2013年6月30日日曜日

6月29日、聖ペトロとパウロの祭日説教:信仰、愛、一致を確固たるものとする

朗読個所  : 聖ペトロ・聖パウロ使徒(祭)
          使徒言行録12・1-11
          二テモテ4・6-8、17-18
          マタイ16・13-19


バチカン、6月29日10時25分(バチカンラジオ)
 
 ローマの教会の中心的な二人の守護聖人である使徒ペトロとパウロの祭日を祝うミサをささげつつ。「これは全世界の司教団の存在にとって一番の喜びの色合いがこもった祭りです」。「ある意味で、わたしたちに聖霊降臨の出来事を再体験させてくれるような大きな財産です。あの頃のように今日も、教会の信仰はあらゆる言語で語られ、様々な民を一つの家族に集めようと望んでいます」。教父は「ペトロの座の奉仕職について、『確かなものとする』という動詞に導かれて三つの考えを」取り上げる。「ローマ司教は何において確かなものとなるように呼ばれているのでしょうか?……何よりも、信仰において確かなものとなる、愛において確かなものとなる、そして一致において確かなものとなるように、です」。

 このサン・ピエトロ大聖堂での荘厳祭儀は、伝統にのっとって、新しい大司教にその大司教用のパリオを着せるところから始まった。ローマ司教フランシスコはこれを果たし、イオアンニス主教に導かれたコンスタンティノープルの教父代表とエキュメニカル教父バルトロメ一世によって送られた代表者の列席に信頼を置いた。
(CdM – RV)

教父フランシスコの説教全文
 

使徒聖ペトロとパウロの祭日
(2013年6月29日)

大司教の皆さん、
イオアンニス主教様、
司教職と司祭職の兄弟尊父たち、
愛する兄弟姉妹の皆さん、

 わたしたちはローマの教会の中心的な守護者である使徒聖ペトロとパウロの祭日を祝っています。これは全世界の司教団の存在にとって一番の喜びの色合いがこもった祭りです。ある意味で、わたしたちに聖霊降臨の出来事を再体験させてくれるような大きな財産です。あの頃のように今日も、教会の信仰はあらゆる言語で語られ、様々な民を一つの家族に集めようと望んでいます。

 コンスタンティノープルの教父座の代表、イオアンニス主教に感謝の心をこめて挨拶します。エキュメニカル教父のバルトロメ一世に、この新しい兄弟愛の表明に感謝します。大使の皆さん、市政の権威者の皆さんに挨拶いたします。トマネルコルの皆さん、つまりバッハの教会でリプシアのトマス教会合唱団が典礼を盛り上げ引き続きエキュメニカルな存在を作り続けていますが、彼らに特別な感謝をいたします。

 ペトロの座の奉仕職について、『確かなものとする』という動詞に導かれて三つの考えを取り上げます。ローマ司教は何において確かなものとなるように呼ばれているのでしょうか?


1.何よりも、信仰において確固としたものとなることです。福音はペトロの信仰告白について語っています。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16章16節)。彼自身から来た告白ではなく、天の父にうながされた告白です。そして、この告白をもとに、イエスは彼に言います。「あなたはペトロ(岩)、そしてこの石の上に私の教会を建てよう」(18節)。パパの座、ペトロの教会奉仕は、生ける神の子であるイエスへの信仰告白、いと高き方から与えられた恵みの徳への信仰告白にその基礎をおいています。今日の福音の第二部では、世俗的な仕方で考えることの危険を見ることになります。イエスがその死と復活、神の道、権力の人間的な道とは相いれない道について語る時、ペトロの中で肉も血も緩みます。「イエスをいさめ始めた。『主よ、あなたからそのようなことは遠く離れているように!』」(16章22節)。そしてイエスはペトロにきつい言葉を言います。「サタンよ、わたしから離れよ。お前はわたしにとってつまずきの石だ」(23節)と。わたしたちのアイデア、わたしたちの感情、人間的な権力の論理が力をふるうように任せ、信仰や神によって教えられ、導かれようとしない時、わたしたちはつまずきの石になってしまうのです。キリストへの信仰は、わたしたちキリスト者の生活の光、教会の奉仕者の光です。

2.愛において確固としたものとなる。先ほど聞いた第二朗読に、パウロの心を揺さぶる言葉があります。「わたしは尊い戦いをし、競走を走り終え、信仰を守り抜きました」(IIティモテ4章7節)。何の戦いについて語っているのでしょうか?ひどいことにまだ世界で血を流し続けているような人間の武器をもってしての戦いではありません。そうではなく、殉教(証し)の戦いです。聖パウロにはたった一つの武器があるのみです。それはキリストのメッセージです。そしてキリストと他者への全人生の捧げが武器なのです。そしてまさにこれが、このキリストを第一の人として身をさらし、福音によって燃え尽くされ、けちけちせずにすべての人に対してすべてになり、信頼のおける人となり、教会を建設する、ということを成し遂げさせたのです。ローマ司教はこのイエスへの愛と、分け隔てや限り、壁のないすべての人への愛を生き、確固としたものとするように呼ばれています。そしてローマ司教だけでなく、皆さんも全員、新しい大司教や司教団にも、同じ務めがあります。福音によって燃え尽くされること、すべての人にとってすべてとなることです。貯めこまず、自分から出て神の忠実で聖なる民への奉仕に向かう務めです。

3.一致において確固としたものとなること。ここで、わたしは先ほど行った仕草について言及したいと思います。パリオは、ペトロの後継者との一致のシンボルです。「信仰と聖体的一致における一致の、永遠で目に見える、基本であり基礎」(LG18)なのです。そして今日、皆さんがここにいるということは、愛する兄弟の皆さん、教会の聖体的一致は画一性を意味しないということのしるしです。第二バチカン公会議は、教会の位階的構造についてふれながら、主が「この使徒たちと共に、ある種のコレギウム、常連のグループを作り、その中からペトロを代表者として選んだのでした」(LG19)と明言しています。一致において確固としたものとなること。司教団のシノドス(訳者注:「共なる歩み」の意味、司教団の会議のこと)、教皇との調和のうちにあること。この、シノドス性(ともに歩む性格)の道を進まなければなりません。教皇の奉仕との一致のうちに育たなければならないのです。そして公会議は続けて言います。「このコレギウムは、多くの人々によってなるために、神の民の多様性と一致を表現します」(LG22)。教会における多様性。これは豊かな富です。いつも一致の調和のうちに基礎を置きます。それはちょうど大きなモザイクが小さなタイルの集まりでできていて一つの大きな神のデザインを成すのと似ています。そしてこのことは教会の体を傷つけるありとあらゆる対立をいつでも乗り越えられるように促さなければなりません。相違の中で一致してあるということ。一致するためには他のカトリックの道はないのです。これがカトリック精神なのです。これがキリスト者の精神なのです。相違の中で一つになること。これこそがイエスの道なのです。パリオは、ローマ司教、普遍教会、司教団のシノドス議会との聖体的一致のしるしでありながら、同時に皆さん一人ひとりに対して皆さんが一致の道具となる献身をも想定しています。

 神に教示されながら主を告白すること。キリストとその福音への愛によって燃え尽きること。一致の奉仕者となること。司教職における愛する兄弟の皆さん、これらが聖ペトロとパウロがわたしたち一人一人に委ねているモットーであり、すべてのキリスト者によって生きられるようにと望まれているものなのです。神の母聖マリアがわたしたちを導き、いつもその取り次ぎで寄り添ってくださいますように。使徒たちの元后、わたしたちのためにお祈りください。アーメン。

2013年6月28日金曜日

6月28日、朝ミサ説教:神の忍耐の神秘について、歩みにおいて、わたしたちの歩調で歩む方

朗読個所  :  創世記17・1、9-10、15-22
          マタイ8・1-4

バチカン、6月28日16時00分(バチカンラジオ)

 
  主はわたしたちに、いつもその主の現存の中を歩みながら、忍耐強く、とがめられるところないようになることを求めています。これが今日の聖マルタの家でのミサ中のパパ・フランシスコの回想であった。パパは主がわたしたちの人生に入ってくる独自の方法をとり、ここにはわたしたちの側の忍耐が必要であること、なぜならいつでもそれがわたしたちに分りやすいとは限らないからであることを強調された。

 ミサには色々な参列者がいたが、なかでもバチカンの健康生理部の従業員が、その長官であるパトゥリツィオ・ポリスカ医師と共に参列した。

 主はアブラハムの人生にゆっくりと入っていく。主が彼に子どもができることを約束したのは彼が99歳の時であった。一方、らい病患者の人生には一瞬で入りこむ。イエスはその祈りを聞き、彼に触れ、こうして奇跡が起こる。教父は今日の第一朗読と福音に触れながら、主がどのように「わたしたちの人生、その民のいのち」に献身することを選ぶのかについてコメントした。アブラハムとらい病患者のことである。「主がこられる時、いつも同じ仕方というわけではありません。わたしたちの人生における神のはたらきには治療の実施要項なるものはないのです」とパパは見解を述べた。「そんなものはありません」。改めて、パパは言った。「ある時には一つのやり方があり、他の時には他のやり方があるのです」。しかし、いつも何かをなさる。「いつでも、わたしたちと主との間のこうした出会いがあるのです」と強調した。

 「主はわたしたちの人生に入ってくる独自の方法をいつも取ります。ほとんどの場合これを本当にゆっくりと行います。わたしたちが忍耐を失う危険に陥りそうなぐらいにゆっくりと、です。『しかし主よ、いつですか?』そう言って祈っては祈って・・・・・・。そしてそれでもそのわたしたちの人生の介入がなくて。他の場合では、あまりに主が約束なさることが大きくて、わたしたちが少し不信に満ちていて、すこし懐疑主義者になっていて、アブラハムのように、少し隠れながら、笑ってしまうのです。……第一朗読は、アブラハムがしゃがみ込んで笑い始めたと語っています。ちょっとした懐疑主義です。『100歳もしている男に子どもが生まれるものだろうか?90歳のサラが子どもを産むことができるものだろうか?』と」。

 同じ懐疑主義は、サラも持つことになる、とフランシスコは思い出させた。マムレの木のところで、三人の神の使いがアブラハムに同じことを言う時である。「何度、主が来られない時、奇跡を行わない時、してほしいことを主がしない時、わたしたちは忍耐を切らしたり懐疑的になったりすることでしょう」と教皇は考えをめぐらした。

 「けれど、懐疑主義者には奇跡を行いません。できないのです。主は時間をかけます。けれど彼は、わたしたちとのこの関係において、実に忍耐深いのです。わたしたちが忍耐をもたなければならないだけではなく、イエスが忍耐をもっているのです!イエスがわたしたちを待っておられるのです!そしてわたしたちを待つのです、命が尽きるまで!よい泥棒について考えてみましょう。まさに最後の最後に、神を認識しました。主はわたしたちを共に歩きますが、多くの場合わたしたちの目に映らないようになっています。ちょうどエマオへ行く弟子たちの場合と同じです。主はわたしたちの人生に献身しています。このことは確かです!けれど実に多くの場合私達にはそれが見えないのです。このことはわたしたちに忍耐を求めます。けれどわたしたちと共に歩む主は、主ご自身もわたしたちに実に大いなる忍耐をもっているのです」。

 ローマ司教は「神の忍耐の神秘とは、歩みの間、わたしたちの歩調で歩むことです」と回想した。人生の中である時には、「ものごとがあまりに暗くなり、困難にある場合、あまりの暗さに十字架からおりたいという気になってしまうのです」と注意を促した。「このことは、ちょうどの時なのです。夜が一番暗くなる時に、曙が近づいているのです。そして十字架から降りる時というのはいつも、解放が訪れる時のほんの五分前なのです。それが忍耐の足りなさが最も大きい時間なのです。

 「十字架の上でイエスは、自分に挑戦してくる人々の声を聞いていました。『降りてしまえ!降りなさい!来て!』。最期のときまでの忍耐。なぜなら主がわたしたちに忍耐強いからです。彼はわたしたちに献身しています。けれど、それをご自分のやり方で行い、彼が一番よいと思った時になされるのです。ただわたしたちに、アブラハムに言ったのと同じ言葉をかけるのです。『わたしの現存の中に歩み、完璧でありなさい』、非の打ちどころのないものでありなさい、これが正しい言葉です。わたしの現存の中で歩み、非の打ちどころのないものになろうとすること。これが主との道であり、主が介入しますが、わたしたちは待たなければなりません。時が来るのを、いつもその現存のうちに歩み、なんとかして非の打ちどころのないものとなろうとしながら待ち望まなければならないのです。主にこの恵みを求めましょう。主にこの恵みを求めましょう。非の打ちどころのないものとなろうと努めながら、主の現存のうちに歩む恵みを。 
(MZ,RC-RV)

6月27日、朝ミサ説教:キリストのいないキリスト者ではなく、岩、つまりイエスに基礎をおいたキリスト者になるように

朗読個所  : 創世記16・1-12、15-16
          マタイ7・21-29

バチカン、6月27日18時16分(バチカンラジオ)
 
 キリスト者の衣をまとっているが、極端に表面的に生きたり、厳格すぎたりする罪を犯し、本当のキリスト者はキリストという岩への信仰に基礎をおいた喜びの人であることを忘れている人がいます。これが聖マルタの家の小聖堂で今朝捧げられたミサの説教の間にパパ・フランシスコがその考えの深みに抱いていたものである。

 教皇との共同司式に上がったのは、ブラジルはアパレシーダの大司教であるライムンド・ダマッセーノ・アッシス枢機卿と数人の司教たちである。このミサに、パトリツィオ・ポリスカ医師に率いられたバチカンの健康と生理指導局の従業員が参列した。

 厳しく悲しい人たち。または明るいけれどキリスト者の喜びについてのイメージを知らない人たち。この二つは、ある意味で対照的な信者の二つのカテゴリーで、両方とも重大な欠陥があるいわば「家」である。口先のキリスト教をもとにし、キリストの言葉という「岩」に基盤を置いていないのである。パパ・フランシスコは、マタイ福音書のコメント、具体的には砂の上に建てられた家と岩の上に建てられた家の有名な個所のコメントをするにあたり、この二つのグループのそれぞれの説明をした。

 「教会の歴史の中には、二種類のキリスト者がいました。口先のキリスト者、『主よ、主よ、主よ』のキリスト者と、行動の、真理におけるキリスト者です。いつでもわたしたちのキリスト教主義をキリストである岩の外で生きる誘惑というものは存在していました。神に向かって『父よ』と言うための自由を下さる唯一の方はキリスト、あるいは岩です。彼のみが困難な時にわたしたちを支えてくださる方です。でしょう?イエスが言っているように、雨が降り、川があふれ、風が吹き荒れたけれど、岩があれば、安全です。もし口先の言葉なら、言葉は飛んでいき、役に立ちません。けれどこうした口先のキリスト者、イエスのいないキリスト教の誘惑は、キリストのいないキリスト教です。そしてこうしたことはかつても起こったし、今日でも教会の中で生じることです。キリストのいないキリスト者になる、ということが」。

 パパはこうした「口先のキリスト者」にさらに近づいて分析を行い、その具体的な特徴を示した。「まず最初のタイプ、『グノーシス(知識者)』と定義されているタイプがあります。これは岩を愛する代わりに、美辞麗句を愛します。そのため、キリスト教の生活の表面に浮かびあがって生活をします。それから、もう一つのタイプがあります」と、フランシスコはこれを「ペラギウス的」と呼びながら話した。「そこにはまじめでぎっちり詰まった生活スタイルをするものです」。パパは皮肉を交えて言った。「床を眺めてうなだれて生きているキリスト者です」。

 「そしてこの誘惑は今日も存在しています。表面的なキリスト者、神を信じ、キリストを信じてはいるけれど、あまり『散漫に』信じているキリスト者、キリストと言っているけれど、基盤を与えるイエス・キリストではない何か別のものを信じているかのようなキリスト者。こうした人たちは、近代のグノーシス主義者と呼べるでしょう。グノーシス主義の誘惑です。『液体的な』キリスト教です。一方、キリスト教の生活をあまりにまじめに捉えるべきだと思っていて確かさや堅固さを厳格さと取り違えてしまう人々です。こうした人々はキリスト者であるためには、いつでも喪に服しているようでなければならないと思っています」。

 ローマ司教は続けて「こうしたタイプのキリスト者はたくさんいます」と言った。しかしこれに反して「そうした人たちはキリスト者ではなく、キリスト者の衣をまとった人たちなのです」と言った。強調して言った。「主とはいったいどのような方なのかを知りません。岩とは何かを知りません。キリスト者の自由を持っていないのです。そして、単純な言い方をすれば、喜びを抱いていないのです」。

 「最初のグループはある種の表面的な『喜びを』持っています。他の人はいつでも(敬虔に)通夜に通っているかのように生きていますが、キリスト者の喜びとは何事かを知りません。イエスがわたしたちに下さる命を喜ぶことを知りません。なぜならイエスと話すすべを知らないからです。イエスの現存がくださるその確かさをもって、イエスについて何かを感じることがないのです。そして喜びがないだけではなく、自由がありません。こうした人たちは表面性の奴隷、この散漫な生き方の奴隷、あるいは厳格さの奴隷で、自由ではないのです。その生活において、聖霊がその居場所を見出すことができなくなっています。聖霊こそがわたしたちに自由をもたらす方なのですよ!主は今日、自らの上に、つまり岩の上に、自由をわたしたちに下さる方の上に、聖霊をわたしたちに送ってくださる方の上に、あなたが喜びをもって主の道を、主が差し出される恵みの中で前進できるようにしてくださる方の上に、わたしたちのキリスト者としての生活を打ち立てるようにと招いておられるのです」。 
(マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ – RV).

2013年6月27日木曜日

6月26日、一般謁見:「わたしたちは教会の生きた石」


6月26日、朝ミサ説教:司祭たちは霊的父性を持つ恵みを求めるように

朗読個所  : 創世記15・1-12、17-18
          マタイ7・15-20

バチカン、6月26日19時50分(バチカンラジオ)
 
 神は司祭たちが「父性」、つまり委ねられた人々対する霊的な意味での父性の特別な恵みを十全に生きるようにと望まれています。このようにパパ・フランシスコは聖マルタの家の小聖堂で捧げられた今朝のミサの説教で確言した。

 教皇と共に共同司式に上がった枢機卿や司祭団は、パレルモの名誉大司教であり、今日司祭叙階60周年を記念するサルヴァトーレ・デ・ジョルディ枢機卿に付き添っての参列であった。そのような状況を鑑みて、パパはその説教において、同日10時半の一般謁見のテーマについて語る前に、多大な評価を示す言葉を向けた。

 「父性の望み」は「男性の神経細胞の最も深い所に刻み込まれています」とパパは言った。「司祭も例外ではありません。けれどこの望みを特別な仕方で生きているのです」。

 「男性でありながらこの望みがないならば、この人には何かが欠けているのです。何かがうまくいっていないのです。わたしたちは誰でも、十全であるため、十全になるために、成熟した人になるために、父性の喜びを感じなければなりません。独身制を生きるわたしたちも同じことです。父性というのは、他の人々に命を与えることです。命を与えること、命を与えること。わたしたちにとっては、司牧的父性、霊的父性ですが、これが命を与えることで、そうして父(神父)になっていくのです」。

 パパは、神が年老いたアブラハムに一人の息子を得る喜びを、その子孫が天の星のように数多くなる事とともに約束する創世記の個所に基づいて着想を得て考えをめぐらした。そしてこの契約に調印するために、アブラハムは神の指示に従い、動物の犠牲を整え、それから獰猛な禿鷹の攻撃からこれを守る。パパは次のようにコメントした。「90歳を超えているこの男性が、手に杖をもってその犠牲を守る姿を想うと感動します。わたしには父親が家族、子供たちを必死に守っている姿を連想させるのです」。

 「子どもたちを守るとは一体どういうことなのかを知っている父親です。そしてこれはわたしたち司祭が求めなければならない恵みなのです。父(訳者注:日本語で「神父」と訳されている言葉は、西洋言語では単純に「父」という単語)になるように、父(神父)になれるように。父性の恵み、司牧的父性の恵み、霊的父性の恵みを求めること。罪というならば、わたしたちはたくさん抱えています。けれどこれは『サンクトールム(聖人たち、聖性を求める人々)』に共通のものです。誰でも罪は抱えています。けれど子どもをもたないこと、父親にならないことは、まるで人生がその目的に到達しないかのようです。道の途中で滞ってしまうかのようです。そして、だからこそ、わたしたちは父でなければならないのです。けれどそれは主が下さる恵みです。人々はわたしたちのことをこう呼びます。『パードレ(訳者注イタリア語、スペイン語、ポルトガル語などで「父、神父さん」の意)、パードレ、パードレ』と。わたしたちにそう望んでいるのです。司牧的父性の恵みをもって父親としていてほしいと望んでいるのです」。

 パパ・フランシスコは情愛に満ちた調子で、司祭叙階60周年を迎えたデ・ジョルジ枢機卿に言葉を向けた。「わたしは愛すべきサルバトーレ(枢機卿)がどのようなことをしたかは知りませんが、間違いなく父であったと思います。これがしるしです」と言いながら、枢機卿と共に列席していた司祭団の方を向いて言った。「これからは、皆さんの番です」。同時に次のような見解を述べた。「どの木も実を付けるけれど、良い木であるならば、その実も良いはずでしょう?ね?」。そして人好きの良い雰囲気で言った。「ですから、悪い実にならないようにしてください(笑)」。

 「子のうちに父として歩んでゆく、というような、教会におけるこの父性の恵みをくださる主に感謝しましょう。終わりに、この二つのイコン(イメージ)に加えてもう一つのことを考えています。子を求めるアブラハムのイコン、家族を守ろうと、杖を手にしているアブラハムのイコン、そして生まれた子供を受け取る神殿の老人シメオンのイコンです。そこで自然と典礼を生じさせます。主(そのもの)に向けられた喜びの典礼です。そしてみなさんに、主が今日、喜びをたっぷりとくださいますように」。 
(マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ – RV).

教皇とアルゼンチンの先住民指導者

教皇と「子供列車」

6月25日、朝ミサ説教:誰ひとりとして偶然キリスト者になるわけではない、誰ひとりとして!

朗読個所  : 

バチカン、6月25日15時44分(バチカンラジオ)

 キリスト者であるということは、愛の呼びかけ、神の子となる呼びかけです。このように今日、パパ・フランシスコは聖マルタの家でのミサの中で語った。パパはキリスト者の確信は、主が決してわたしたちを一人ぼっちにすることなく、問題の最中で前進していくようにと求めていることにあると強調した。

 ミサでは、ロバート・サラー枢機卿、カミッロ・ルイニ枢機卿、イグナシオ・カラスコ・デ・パウラ卿が共同司式に上がった。国務省の「コル・ウヌム(心を一つにして)」や命のための聖庁アカデミーの従業員グループ、またスペコラ・ヴァティカーナの協力者たちがその議長であるイエズス会院のホセ・ガブリエル・フネス師とともに列席した。

 パパ・フランシスコの説教のメインテーマは、創世記からとられた第一朗読に集中した。それは土地の分割に関するアブラハムとロトとの間での議論について語っている個所である。「この個所を読むと、中東のことを考えます。そして主に、わたしたち全員に知恵を、この知恵を下さいと熱心に求めます。口論をするのではなくて、わたしはこちらに行くから、あなたはそちらに行くように、という知恵、平和のために祈ります」とパパは言った。「アブラハムは、歩き続けます」とフランシスコは注意を促した。「アブラハムは、自分の住みなれた土地を離れ、自分ではどこかは知らないけれど、主が仰せられるところに向かいます」と確言した。「そこで歩き続けます。なぜなら自分をその土地から出てくるように招いた神の言葉を信じているからです。おそらく90歳を超えていたこの人は、主が指し示す地を眺め、信じます」。

 「アブラハムは自分の土地を、一つの約束を得て離れます。その歩みのすべてはこの約束に向かっています。そしてその行程は、わたしたちの人生の歩みのモデルでもあります。神はアブラハム、一人の人を呼びます。そしてこの人から民を生み出します。もし創世記を見るなら、最初のところ、創造の場面にあたるなら、星を作り、植物を作り、動物を作り、あれやこれやのものを作る神を見出すことができます。けれど人を作る時、たった一人を作ります。わたしたちに対して、神はいつも一対一で語りかけます。なぜならわたしたちを自分のイメージ、似姿に作ったからです。そして神は個別に語りかけるのです。アブラハムに語り、約束を述べ、その土地から出てくるようにと招きました。わたしたちキリスト者は個別に呼ばれました。わたしたちのうち誰ひとりとして単なる偶然でキリスト者であるわけではないのです!誰ひとりとして!」

 「名が呼ばれ、約束のある呼びかけというのが存在します」とパパは言った。「さぁ前に行きなさい。わたしがあなたとともにいる!わたしはあなたと共に歩く、と」。続けて言った。「そしてこのことを、イエスは知っていました。もっとも困難な瞬間にも父に向かいます」。

 「神はわたしたちと共に歩みます。神はわたしたちを名前で呼びます。わたしたちに子孫を約束します。そしてこのことがキリスト者にとってある意味安心感を与えます。偶然ではなく、呼びかけなのです!わたしが神の子となり、イエスの弟子となるための呼びかけなのです。この呼びかけを他の人々に伝えることでわたしが実りを生み出せるものとなるようにとの呼びかけです。わたしがこの呼びかけの道具となるようにとの呼びかけです。本当に多くの多くの問題があります。困難な瞬間もたくさんあります。イエスにもたくさん降りかかりました!けれどいつもあの安心感を保っていました。『主がわたしを呼ばれたから。主はわたしのような方である。主がわたしに約束して下さった』と」。

 ローマ司教は繰り返して言った。「主は忠実な方です。なぜなら彼は決して自分自身を偽ることができないからです。これが忠実さと言われるものです」。「そしてこのアブラハムが父として、民の父祖として初めて油を注がれる(=訳者注:神のために特別に選ばれる)個所を思いめぐらしながら、わたしたちも洗礼の時に(霊的に)油を注がれたことを考えます。そしてわたしたちのキリスト者の生活について考えます」。

 「このように言う人もいるでしょう。『父よ、わたしは罪びとです』と。けれど、罪びとというならば誰もがそうです。分りきったことです。問題にされるのは、罪人であるわたしたちが、主と共に前進すること、主がわたしたちになされたあの約束、あの沢山の約束を抱いて前進すること、そして他の人々に、主はわたしたちと共にいてくださるのだと語り聞かせること、主がわたしたちを選び、わたしたちを一人ぼっちに見捨てることはない、決してない!ということを語り聞かせることにあります。そのようなキリスト者の確信はわたしたちにとって益となります。主が、わたしたち全員に、この前進する望み、アブラハムが持っていた、多くの問題の最中ではあっても、主がわたしを呼んで下さったこと、主がわたしに本当に多くの素敵なことを約束し、一緒にいてくださるということを知ることがもたらす安心感をもって前進する望みを下さいますように」。

2013年6月25日火曜日

6月23日、『お告げの祈り』:愛をもって自分のなすべきことを果たしつつキリストのためにいのちを失うこと


バチカン、6月23日12時11分(バチカンラジオ)

『お告げの祈り』の時間の教皇の説教全文

愛する兄弟姉妹の皆さん、おはよう!

 この主日の福音で、イエスのもっとも鋭い言葉のうちのひとつが響きます。「
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(ルカ9章24節)。

 ここにはキリストのメッセージのある種の要約があり、とても効果的なパラドックスをもって表現されています。そこでわたしたちはイエスの語り口を知ることができます。ほとんどその声を感じられるかのようです……。

 けれど、「イエスのために命を失う」とは、どういう意味でしょう?これは二つの仕方で起こりえます。明白な形では信仰を告白することにより、暗黙の仕方では真理を守ることによって生じるのです。殉教者はキリストのために命を失う模範の最高峰です。二千年の間、イエスとその福音に忠実に留まることで命を犠牲にしてきた男女の長大な行列が見受けられます。そして今日、世界の多くの場所で、最初の数世紀よりも、本当に本当にたくさんの人々が、キリストのために命をささげています。多くの殉教者(=証し人)たちです。彼らはイエス・キリストを否定しないせいで死に渡されています。これがわたしたちの教会で、最初の数世紀よりも多くの殉教者がいるのです。けれど日々の殉教、というものもあります。それは死をもっては活躍しませんが、彼らはイエスの論理構造、贈与のロジック、犠牲のロジックに基づいて、愛をもって自分のなすべきことを果たしながら、キリストのために「命を失うこと」をしています。考えてみましょう。どれほどのお父さんたちやお母さんたちが毎日、家族の益となるために、自分のいのちを具体的にささげながらその信仰の実践を行っていることでしょう!このことを考えてみましょう。どれほどの司祭やブラザー、シスターたちが寛大に神の国のためのその奉仕を展開していることでしょう!どれほどの青年たちが自分の好きなことを手放して、子どもたちや障がい者、老人のために捧げていることでしょう!この人たちも殉教者です。日々の殉教者、日常の殉教者なのです!

 それから、キリスト者もキリスト者でない人も含めて実に多くの人々が、真理のために「自分の命を失っている」のです。そしてキリストは「わたしは真理である」と言いました。ですから、真理に仕える人はキリストに仕えているとも言えるのです。

 こうした人々のうちの一人、真理のために命をささげた人がいます。洗礼者ヨハネです。ちょうど明日、6月24日に、その大きな祭りがあります。洗礼者ヨハネの誕生の祭日です。ヨハネは神によって選ばれ、イエスの前を歩き、その道を整えることになりました。そしてイスラエルの民にイエスをメシアとして、世の罪を取り除く神の子羊として指し示しました(ヨハネ1章29節参照)。ヨハネは神と、神から送られた人、イエスに、自らを全く聖別奉献しました。けれど最後には、何が起きたでしょうか?ヘロデとヘロデヤの姦淫を糾弾した時に、真理のせいで死にました。どれほど多くの人々が真理に対する献身に高額(訳者注:多大な努力)を支払っていることでしょう。どれほど多くの正しい人々が流れに逆らっていくことを好み、こうして良心の声、真理の声を否まずに進んでいることでしょう!皆さんの間に、多くの青年がいます。けれど青年の皆さん、あなたたちにわたしは言います。流れに逆らっていくことを恐れないでください。あなたの希望を奪い取ろうとする時、崩れた価値観、腐って崩れた食べ物のような価値観であるこうした価値をあなたに差し出す時、流れに逆らうのを恐れてはなりません。悪い食べ物は体を害します。こうした価値観はわたしたちに害を及ぼすのでわたしたちは流れに逆らわなければならないのです。そして皆さん青年は、誰よりもまず流れに逆らっていかなければならない人です。そしてまさに逆流を行くこの尊厳をもつべき最初の人なのです。さぁがんばって、勇気を持ち、逆流を行きなさい!そしてそれをすることに誇りをもっていなさい。

 友人の皆さん、イエスのこの言葉を喜びをもって迎え入れましょう。これはわたしたち全員に提案されたいのちの法則です。そして洗礼者聖ヨハネが、わたしたちがこれを実践するのを支えて下さいますように。

 この道を行くのに、いつものように、わたしたちのお母さんである聖母マリアが先頭に立って下さいます。マリアはイエスのために、十字架まで従いながらその命を失いました。そして、充満において、福音のあらゆる光と美しさを伴って満ち足りた状態の中で命を受けました。マリアが、福音のロジックをますますわたしたちのものとするのを助けてくださいますように、



ー 『お告げの祈り』-


『お告げの祈り』の後に、パパはこのように言った。 

 そしてしっかり思い起こして下さい。逆流を行くのを恐れてはなりません。勇気を持ち、そうしてわたしたちのように、腐ってしまった食べ物を食べたいと思わないのと同様に、こうした崩れており、人生を崩壊させ、希望を奪い去るこうした諸価値をわたしたちが持っていかないようにしましょう。頑張って(前進して)!


 情愛をもって、家族で来ておられる皆さん、小教区のグループの皆さん、老人の皆さん、学校の皆さんに挨拶します。スロヴェニアのヴィパラ教区文化会館の生徒たちに挨拶します。アスコリ・ピチェーノのポーランド共同体に挨拶します。イシア・デ・カストロのUNITALSIに、ウルグナーノの祈りの子らに挨拶します。あぁここから、皆さんの旗を見ることができますよ。とてもいいですね。みんな善い人たちです!ポルデノーネの信徒の皆さん、アックワヴィーヴァの「ミュッリ」病院のオペレーターの皆さんやシスター方、ヴェネトの委託代表者のグループ、皆さんに挨拶します。

 皆さん全員が幸せな主日を楽しむことができるよう望んでいます。わたしのために祈ってください。楽しいランチタイムを!

6月24日、朝ミサ説教:教会は殉教に至るまで神の言葉を告げ知らせるように呼ばれている〈未翻訳〉

朗読箇所  : 洗礼者聖ヨハネの誕生(祭)
          イザヤ49・1-6
          使徒言行録13・22-26
          ルカ1・57-66、80


 
 聖ヨハネのように、教会は殉教に至るまで神の言葉を告げ知らせるように呼ばれています。このようにパパ・フランシスコは、洗礼者聖ヨハネの誕生の祭日に当たり、聖マルタの家での今日のミサで強調した。パパは、教会は何かを自分のために取ることは決してあってはならず、福音の奉仕のためにいつもあるべきである、と強調した。

 ミサには、ジャンフランコ・ラヴァスィ枢機卿他が共同司式をし、文化評議会の司祭団や協力者達のグループと、la Pontificia Comisión de Arqueología Sacra y de la Oficina Filatélica y Numismática Vaticanaの従業員グループが参列した。

 教会が洗礼者聖ヨハネの誕生を祝う日に、パパ・フランシスコはその説教を、ヨハネという名を頂いている人々全てに対する挨拶からはじめた。パパは言った。「洗礼者聖ヨハネの姿は、そんなにいつでもかんたんに理解できるものではありません」。「その人生について考える時、彼は預言者で」、「偉大な人であったけれど、後で不幸な人のように終わっていく人です」と見解を述べた。「では、ヨハネは何者なのでしょう?彼自身、これを説明しています」と教皇は言った。「『わたしは声である。砂漠の中の声である』。けれど、それは言葉のない声です。なぜなら、言葉は彼ではなく、他の人だからです」。「ここに、ヨハネの神秘があります。言葉を支配することを決してしません。ヨハネは指し示す人、指さす人なのです」。「ヨハネの人生の意味は、他の人を指し示すことにあります」と付け加えた。パパ・フランシスコは言った。「教会がヨハネの祭日を、一年のうち日の長さが最も長い時期、最も光のある時期を選んだという事実は印象的です」。「そして本当にヨハネは、光の人、光を運んでいた人、けれど光そのものではなく、光を反射していた人でした」。「ヨハネは月のようです。イエスが宣教をはじめると、ヨハネの光は小さくなり始め、消えていきました」。パパは言った。「言葉ではない声。光、けれど自分自身が輝いているのではない光」。

 「ヨハネはまるで無のようです。それがヨハネの声です。消えていく。そしてわたしたちがこの人の人生を観想する時、とっても偉大で、とっても力強く、誰もが彼はメシアではないかと思います。この命が、牢屋の暗闇までへりくだっていったかのようになっているのを観想する時、大いなる神秘を観想します。わたしたちはヨハネの最期の日々がどのようであったかを知りません。このことを知らないのです。わたしたちが知っているのは、彼が殺されたこと、その頭は盆の上に乗せられて、踊り子から娼婦への大きなプレゼントとされたことだけです。これ以下にはいけないほどに、へりくだりました。あれがヨハネの最期でした」。



 パパは続けた。「牢屋で、ヨハネは疑念を抱き、苦悩を抱き、その弟子たちを呼んでイエスに尋ねに送ります。『(待ち望んでいた救い主は)あなたですか?それとも他の人を待たなければならないのですか?』と。その人生には病みも、痛みもあります。このことからすらもヨハネはまぬかれなかったのです」とパパは言った。そして加えた。「ヨハネの姿は教会のこととしてわたしに多くのことを考えさせます」。


 「教会は告げ知らせるために存在しています。み言葉の声、自分の夫の声、つまりみ言葉の声を告げるために。そして教会は殉教に至るまでこの言葉を告げ知らせるために存在しているのです。殉教というのはまさに傲慢な人々、地上でもっとも傲慢な人々の手の内にあります。ヨハネは重要な人になることができたはずです。自分について何か言い得たはずです。ただ、これだけを示しました。自分を声だと感じていたのであって、み言葉であるとは感じていませんでした。ヨハネの秘密です。なぜヨハネが聖人であって、罪を犯さなかったのでしょうか?なぜなら決して、真理を自分のもののように扱わなかったからです。自分をイデオローグとすることを望まなかったのです。み言葉降るように、自分自身を否定しました。そしてわたしたちは、教会として、今日、イデオローグ化した教会になり下がってしまわない恵みを求めることができます」。

 加えて言った。「教会は、イエスの声を聞き、その声となり、勇気をもってこれを告げ知らせなければなりません」。「それが、イデオロギーのない教会、自分のためいのちというもののない教会です。教会は『月の神秘』なのです。その夫の光をいただき、夫が大きくなるために小さくなるという神秘なのです」。

 「これが今日わたしたちに、わたしたちのため、教会のためにヨハネが差し出している模範です。いつでもみ言葉への奉仕にあるような教会となるために。教会が決して自分自身のために何ものをもとらないように。今日、祈りのうちに喜びの恵みを願いました。このみ言葉の声となる、このみ言葉を告げ知らせるという、み言葉へのその奉仕のうちにこの教会を喜ばせることを主に願いました。ヨハネを真似する恵みを願いましょう。自分のアイデアもなく、自分の持ち物のように福音を所有することもなく、ただみ言葉を示す声としての教会とのみなるように。そしてこれが殉教に至るまでなされるように。なれかし(アーメン)」。
(MZ-RC,RV)

国際ユダヤ人委員会を迎えて:人類は尊厳と平和を支えるわたしたちの共通の証を必要としている

6月24日、14時45分〈バチカン・ラジオ〉


 6月24日の正午ごろ、教皇の間でローマ司教は国際ユダヤ人委員会の代表者メンバー30人を迎えて、諸宗教相談をした。同室にはキリスト教一致推進評議会とユダヤ人との宗教関係委員会の議長であるクルト・コッホ枢機卿が同席した。


教皇フランシスコの挨拶:


 兄弟のみなさん、シャローム!

 このキリスト教伝統でも好まれている挨拶をもって、諸宗教相談のユダヤ人国際委員会の代表者のみなさんを歓迎できることを幸いと感じています。


 心のこもった思いをコッホ枢機卿にも向けます。同時に40年以上も前から定期的に対話を保っているユダヤ人との宗教関係委員会のメンバーと協力者のみなさんにも思いを向けます。これまで催された21回の会合は、相互理解とユダヤ人とキリスト教徒間の友情の絆を強めるのに貢献してきたことは確かなことです。わたしはみなさんが10月にマドリッドで開かれる次のつどいを準備しており、そのテーマは「現代社会における信仰に対する挑戦」であることも知っています。その努力に感謝します!

 この私の奉仕職の最初の数ヶ月で、ユダヤ社会の有名な指導者達に出会うチャンスを頂きました。しかしながら、今回はユダヤ人の組織と共同体の代表者の公的グループと会話をする最初の機会です。そしてこの動機で第二バチカンエキュメニカル公会議のノストゥラ・エターテの宣言第4番を荘厳に思い帰さずにはいられません。その文書はカトリック教会がユダヤの民との関係にどう関心を持つかの基本的言及を代表的に描いているのです。

 公会議のテキストの言葉を通して、教会は「その信仰と選びの始まりは、すでに、救いの神秘によって、父祖達の内に、モーセや預言者達の内に見出されます」。そして、ユダヤの民について、公会議は聖パウロの教えを思い返しています。そこでは「神のたまものと呼びかけは不変的です」。さらに、憎しみや迫害、反セミ主義の表明全てを咎めています。わたしたちの共通の根のため、キリスト者は反セミ主義者ではあってはならないのです!

 上記の宣言で表現された基本的原則は、この数十年間、ユダヤ教徒とカトリック教徒の間でより大きな相互認識と理解で歩みに跡を残しました。それはわたしの前任者達がめざましい後押しをし、ユダヤ教徒とカトリック教徒の間での関係の神学的基盤についての反省を深めた文書シリーズの作成を通して特に意味のある行動の歩みとなりました。

 それはしかしながら、地域レベルで実現された世界のあらゆるところで少しずつなされた膨大な動きの一番目に見える部分を代表するに過ぎません。其の事については私も証人です。わたしはブエノスアイレスで大司教として奉仕していた間、ユダヤ世界の代表者数名との誠実な友情関係を保つ喜びを得ました。しばしばわたしたちの当該の宗教的アイデンティティ、聖書に含まれる人のイメージ、様々な局面で世俗化している世における神の意義を生き生きと保つ様相について会話をすることができました。様々な機会に、ユダヤ人とキリスト者を待ち受けている共通の挑戦について彼らと顔を合わせる機会が何度もありました。けれどなによりも、友として、互いにその存在を楽しみました。わたしたちはつどいと対話に於いて、互いに豊にしあいました。そしてこのことはわたしたちを人として、また信者として育つのを助けてくれました。

 同じことは世界の様々なところで起こってきたし、起こっています。そしてこうした友情関係が局面によっては公的場面で発展する対話の基盤を作っています。ですからその道を、みなさんがしておられるように、新しい世代をもこれに巻き込むことを求めながら、続けるように励まさざるを得ません。人類には、神のイメージと似姿に作られた男性や女性の尊厳への敬意を支えるわたしたちの共通の証の必要性があります。そして何よりも、神のたまものである、平和を支えるのです。ここで預言者エレミヤの言葉を思い出すのは有り難いことです。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレミヤ29章11節)。

 この言葉、平和、シャロームをもって、わたしの介入を終えたいと思います。みなさんの祈りを求めつつ、またわたしのみなさんへの祈りを約束しつつ。ありがとうございます!


(イタリア語からの翻訳:ラウル・カブレラ - バチカンラジオ) 

2013年6月24日月曜日

6月23日、主日朝ミサ説教:わたしたちに父の愛を示してくれるイエス・キリストへの信頼をもつように。

朗読個所  : 年間第12主日
          ゼカリヤ12・10-11、13・1
          ガラテヤ3・26-29
          ルカ9・18-24

バチカン、6月23日16時56分(バチカンラジオ)

   今朝9時半に、パパ・フランシスコは聖マルタの家の聖堂で、去る金曜日に行われた集いの後で、まだバチカン市国にいる教皇大使40名ほどを前にミサを司式した。

 使徒たちにキリストが「そしてあなたたちはわたしを誰だというのか?」と問う個所のルカによる主日の福音についてコメントをするにあたり、教父はイエスへの崇敬とその愛の岩からのインスピレーションを受けて、心からイエスに応える必要がある、と強調した。

 「『あなたたちはわたしのことを誰だというのか?』これにペトロが『あなたは神のキリストです。主から油を注がれた方です』と答える。2000年たってからのわたしたちにも当てはまることです。わたしたちを危機的状況に置きます。わたしたちの信仰の歩みにおける難易度9の試練です。心に向けられた問いです」パパは教皇大使たちへの説教の中でこう確言した。「そして罪びととしての謙虚さをもって応えなければならない問いです。それはできあがったフレーズや適当なフレーズを越えて、『イエスのことをわたしたちは誰だと思うのか』という思索的で決定的でもあることまでも含んでいそうなほどの問いです」。

 「わたしたちは、使徒であり主のしもべですわたしたちも、応えなければなりません。というのは主がわたしたちに問われるからです。『あなたはわたしについて何を考えますか?』いやしかしこう問われるのですよ!何度も質問してくるのです!『お前はわたしについてどう考えているのか?』と主は言われるのです。そしてわたしたちは何を言っておられるかよくわからないとい、とやり過ごすわけにはいかないのです。『でも、あなたは油注がれた方ですよ!そうですよ、わたしは(聖書で)読みましたから』。イエスとは、お話の登場人物と話すようには話せません。物語の登場人物ではないのですよ。そうでしょう?イエスはわたしたちの目の前で生きておられるのです。この問いは、生きている人がしている問いなのです。そしてわたしたちは応えなければなりません。しかし心から応えなければならないのです」。

 パパは加えて言った。「今日も、皆さんは、使徒たちによってなされた抜本的な選択、『すべてか一切なしか』の論理での完全な選択を実現するように呼ばれています。それは実現すべき歩みであり、そのために『特別な恵み』で照らされていなければならず、イエスへの崇敬と愛のしっかりとした基盤の上にいつも生きなければならないのです。

 「その聖なる名への崇敬と愛。岩の上、その愛の岩の上にわたしたちを打ち立てられたという確信。そしてこの愛からわたしたちはあなたに答えを出します。あなたに答えを出すのです。そしてイエスがこの問い、『わたしはあなたにとって誰ですか?』という問いをするとき、このことを考えなければなりません。わたしはその愛の岩の上に打ちたてられているのだ、ということを。彼がわたしを導きます。その岩の上で、その導きのもとでしっかりと応えなければなりません」。

 「『わたしはあなたたちにとって誰なのか?』こうイエスはわたしたちに尋ねます。時々この問いに応えるのを恥ずかしいと感じることがあります」とフランシスコは強調した。「なぜならわたしたちの中で何が良くイケテいないことかを知っている、つまりわたしたちは罪びとだからです。けれどまさにこの瞬間こそがその愛に信頼してその真理の感覚をもって、『主よ、あなたはすべてを知っておられます』とティベリアス湖畔でペトロがしたように応えなければならないのです」。「主がわたしたちを存分に愛して下さっている時というのは、まさにわたしたちが自分のことを罪びとだと感じる瞬間です」ともパパは述べた。「そうして漁師ペトロを自分の教会の指導者として据えたのと同様に、わたしたちとも何か良いことをして下さるでしょう」と結んだ。

 「彼はもっと偉大です。彼はもっとも偉大なのです!そしてわたしたちが崇敬と愛について述べる時、わたしたちは愛の岩の上、またその導きの下で安定しています。安全です。『あなたは油注がれた方です』というセリフ。これがわたしたちに実に益と働き、わたしたちが安全に前進できるようにし、しばしば重い日々の十字架を手にするようにするのです。そのように、喜びをもって、父よ、あなたの民が、あなたの聖なる名への崇敬と愛をいつも生きることができるようにしてください!このような恵みを求めながら前進しましょう。そしてあなたは自分の愛の岩の上にあなたが建てた人々へのあなたの導きを決して取り上げることはありません!あれかし(アーメン)!」。
(マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ - RV)

イエスがしたように、見返りを求めずに奉仕すること

バチカン、6月23日13時15分(バチカンラジオ)
 
 正午前に祝福の間で、教父は聖ペトロとパウロ協会のメンバーを迎えた。彼らはローマ在住カトリックの専門家や民芸品製作者、学生、教師、従業員からなっており、自分の家庭や職場の務めを越えて、その時間を様々な自発的なことにささげ、キリスト者の生活、使徒職、そして使徒座への忠誠の証しをしている。

 パパは情愛をこめて、文化活動や愛徳の活動にもわたるその価値ある奉仕と使徒職に感謝をした。

 「何よりも、キリスト者の特徴的なしるしである愛徳、貧しい人々、弱い人々、欠乏にある人々と言った、他者への具体的な援助に感謝します。また、あなたたちには協会の生活に参加したいと望む候補者や若い生徒達のための多忙な養成プログラムがあります。神に関する知識と愛に育つことは、キリストの顔にわたしたちが出会う、人々の顔を見る時に、すべての人にたいしてその憐れみを運び、彼らのためにその憐れみを生きるための本質なのです。これらすべてのことで、皆さんにわたしがこれに気づいていることと感謝していることを表現しようと思います」。

 ローマ司教は、見返りなく教会と兄弟姉妹に仕えながら、キリスト者の生活の特別な証しをする共通の願いで結ばれる、聖ペトロとパウロ協会のような団体に属することは幸運であると指摘した。

 「これは素敵なことです。イエスがしたように見返りを期待せずに奉仕すること。イエスはすべての人に仕えましたが、見返りは一切求めませんでした。それは素敵なことです。イエスは無償で物事を行い、皆さんも無償で物事を行っています。その報いはこれです。主に仕え、共に活動する喜びです!祈りをもって、黙想会の日々をもって、み言葉の黙想をもって、要理の研究をもって、主をいつもさらに愛するため、豊かで大きな心で、寛大さをもって主に仕えるために、このことをますます知ってください」。
ER- RV

教皇パウロ6世選出50周年を記念して:キリストへの愛、教会への愛、人間への愛

バチカン、6月22日14時4分(バチカンラジオ)


 
 ブレシア教区の5千人近くの巡礼者が昨日、尊崇すべき神のしもべパウロ6世教皇の選出50周年を祝うためにローマに到着した。今朝11時に、あの出来事を思い出しつつ、ブレシア教区司教のルチアーノ・モナーリ卿は聖ペトロ大聖堂の祭壇でミサをささげた。彼と共に、他に3人の司教、そして100人ほどの司祭が参加した。また、ジョヴァンニ・バッティスタ・レ枢機卿もいた。正午を過ぎたあたりで、教父フランシスコは温かく迎えられながら、巡礼者に挨拶をし、演説をするために大聖堂に入った。

 ローマ司教は、信仰年にローマへ巡礼している、パパ・モンティーニの生まれ故郷であるブレシア教区と共に尊崇すべき神のしもべパウロ6世の思い出を分かち合うことができる機会に感謝をした。「この偉大な教皇について語ったり思い出したりすることはたくさんあります」とパパ・フランシスコは述べた。そのうえでパウロ6世のペトロ的な証しが残した三つの基本的な局面を拾い上げるにとどめた。キリストへの愛、教会への愛、そして人間への愛である。

 「パウロ6世は困難な年月の中で、イエス・キリストへの信仰の証しをするすべを知っていました。いまでもはっきりと響いているのはその神への呼びかけです。『キリストよ、あなたが必要です!』そうです、イエスは今日の人間、今の世に、いつになく必要とされています。なぜなら世俗的な町という名の『砂漠』で彼が神について語り、神の顔を啓示してくださるからです。キリストへのまったき愛がモンティーニの全人生を通して浸透していました。パパとしての名を選ぶ時にもです。そのことをこのような言葉で説明しました。『パウロは本物の使徒なのです』。パウロは最高の仕方でキリストを愛しました。彼はほとんどの時間を、すべての民族にキリストの福音を運ぼうと望み、そのために努め、その人生をキリストへの愛のために捧げました」。

 パパ・フランシスコは強調して言いました。「パウロ6世は、所有するためではない、告げ知らせるためのキリストへの深い愛を抱いていました」。

 「キリスト!そうです。わたしは彼のことを伝える必要性を感じていて、黙っていられないのです……。キリストは見えない神の啓示者です。全被造物の長子です。あらゆる物事の基礎なのです。キリストは人類の教師、あがない主なのです。キリストは歴史の中心、世の中心です。キリストはわたしたちを知り、わたしたちを愛しておられる方です。わたしたちの人生の同伴者であり、友なのです。キリストは痛みの人、希望の人、来るべき方、いつか裁きぬしとなられるべき方なのです。そして、わたしたちの存在と幸福の永遠の充満なのです」。

 「また、教会へのパパ・モンティーニの愛も情熱的でした。人生全体が愛でした。喜ばしく苦しみに満ちた愛でした」と教父は思い返した。「それは最初の回勅エクレシアム・スアムのときから表現してきたものです」。「パウロ6世は第2バチカン公会議の後、その光、その希望、緊張を、教会の変遷をフルに生きました」。「彼は教会を愛し、おしみなく教会のために自らを費やしました」。「キリスト教の本物の牧者で、自らのうちにキリストを運び、キリストに導く母なる教会に関するとてもはっきりとした展望を持っていました」。「なぜならパパ・モンティーニ自身が言っていたように、教会は本当に世の人々の心に根差しており、同時に、世を解釈するために十全に自由で独立しています」。最終的に、パパ・フランシスコはパウロ6世の愛の最後の局面について触れた。

 「三つ目の要素は、人間に対する愛です。これもキリストと関係しています。それはわたしたちを人と出会うこと、人を尊敬すること、人を認識すること、人に奉仕することへと後押しをする神の情熱です。第2バチカン公会議の最後のセッションで、パパ・パウロ6世は読むたびに驚きをもたらす演説をしました。特に、現代の人間に対する公会議の心遣いについて語る部分です。このように言いました。「世俗の反宗教的人間性は、ついに怖ろしい所まで来てしまいました。そしてある意味で、公会議はこれに挑戦しました。人となった神の宗教は、神となる人間の宗教に出会います。何が起こったのでしょうか?戦いでしょうか?戦争でしょうか?罰でしょうか?そうなり得たかもしれませんが、そのようなことは起こりませんでした。古いサマリア人の話が公会議の霊性のパラダイムとなったのです。限りない共感がそのすべてに満ち渡りました。人が持つ必要性(欠乏)の発見です。少なくとも、現代的人間主義者の皆さん、最上のことについての超越へ向けて様々なことを拒む皆さんは、そのことに関して、主に信頼して下さい。そしてわたしたちの新しい人間性を認識して下さい。わたしたちも、わたしたちが何よりも、人間を愛するのです」。

 そして第2バチカン公会議の全体的なはたらきの展望をもって、パパ・フランシスコはその前任者、パウロ6世が言っていたことについての見解を述べた。「公会議の教義的財産のすべては、一つの方向に向かっています。それは、人間に奉仕する、ということです。人間に。あらゆる状況にある人間に、それぞれの病気や欠乏にある人間に奉仕することに向かっているのです。まるで教会は自らを人類への奉仕者と宣言したと言っているかのようです」。
(ER – RV)

6月22日、朝ミサ説教:選び、契約、約束

朗読個所  : 二コリント12・1-10
          マタイ6・24-34

バチカン、6月22日16時47分(バチカンラジオ)

 
 世の富や思い煩いが神の言葉を息づまらせるのです。聖マルタの家での今朝のミサでパパ・フランシスコはこう確言した。パパはわたしたちの人生は三つの支柱に支えられている。選び、契約、約束である。生じる先のことに対する恐れなく現在を生きることにおいて父に信頼しなければならない。

 ミサには、キューバのサンタ・クララ司教のアルトゥーロ・ゴンサレス卿他が共同司式に上がり、バチカン美術館の従業員グループが参列した。

 「だれも二人の主人に仕えることはできない」。フランシスコの説教は、富と思い煩いをテーマにしたイエスの言葉から端を発した今日の福音に集中した。教皇は言った。「イエスは、これについてはっきりとした考えを持っています。世の富と思い煩いが、神の言葉を息づまらせるのです。これらが、種まく人の譬え話が語っている、地に落ちた種の成長を妨げる茨なのです」。

 ここで説明した。「世の富と思い煩いは、神の言葉を息づまらせ、育たないようにさせるのです。言葉は、守られず、息づまらされるので死んでしまいます。そのケースでは、富に仕えたり、思い煩いに仕えたりはするけれど、神の言葉には仕えません。そしてこれには一時的なことの意味もあります。なぜなら譬え話、譬え話におけるイエスの話は、すこし時についての譬えとして作られていますよね?明日のことを思い煩わないように、明日何をしようかと思い煩わないように、と。また、種まく人の譬え話も時について作られています。種をまき、そののち雨が来て育ちます。わたしたちにどのようなことをするでしょう?富は何をするのでしょう?思い煩いは何をするのでしょう?わたしたちの時を奪うだけです」。

 パパは強調して言った。「わたしたちの全生活は、三つの支柱に基づいています。一つは過去、一つは現在、そしてもう一つは未来です。過去の支柱は、主によるあの選びです。わたしたちは一人ひとり、主がわたしを選びわたしを愛して下さった、と言うことができます。わたしに『来なさい』と言い、洗礼をもって、ある道を行く、キリスト者の道を行くためにわたしを選んで下さった、と言うことができるのです」と説明した。「未来は一方で、『約束に向かって歩む』ことと関係します。主がわたしたちと一つの約束をして下さった、と」。最後に現在、「これはわたしを選んでくださった実に善意に満ちたこの神へのわたしたちの応答です」。そして見解を述べた。「一つの約束をし、一つの契約をわたしに提案し、わたしは彼と一つの契約を結ぶ、ということです。ここに、選び、契約、約束という三つの支柱があるのです」。

 「救いの全歴史の三つの支柱です。けれどわたしたちの心がイエスが説明しているこのことに入る時、時を切りとります。過去を切り取り、未来を切りとり、現在に沈み込むのです。富に執着する人には、過去も未来もどうでもよく、すべてそこにあります。富は偶像です。過去の必要もなく、約束も選びも必要ありません。何もです。起こりうることに思い煩う人は、未来との関係を絶ちます。けれど、これはすべて機能するのでしょうか?そして未来は可能性に満ちたものになりますが、しかしどんな約束にもあなたを導きません。混乱したままで、単独に留まるのです」。

 パパは見解を述べた。「だから、イエスはわたしたちに言います。神の国についていくのか、富や世の思い煩いについていくのか、と」。付けくわえて言った。「洗礼をもって、しゅによって、愛のうちにわたしたちは選ばれたのです。わたしたちには、路上にわたしたちを据えられた父がいます。そうして、未来も喜びに満ちたものになるのです」。なぜなら「一つの約束に向かってわたしたちは歩むからです」。「主は忠実で、わたしたちを幻滅させることはありません」。「それだからこそ、わたしたちも幻滅することなく、過去においてわたしたちを選んでくださった父がいることを忘れずにできることをするように呼ばれているのです」。忠告して言った。「富と思い煩いは、わたしたちの過去を忘れさせる二つのことで、まるで父がいないかのように、また現在もないかのように生きさせるものです。そこにある現在は、機能しないものなのです」。

 「過去を忘れるということは、現在を受け入れず、未来の形をゆがめるものです。これが富や思い煩いがすることなのです。主はわたしたちに言います。『けれど、落ち着いて!神の国とその義とを求めなさい。他のことはすべてあなたに付加的に与えられるでしょう』と。思い煩いや富の偶像で生き方を誤らない恵み、いつもわたしたちを選んでくださった父がいることを思い出す恵みを主に願いましょう。この父が一つの良いこと、つまりあの約束に向かう道、訪れるままの現在を受け入れる勇気を持つことを約束して下さっている、ということを思い出す恵みを求めましょう。主にこの恵みを求めましょう!」
(RC-RV)

6月21日、朝ミサ説教:自分は疲れた心を持っているのか、落ち着かない心を持っているのか。

朗読個所  : 聖アロイジオ・ゴンザガ修道者(記)
          二コリント11・18、21b-30
          マタイ6・19-23
バチカン、6月21日16時25分(バチカンラジオ)

 
  愛することのでき、役に立たない宝を求めることで道を誤らないような心を持つ恵みを神に求めること。これが聖マルタの家でこの金曜日にパパ・フランシスコがした説教のまとめである。

 ミサに共同司式で上がったのは、法文評議会の議長フランチェスコ・コッコパルメリオ枢機卿、次官のフアン・イグナシオ・アリエタ卿、次官補のホセ・アパレシード・ゴンサルヴェス・デ・アルメイダ師で、同じ評議会の協力者たちが参列した。また、「聖マルタの家」の従業者たちのようにジャコモ・チェレット卿に導かれたラテランの聖ヨハネ大聖堂の役員のグループも参列した。

 人生の後のいのちにおいて持っていくことのできる唯一の宝の獲物はキリスト者であることの意義のみである。これがイエスがマタイからとられた今日のあなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」という福音の個所で弟子たちに説明しているところである。パパ・フランシスコが説明するには、「問題は、富を勘違いすることに見出されるのです」。「心を捉えるが捨て去らなければならない危険な宝があるのです。それは人生の間にため込んで、死の時には役立たないものです」。教皇は軽い皮肉を込めて言った。「一度も葬送行進の後ろに続く引っ越しトラックを見たことはありません。一度も」。「けれど一緒に持っていくことのできる宝物もあります。それは誰も奪うことのできないものです。それは自分のために貯めたあぁしたものではありません。そうではなく、他者のために与えた宝物です」と確言した。

 「他の人々に与えてきたあの宝、その宝をわたしたちは運ぶのです。そしてそれはわたしたちの鍵括弧つきの功績です。けれどそれはわたしたちのうちにおられるイエス・キリストの、わたしたちの「功績」なのです。そしてそれを持っていかなければならないのです。それこそ主がわたしたちに持っていってもいいとしてくださるものなのです。愛、愛徳、奉仕、忍耐、善意、やさしさ、そうしたものは最高に素敵な宝です。それをわたしたちは持っていくのです。他のものではないのです」。

 それゆえ、福音が言っているように、神の目に適う宝物は、地上にいる時から天に積まれたものなのです。けれどイエスは、もう一歩さらに進めます」と教父はつめた。「心を縛り付け、双方の末端の間の関係を作るのです」。そして加えた「これは、なぜなら主が求めるようにと、そのようになさった落ち着きのない心がわたしたちの心だからです」。

 「主は、わたしたちがご自身を求めるように、主に出会うように、育つために落ち着きないものとして創造されました。なぜならもしわたしたちの宝が主の側にない宝なのであったら、主のものではなく、わたしたちの心は価値のないもののために、こうした宝物のために落ち着きをなくすのです。実に多くの人は、わたしたちをも含め、落ち着きがありません。これを持っているために、それを手に入れるがために、最後にはわたしたちの心は疲れ、決して満足できないのです。疲れ、たるみ、愛のない心になってしまうのです。心の疲れ。このことを考えましょう。自分には何があるでしょう?だあれやこれやの銀行口座を満たして三つ四つのことに妥協しようとのみ望む疲れた心があるのでしょうか?それとも所有しきれない物事、主のものごとをますます求める、落ち着くことを知らぬ心でしょうか?いつでも心のこの落ち着きなさが必要なのです」。

 ローマ司教は続けた。「この点で、キリストは『眼』に由来することにも注意を促します。『眼』は『こころの意図』のシンボルで、体に反映します。『愛する心』は体を『輝かしいもの』とし、『悪い心』は体を『暗く』するのです」。光と闇の対比から、パパは注意を促した。「ものごとはわたしたちの判断次第です。他のことと同様に、地上の宝に執着した石の心が憎しみの宝にもなりうる利己的な宝になるという事実が戦争の起源ととなるのと同じように」。フランシスコの最後の祈りは卿記教会が記念する聖アロイジオ・ゴンザガの取り次ぎを求め、「新しい心、肉の心の恵みを求めましょう」という祈りであった。

 「主が石となったこうした心のかけらをすべて、あの落ち着きのなさをもって、前進しようとする善意の渇望によって、主を求めつつ、主に求められつつ、人間的なものに戻して下さいますように。主がわたしたちの心を変えてくださいますように!そうしてわたしたちを救ってくださるでしょう。主との出会いをできるように助けとならない宝から救い、わたしたちを他者への奉仕へと据え、本物の宝に基づいて彼の真理を知り、判断するための光をも与えてくださるでしょう。主がわたしたちの心を変え、本物の宝を探すことができるようにし、そうしてわたしたちを闇の人ではなく、輝かしい人としてくださいますように」

(RC-RV)

2013年6月21日金曜日

6月20日、朝ミサ説教:心に敵を抱いているならば父への祈りは祈りにならない

朗読個所  : 二コリント11・1-11
          マタイ6・7-15

バチカン、6月20日19時30分(バチカンラジオ)
 
 主の祈りを唱える時、わたしたちの兄弟たちとの心を平和のうちに持たなければなりません。これが聖マルタの家の小聖堂において祝われた朝ミサの説教でパパ・フランシスコが今朝確言したことである。パパは、わたしたちは父であり、わたしたちの「とても近くに」いて、無名でも、「宇宙のような神」でもない神を信じている。

 このミサで、ゼノン・グロコレフスキー枢機卿が共同司式に上がり、教育省の協力者のグループや、バチカン美術館の協力者たちが参列した。

 祈りは魔術ではなく、父の腕に委ねる。フランシスコはその説教を、今日の福音が語っているように、イエスが弟子たちに教えた主の祈りを中心に繰り広げた。そして「イエスはすぐに祈りについての助言をします。つまり、言葉の乱用にも、騒ぎ立てるようなものにもならないように」と言った。「騒ぎ立てるというのは、俗っぽいことの特徴です。虚栄のざわめきです」。そして「祈りは魔法のようなものではありません。祈りで魔術をすることはないのです」と忠告した。

 ローマ司教は続けて言った。「ある人がわたしに言いました。『占い師(魔術師)』のところに行くと、癒しのためにたくさんの言葉を言うのだ、と。けれど、それは『異邦』的です。わたしたちには、イエスが教えていることがあります。『神のもとにたくさん言葉を連ねて向かってはならない』と。なぜなら『すべて知っておられる』からです」。そして加えて言った。「最初の言葉は『お父さん』です。これは祈りの要です。このことを言わずに、この言葉を感じずに祈ることはできません」と教皇は忠告した。

 「誰に祈るのでしょう?全能の神に祈るのでしょうか?あまりに遠い存在です。あぁ、これではわたしは味わうことができません。イエスですらそのようには感じていませんでした。誰に祈るのでしょう?宇宙のような神でしょうか?最近はやりですよね?宇宙のような神に祈るのは。違いますか?この『ちゃらい(Lightな)』文化に到る多神教的な言い回し……。あなたはお父さんに祈らなければなりません!お父さん、というのは強烈な言葉です。あなたは自分を生み出してくださった方に祈らなければならないのです。あなたに命をくださった方に祈るのです。すべての人を生んでくださった、という表現ではありません。『すべての人の』父というのはあまりに神を無名な誰かにしてしまいます。あなたにとってのお父さん、私にとってのお父さんなのです。そしてまた、あなたと歩みをともにしてくださるお父さんに祈ります。あなたの人生すべてを知っておられるお父さんに祈るのです。すべて知っておられる方です。良かったところも、そんなに良くなかったところも。すべて知っておられます。もしわたしたちが祈りをこの言葉から始めないならば、口先だけでなく心から言わないならば、キリスト者として祈ることができないのです」。

 「お父さん、という言葉は強烈な言葉ですが扉を開きます」とパパは再確認した。「犠牲をささげるとき、イサクは何かが足りないことに気づきました。(犠牲のための)ヒツジが足りなかったのです。けれどその父(=アブラハム)に信頼し、自分の心配を父親の心に任せました」とパパは言った。そして加えた。「お父さん、という言葉はまた、あの財産を持って行ってしまった息子を語ることを思わせる言葉です。彼はそのあと家に戻りたいと望みました。そしてあの父は家に着こうとしているのを見て、家から出て走って出会いに向かいます。首に抱き着き、愛をもって彼に覆いかぶさります。そして息子は『父よ、私は罪を犯しました』と言います」。フランシスコは再確認して言った。「お父さんに愛されていると感じること、これこそあらゆる祈りの要なのです」。

 「わたしたちには一人のお父さんがいます。超(この上なく)近くに!ほら!わたしたちを抱きしめてくれます。こうした渇望のすべて、持ちうるあらゆる心配事を、お父さんの所に置いてきましょう。彼は私たちが何を必要としているかを知っているのです。でも、お父さんと言いますが、どんなお父さんですか?わたしのお父さん?いいえ。わたしたちのお父さんです!なぜならわたしは一人っ子ではないからです。わたしたちは誰一人として一人っ子ではありません。そしてもしわたしが人にとって強大になることができないなら、このお父さんの子になることができるのは難しいものです。なぜなら神はすべての人々のお父さんだからです。当然、わたしのお父さんではあります。けれどほかの人々の、わたしの兄弟たちのお父さんでもあるのです。そしてもしわたしが兄弟たちとの平和のうちにいないなら、神のことを『お父さん』と呼ぶことはできないのです」。パパは加えていった。「このように、イエスの行いを説明することができます。主の祈りを私たちに教えた後で、もしわたしたちが他者を許さないならば、父もわたしたちの罪を赦してくださらないだろう、と強調しておられるのです」。フランシスコは注意を促して言った。「他者を許すというのは実に難しいものです。本当に難しいのです。なぜならわたしたちはいつもその重石を内側に感じているからです。でも考えてみましょう。『あなたはわたしにこんなことをしたでしょう。ちょっと待てよ・・・わたしにしてくれた好意に答えるためには・・・』と」。

 「ほら、無理です。心に敵を抱え込んでいては祈ることができないのです。兄弟を敵として心に思い浮かべているならば、祈ることはできないのです。これは難しいことです。はい、難しいことです。簡単ではないのです。『お父さん、わたしは『お父さん』と呼べません。うまく口をついて出てこないのです』。そうですね。わたしはこのことがよくわかります。『わたしは、わたしたちの、ということができません。だってわたしにこんなことやあんなことをしてきて…できません!』『この人たちは地獄に行かなければならないでしょ?違いますか?わたしの兄弟姉妹とは呼べません!』。その通りです。簡単ではありません。けれどイエスはわたしたちに聖霊を送ってくださる約束をしてくださいました。聖霊はわたしたちに、内側から、心の中から、どのように『父よ』と呼び、『わたしたちの』ということができるかを教えてくれる方です。今日、わたしたちに、わたしたちの敵全員と平和を作りながら『父よ』と言い『わたしたちの』と言うことを教えてくださるように聖霊に願い求めましょう。
(マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ – RV).

2013年6月20日木曜日

6月19日、一般謁見:難民の家族が直面する問題に目を向けよう

6月19日、教皇、ダウン症の青年をパパ・モビルに乗せてあげる

Francisco invita a joven con síndrome de Down a subir al papamóvil
バチカン、6月19日10時51分(ACIニュース)

 今日水曜日の一般謁見の終わりに、パパ・フランシスコは様々なシンプルでやさしさに満ちた仕草のなかで、一人のダウン症の青年を招き、パパ・モービルの乗せ、少しの間自分の座るところに座らせた。

 教父は10番の番号のついたアルゼンチンの選抜サッカーシャツ、つまりリオネル・メッシ選手がよく使っているシャツを着ていたその青年を強く抱きしめた。

 数多くの愛情表現の中でも、パパは今朝、サンピエトロ広場において、そこにいた大勢の子どもたちにあふれんばかりのキスをし、その両親に、ローマの強い日差しから彼らを守るために帽子をかぶらせるようにと招いた。

 本人も、挨拶をして回った子供たちからもらった緑色の帽子をかぶった。

6月19日、朝ミサ説教:キリスト者が偽善者にも(善意のない)道徳家にもなることなく、大きい心の持主になるように

朗読個所  : 二コリント9・6-11
          マタイ6・1-6、16-18
バチカン、6月19日19時4分(バチカンラジオ)
 
  キリスト教は様々なきまりごとの「詭弁」ではありません。この考えは、神とは喜びと寛大さであるという事実を理解し生きるのを妨げます。聖マルタの家の小聖堂で祝われた今朝のミサの説教の中でパパ・フランシスコはこう確言した。 

 ローマ司教と共同司式に上がったのは、司教評議会の長官マルク・クヴェレット枢機卿とその秘書のロレンツォ・バルディッセーリ大司教、彼らには協力者のグループが随伴し、また家庭評議会の議長であるヴィンチェンツォ・パリア大司教とその秘書ジェン・ラッフィッテ卿である。彼らにもこの評議会の重要な役割を持った人々が伴った。

 「偽善者は神の民を袋小路に導きます」。このように偽善者たちが今日の福音とパパの説教の主役である。教皇はマタイ福音書の有名な個所で、施しをしたり祈ったり断食したりする時にうぬぼれた姿を公に示す律法学者やファリサイ派の人々と、同じ状況を責任を持って行わなければならない正しい態度、つまり神にとって喜ばしく報いを与えられる分別である「人に見られないように」という態度としてイエスが弟子たちに指示することとを対比した。具体的にはさらに、パパ・フランシスコは律法学者やファリサイ派の人たちの虚栄について、信者に「あまりに多くのきまりごと」を強要する意図について述べた。そして彼らを「詭弁の偽善者、タレントのない知識人、つまり神に出会う知性のない人々、知性をもって神を説明するその知性のない人々」と定義した。彼らはそうしながら自分自身も他の人々も神の国に入ることを妨げる、というのである。

 「イエスはこう言っています。『あなたがたが(神の国に)入らないばかりか、他の人も入れないようにしている』。この人々は善意のかけた倫理学者であり、何が善意なのかを知らない人たちです。けれど、倫理家ではあります。『これと、これと、これをしなければならない』と、あなたを善意なく決まりごとづくめにします。そして多くの服を寄せる衣のすその決まりや、実に多くのことをする決まりごとがあって、そうして立派な人、完璧な人に見せるのですが、そうした決まりごとには美のセンスがありません。美のセンスがないのです。ただ美術館に留まるような美しさしかないのです。タレントのない知識人、善意のない倫理家、美術館に留まるような美しさの運搬者。こうした人たちは偽善者で、イエスはこうした人たちのことを何度も叱っています」。

 「けれどそれで終わりではありません」とフランシスコは続けて言った。「今日の福音では、主は別のクラスの偽善者について語っています。彼らは聖なることについてこれを行うのです」との見解を述べた。

 「主は断食、祈り、施しについて語ります。それはキリスト者の敬虔、つまり教会が四旬節にわたしたち全員に提案する内なる回心の三つの柱です。この歩みにも多くの偽善者がいて、断食や施しをすること、祈ることでうぬぼれる人々がいるのです。わたしは偽善がこの神との関わりの点まで到達すると、わたしたちは聖霊に反する罪に非常に近い所まで来ていると思います。こうした偽善は美を知りません。愛を知りません。真理を知りません。とても卑しく、あさましいものです」。

 「教会における偽善について考えましょう。全員に対してどれほど害をもたらすことか」とパパ・フランシスコははっきりと認識した。一方、他の福音の個所に描かれている登場人物を模倣するために「イコン(模範像)」として一つのあり方を指摘した。「わたしをあわれんで下さい。わたしは罪びとです」と言いながら謙虚な質素さをもって祈る徴税人のことである。「これが毎日わたしたちが、自分が罪びとであるという意識をもってしなければならない祈りです」とパパは確言した。しかしそれは「具体的な罪の認識であって、理論的なものではありません」。この祈りこそが、偽善、「わたしたちすべてにある」誘惑と反対の道を進むのを助けてくれるものである、と思い返しながら教皇は説教を結んだ。

 「けれどわたしたちは全員、恵みをもいただいています。イエス・キリストからもたらされる恵みです。喜びの恵み、寛大さの恵み、広さの恵みです。偽善者は喜びとは何なのか、広さとは何なのか、寛大さとは何かを知らないのです」。
(マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ – RV).

2013年6月19日水曜日

6月18日、朝ミサ説教:わたしたちを愛さない人々にイエスを差し出そう

朗読個所  : 二コリント8・1-9
          マタイ5・43-48

バチカン、6月18日14時20分
 
 敵を愛することは難しいことですが、それが主がわたしたちに求めておられることなのです。パパ・フランシスコは聖マルタの家での火曜日のミサでこう語った。教皇はわたしたちの敵を赦すためには、彼らのために祈ること、心を入れ替えられるようにと主に求めることが基本であると強調した。

 ミサでは、ジュゼッペ・ヴェルサルディ枢機卿が共同司式に立ち、聖座財務部の協力者たちやバチカン美術館の従業員も参列した。

 どのようにすればわたしたちの敵を愛することができるのだろうか?その説教において、教父は胸に刺さるような問いをし、人類の悲劇についていくつか触れた。「どうすれば、爆弾を落とし、大勢の人々を殺そうという決断をしている人々を愛することができるのでしょうか?どうすれば金銭への愛着のために老人に薬が回らないようにしてそのまま死に渡すような人々を愛することができるのでしょか?また自分の関心ばかりを考える人々、自己の権力だけを求めて多くの悪い結果を残していく人々を、どう愛するというのでしょう?敵を愛するということは、難しいことのように思われます。けれどイエスがわたしたちにこれを求めておられるのです」と教皇は見解を述べた。続けて言った。「ここ数日の典礼は、わたしたちにちょうどこのイエスが行う法のアップデートを提案しています。シナイ山の法から真福八端の丘の法へとアップデートされているのです」。そしてわたしたちには誰でも敵がいるけれど、実際には深い所で、わたしたちが他の人にとって敵になっているのかもしれないのだ、と強調した。

 「何度もわたしたちは他の人たちの敵になっています。そのことは望ましいと感じません。そしてイエスは敵を愛さなければならない、と言っているのです!そしてこれは簡単ではありません!簡単ではないですね…イエスはわたしたちにあまりに求め過ぎている!と思います。わたしたちは、こういうことは浮世を離れた隠遁のシスターたちに任せておけばいい、そういう聖女たちに任せておけばいい、これは聖なる魂をもった人たちに任せよう、けれども普通の生活していたらこれは到底できない、そう思います。けれどこれは出来なければならないのです!イエスが言います。『いいえ、これをしなければならないのです!なぜならそうでなければあなたがたは徴税人や、異邦人のようであり、キリスト者ではないからです』と。」

 「それでは、どのようにすれば敵を愛することができるのでしょうか?」パパは説明した。「イエスはわたしたちに二つのことを言っています。何よりもまず、御父を見ることです。それは善人にも悪人にも太陽を登らせ、正しい人の上にも正しくない人の上にも雨を降らせる御父です。神はすべての人々に対する愛をもっています」。続けて言った。「それから、イエスはわたしたちに天の父が完全であられるように完全なものになるように、とわたしたちに求めます。あの愛の完璧さをもった父を真似ることです」。加えて言った。「イエスは自分の敵たちを赦します。すべてのことを、彼らをゆるすために行います」。「一方、仕返しをするというのは、キリスト者的ではありません」とフランシスコは忠告した。「けれどどうすれば私たちの敵を愛することができるようになるのでしょうか?祈りながらです。わたしたちを苦しめる人のために祈る時、まるで主が薬油を持って来るかのように、わたしたちの心に平和の場を整えてくれるのです」とパパは確言した。

 「祈ること!それこそイエスがわたしたちに助言していることです。汝の敵のために祈れ!あなたたちを迫害するあの人たちのために祈りなさい!祈りなさい!そして神に祈って言うのです。『あの人の心の持ち方を変えてください。あの人たちは石の心を持っているのです。けれど、変えてください。肉の心を、感受性のある、愛する心を与えてあげて下さい』と。皆さんにこの問いかけだけしておきます。それぞれ心の中で答えてください。自分は敵たちのために祈っているだろうか?わたしのことをすかない人々のために祈っているだろうか?もし『はい』と答えるならば、わたしは皆さんに言います。『がんばって、ますます祈ってあげてください。それはよい道ですよ』と。もしその答えが『いいえ』ならば、主は言うでしょう。『可哀そうに、あなたも他の人たちの敵だというのに!』あの人たちの心を主が変えてくださるように祈ることです。またこう言うこともできるでしょう。『けれどこの人はこんなにもわたしを傷つけたんですよ』、あるいはあの人たちは悪いことをしました、と。この姿勢は人を哀れな者にし、人間性を哀れなものにします。そうしてうだうだ言っている間に仕返しへと導かれます。これが、目には目を、歯には歯を、という態度になるのです」。

 「実際、敵に対する愛は、わたしたちを哀れな気持ちにするものなのですが、それはイエスのようにわたしたちを貧しくするものです。つまり、イエスはわたしたちのために、わたしたちのもとに来られ、へりくだり、貧しい者となられたのです」とパパは際立たせた。「もし敵が自分をもっと哀れな者するならば、これは良い取引とは言えないという人もいるでしょう。そのとおりです。世の判断基準に従えば、言い取引とは言えません」と見解を述べた。「けれど、これはイエスが続けた歩みです。富んでおられたのに、わたしたちのために貧しくなられたイエスの歩みです」とパパは確言した。「イエスのあの貧しさ、あの低くなるという出来事に、恵みが見出されるのです。これによってわたしたちすべてが義とされ、わたしたちは豊かなものとされたからです」とパパは強調した。「これが救いの神秘なのです」。

 「ゆるしを持って、敵に対する愛を持って、わたしたちはより貧しい者となります。愛はわたしたちを哀れな者にします。けれどその貧しさは実り豊かなこと、他者への愛の種なのです。わたしたちすべてのための救いの恵みとなったイエスの貧しさのような豊かさ……わたしたちは今日、このミサにおいて、わたしたちの敵たちのことを考えましょう。わたしたちのことをすかない人々のことを考えましょう。彼らのためにミサを捧げられるならば、それは素晴らしいことです。そしてまた、わたしたちのためにミサを捧げましょう。主がわたしたちに、実に難しいけれど、実に美しいこの知恵を教えてくださるように祈りましょう。なぜならこのことがわたしたちを父と似た者にしてくれるからです。すべての人のために、善人にも悪人にも太陽を登らせてくださるわたしたちの父と似た者にしてくれるのです。そしてこれはまた御子、イエスに似た者としてくれます。そのへりくだることにおいてわたしたちを、その貧しさを持って豊かにするために貧しい者となられたイエスに似た者としてくれるのです」。 
(RC-RV)  

6月17日、ローマ教区教会大会開会式演説:恵みはわたしたちの喜び、わたしたちの自由。これは宝であり、革命でもある。


バチカン、6月18日14時14分(バチカンラジオ)
 

この月曜日の午後、バチカンのパウロ六世ホールでローマ教区の教会大会が開催された。そのテーマは「キリスト、わたしたちにはあなたが必要です」。洗礼を受けた者のイエス・キリストを宣言する責任についてである。パパ・フランシスコはこの活動を、大きな拍手の中で開いた。入場する前に、大スクリーンを通して外部からこのイベントについてきていた何百人もの信者に挨拶をするために立ち止まった。

 「わたしは福音を恥としない」というのが、ローマ司教の要理の標題である。補佐枢機卿のアゴスティーノ・ヴァッリーニ卿は彼に教導職における忠誠を更新し、教区の福音化の現在の献身を繰り返した。

 喜びに満ちた祭りの雰囲気と同時に瞑想の雰囲気とをもって、教父は恵みのもとで生きるとはどういうことか、それは福音化とどのような関係があるかについて説明をした。「恵みは、わたしたちの喜びであり、わたしたちの自由です。わたしたちが自由なのは、イエスがわたしたちを解放したからです。そしてわたしたちは神の子らであるという恵みのもとに生きているのです。これは宝です。これは革命です」と言った。

 「歴史を変える革命です。人間の心を深く変化させる革命です。歴史上には様々な革命があって、政治や経済の生活を変えてきました。けれどいずれも人間の心を本当に変えるということはありませんでした。本当の革命とは、人生を変える革命です。イエスはその復活を通して、十字架と復活を通してこれを成し遂げました。そしてベネディクト十六世はこの革命について、『これは人類の歴史において最も大きな変革です』と言っていました」。

 「キリスト者は、もし、この時に、革命家でないならば、キリスト者ではありません!」と教父は続けた。「恵みによる革命家でなければならないのです!十字架に架けられ、死に、復活したイエス・キリストを通してわたしたちに御父が与えてくださる恵みだけがわたしたちを革命家にするのです」。

 「なぜなら心を変えるからです。預言者エゼキエルは言いました。『わたしはその石の心を取り除き、お前たちに肉の心を与えよう』と。そしてこれが使徒パウロが体験する経験です。ダマスコへの道でイエスと出会った後、抜本的にその人生観を変え、洗礼を受けます。神は心を変えるのです!このことを考えてください。迫害者から、教会とキリスト者たちを迫害していたものから聖人、骨の髄までのキリスト者、本物のキリスト者になるのです。

 「わたしたちは皆罪びとです。全員です!けれど、もしイエス・キリストの恵みを受け入れるならば、イエス・キリストの恵みがわたしたちを罪から救ってくれるのです。わたしたちの心を変え、罪びとからわたしたちを聖人になるようにしてくれるのです」。パパ・フランシスコは、現実の変革のための最も力ある強さは愛であると言った。なぜなら利己主義の壁を打ち壊し、他者を遠くにとどめる溝を埋めるからです」。そしてこれが石の心から肉の心に変えられた、人間的な心から来る愛なのである。それを恵みが、わたしたち全員が受けたイエス・キリストの恵みが行うのである。

 「だれか恵みがいくらするか知っていますか?どこで恵みは売っているのでしょうか?どこで恵みを購入することができるのでしょうか?だれも知らないはずです。誰も。わたしは多分教会事務室で売っていると思うのでそこで買いましょう、恵みを、とできるのでしょうか?恵みを売っている司祭が誰かいるのでしょうか? 注意深くこのことに耳を傾けてください。恵みは売ったり買ったりするものではありません。それはイエス・キリストにおける神の賜物なのです。イエス・キリストが恵みをわたしたちに下さるのです。それはプレゼントなのです。それをわたしたちに捧げてくださるのです。手に取ってください。これは美しいことです。イエスの愛とはそのようなものです。無償でわたしたちに恵みを下さり、無償の形を。そしてわたしたちは人々や兄弟たちに、無償でそれを与えなければならないのです。

(ACI/EWTNニュースからの記事)

バチカン、6月18日10時12分
 「わたしは福音を恥としません」これは昨日、6月17日の午後に、ローマ教区の教会大会の開会式を機にパウロ六世ホールでパパ・フランシスコによってなされた要理のテーマであった。

 そこで教皇は、カトリックのわたしたちは少数派であり、良い牧者のたとえと違ってわたしたちは足りない「99匹の羊を探しに行かなければならないのです!出かけていかなければなりません。探しに行かなければならないのです」と述べた。

 パパは「福音はすべての人のためのものです。この貧しい人たちに向かっていくということは、ひどく落ちぶれた人になることや、ある種の霊的な放浪者になることを意味しているわけではありません。ちがいます。これではないのです。苦しむイエスの肉体に向かって行かなければならない、ということを意味するのです。けれど苦しむイエスの肉体というのは、勉強や知能、あるいは文化の影響でイエスのことを知らない人々のことでもあるのです」と説明した。

 「そこに行かなければなりません。だから、わたしは『中心から外れたところに行く』というフレーズを使うのが好きなのです。存在の中心から外れたところ。あらゆる貧しさです。つまり肉体的な貧しさが実際の貧しさで、このほかに、知的な貧しさがありますが、これも実際の貧しさです。そしてそこに、言葉と証しをもって福音の種をまくのです」。

 「そしてこのことは勇気を持たなければならないということを意味します。皆さんに言いたいことがあります。福音書に、美しいテキストがあります。羊飼いがいて、群れの柵に戻ってくると、羊が一匹足りないことに気づいて、99匹をさしおいてその一匹を探しに出る、という話です。一匹を探しに行くのです。けれどわたしたちには、99匹が足りないのです!出ていかなければなりません。探しに行かなければならないのです。この文化の中で、本当のことを言いましょう、わたしたちには一匹しかいないのです。わたしたちは少数派です。そこで他の99匹を探しに出ていく燃える想いや使徒的熱意を感じませんか?」

 「愛する兄弟の皆さん、わたしたちには一匹しかおらず、99匹が足りないのです。出て言って探しましょう。福音を告げ知らせに出ていく恵みを求めましょう」。なぜなら「一匹だけを抱き、毛に櫛を通して解いてあげ、可愛がって撫でてあげながら家に留まる方が簡単だからです」。そして声を上げて言った。「けれど主は、わたしたち全員が牧者となるように望んでおられ、毛を解く係になるようにと望んでいるわけではないのです」。

 パパ・フランシスコは思い返して言った。「嘆きの女神への信心でも持っているかのように見えるキリスト者もいます」。「世は世です。5世紀前と同じです」と具体化した。「力強い証しをして、前進する」必要があるが、同時に「まだ変えることのできない物事を忍耐する必要もあります」。そして招いて言った。「勇気と忍耐をもってわたしたち自身の殻から抜け出し、招くために共同体のところに行きましょう」。

 「歴史を変えるための革命は、人間の心の深い所を変えなければなりません。この数世紀の間に行われた改革には色々ありますが、これらは政治や経済のシステムは変えてきました。けれどどれひとつとして人間の心を本当に変えることのできた者はありません。本当の革命は、行き方を抜本的に変えるものです。それをしたのはイエス・キリストだけです。彼はその復活を通してこれを成し遂げました。ベネディクト十六世が思い返すのを好んだものですが、こうしてこの革命は人類の歴史のもっとも大きな変革となり、新しい世にいのちを与えたのです」。

 そして次のように思い返しながら結んだ。「神はわたしたちにこの恵みを無償でくださったのです。わたしたちもこれを無償で与えなければなりません」。

 大会は今日、火曜日もラテランの聖ヨハネ大聖堂で続けられ、教区の小教区や知事官舎などで閉じられる。パウロ六世ホールは狭く感じられ、外部には青空状態で、大画面につなげられた同時放映がなされる場所が設けられた。少なくとも1万人が教父の言葉を聞いた。