスコはこの木曜日、聖マリアの家の小聖堂で捧げられた朝ミサの説教の中で語った。

 福音が求めていることは大変です。キリスト者に「エネルギーのあること」を求めています。赦す余裕、寛大さ、敵への愛・・・。これを実践できるようにするための形というのはたった1つです。「受難、イエスの謙遜を観想すること」、そしてその母の態度をまねすることです。そしてまさに教会が今日その聖母の「聖なる名前」を記念するにあたって、パパは説教の最初の部分の考察のためにささげた。そのことについて、この祭りは「マリアの甘美なる名前」として知られていた、と述べた。その後で、定義が変わった。「けれど祈りに於いて、その名の甘美さは残りました」。

「今日、イエスがわたしたちに求めているこうした物事を理解するために、乙女の甘美さが必要です。でしょう?なぜならこれは実際に生きるのは簡単ではないことばかりだからです。敵を愛しなさい、善を行いなさい、何も期待せずに貸しなさい・・・。片方のほほをたたかれたら、もう一方をも差し出しなさい、下着を取っていく人には、上着をも拒んではならない…。けれど、それは、大変エネルギーのいることでしょう?けれどこれは全て、独自の仕方で、乙女マリアが体験したことです。素直さの恵み、おとなしさの恵みです。

 聖パウロも、この日の典礼で読まれたコロサイ人への手紙の中で、キリスト者に「ぬくもり、善意、謙遜、おとなしさ、忍耐、互いのゆるしの感情」を身にまとうようにと招いている。ここに、「わたしたちの問いがすぐに生まれます。でも、どうすればこれが出来るのですか?と。どうすればこう出来るように自分を準備することが出来るのですか?これをするために何を勉強しなければならないのでしょうか?と」。答えは「はっきりしています」。「わたしたちは、自分の努力では、これは達成できません。わたしたちにはこれは出来ないのです。恵みにしかわたしたちの内でこれを出来るように出来ないのです」。そしてこの恵みは、具体的な道を通ってくる。

 「イエスだけのことを考えることです。もしわたしたちの心が、もしわたしたちの思いが勝利者であり、死や罪、悪魔、あらゆる事に打ち勝ったイエスと共にあるならば、イエス自身や使徒パウロがわたしたちに求めているこのことをすることが出来るのです。つまり、おとなしさ、へりくだり、善意、やさしさ、素直さ、寛大さです。もしイエスを見ないなら、もしイエスと供にいないなら、これはできません。それは恵みなのです。それはイエスを観想することから来る恵みなのです」。

 具体的に、キリスト者の観想が向かわなければならないイエスの生涯の具体的な局面がある。それはイエスの「受難」である。その「苦しむ人間性」である。「イエスの観想、神の中でイエスと共に隠れているわたしたちの人生の観想とは、そういうものです。そうしてわたしたちは、主がわたしたちに求めているこのような態度、このような徳を実践していくことが出来るのです。他に道はありません」。

 「そのおとなしい沈黙について考える。これがあなたの努力になります。彼が残りをしてくださいます。イエスが足りないところを全てしてくださいます。けれどあなたはこのことをしなければなりません。あなたの命をキリストと共に神の内に隠すことです。他に道はありません。ほかは存在しないのです。これは唯一です。善いキリスト者であるためには、イエスの謙遜、苦しみの伴う謙遜を観想しなければならないのです。証しをするために、この証しを立てるためには、これなのです。赦すには、苦しむイエスを観想しなさい。隣人を憎まないためには、苦しむイエスを観想しなさい。隣人の悪口を言わないためには、苦しむイエスを観想しなさい。これは唯一です。あなたの命を神の内にキリストと共に隠しなさい。これが使徒がわたしたちに与えている助言です。これこそが、謙虚に、おとなしく、善く、寛大に、優しくなるための助言なのです」。

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