2013年4月29日月曜日

28日レジナチェリ:労働者の尊厳と安全を保つように

ビデオを見て教皇の声を聞きながら、どうぞ:http://www.youtube.com/watch?v=t4rIboae4FQ

4月28日、バチカンラジオ




 サン・ピエトロ広場で捧げられ、全世界の代表として異なる国籍からの44人の信者の堅信の秘跡を教皇自らが執行したミサの後、レジナ・チェリ(アレルヤの祈り)を祈る前に、教皇は次の言葉をもって、バングラディッシュの工場が崩壊したことで犠牲者となった人々のために祈り、またその霊的な寄り添いを表明した。


 今、バングラディッシュの工場の悲劇的な倒壊で犠牲者となった多くの人々のために祈りをささげたいと思います。愛する人々を失って泣いている家族に対する私の連帯と深い寄り添いを表明し、心の底から労働者の尊厳と安全を保つように強く呼び掛けたいと思います。

 このバングラディッシュの建物は、去る4月24日に倒壊し、事故の時点で公表された情報通りでいけば300人以上の死者を出した。一方、首都ダッカの近くの建物のがれきの中から織物工房や見せ、銀行や市場といった仕事をしていた2000人が救出された。

アレルヤの祈りの前の教皇の演説全文

 この祭儀を終える前に、堅信を受けた(信仰を固められた)あなたたちと、皆さんすべてを聖母に託したいと思います。おとめマリアは聖霊において生きるとはどういうことか、またわたしたちの人生で神の新しさを迎え入れるとはどういうことかを教えてくれます。彼女は聖霊の働きでイエスをその胎に宿しましたが、キリスト者一人一人は、わたしたちの誰もが、神の『言葉』を受け入れる、つまりイエスを自分の中に受け入れ、これをすべての人に運んで行くように呼ばれています。

 マリアは食堂で使徒たちと共に聖霊に呼びかけましたが、祈りのためにわたしたちが集まるたびに、イエスの母の霊的現存によってわたしたちは支えられ、こうして聖霊を受け、復活されたイエスを証しする力を持つようになります。これは、特に皆さんに、今日堅信の秘跡を受けた皆さんに向けて言います。マリアが皆さんを助け、主が皆さんに願われることに対して注意を払い、いつでも聖霊に従って生き、歩むことができますように。

 わたしの情愛に満ちた挨拶を、実に多くの国々から集まったここにいる巡礼者全員に広げます。特に堅信を受ける準備をしている子たちに、神の愛の宣教者会によって培われたグループに、ポーランドのいくつかの小教区の信徒の皆さんに、ベシグナノの信徒の皆さん、フェルビンドゥング・カミトリーナ・カトリックアカデミーの皆さんに。

 それでは、聖霊の実りである過ぎ越しの光の中で、共に主の母に心を向けましょう。
 レジナ・チェリ…
(スペイン語訳:バチカンラジオ、マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ).

4月28日、堅信式ミサ説教:主は流されずに歩む勇気を与えてくださる

朗読個所 :   使徒言行録14・21b-27
           黙示録21・1-5a
           ヨハネ13・31-33a、34-35



4月28日、バチカンラジオ
 予定されていた通り、この復活節第五主日に、信仰年の活動の一環として、教皇フランシスコは五大陸の全教会の代表として全世界からの44人の青年たちに、初めて堅信の秘跡を授けた。その朝10時に祝われたミサ中の説教において、サン・ピエトロ広場に集まった7万人の人々を前にローマ司教である教皇は、次の三つのポイントについて考えを巡らせた。神の新しさ、人生の苦難、そして主のゆるぎなさである。


教皇の説教全文:

愛する兄弟姉妹の皆さん、ようこそ!

 堅信の秘跡を受けようとしている愛する兄弟の皆さん、今日は三つのアイデアについて簡単に短い考えをめぐらそうと思います。

 1.第二朗読で、聖ヨハネの美しいヴィジョン(幻視)の場面を聞きましたね。新しい天と新しい地があって、それから神のもとから降ってくる聖なる都が出てきます。全部が新しい、善いことに変えられて、美しいもの、本当のものに変えられています。もう嘆きも、喪に服することもありません。……これが聖霊の働きです。神さまのニュース、新しさがわたしたちを魅了します。君のところに来て、全ての物事を新しくして、君を変えてくださるのです。聖霊はあなたを変えます。そして聖ヨハネのヴィジョンについて聞くと、天のエルサレムに向かってわたしたちはみんな歩いているのだということを思い出すことができます。わたしたちにとって、それからすべての現実にとって決定的な新しさに向かって歩いているのだ、ということを。その日は、主の顔を見ることのできる日、主であるイエス様の素晴らしい顔を見ることができる日で、イエスさまと一緒に、いつまでも、その愛のうちにいることができるのです。

 ごらんなさい、神さまのニュースは世俗的なニュースとはずいぶん違うでしょう?世俗的なニュースは、一時的なもので、過ぎゆき、いつも他のことを探しています。神さまがわたしたちの人生にくださるニュースは、決定的なもので、いつか主と共にいられるようになった将来だけでなくて、今日も与えてくださるのです。神さまは全てのことを新しくしています。聖霊は本当にわたしたちを造り変え、わたしたちを当てにしながら、わたしたちが生活しているこの世を造り変えたいと望んでいます。扉を開けましょう。聖霊の導きに委ねましょう。神のたゆまぬ働きが、わたしたちを聖霊がわたしたち下さる、神の愛による気力に支えられた新しい男子、新しい女子としてくださるように委ねましょう。もし皆さん一人一人が、「今日は学校で、家で、仕事場で、神に導かれて、友達に、良心に、おじいさんに愛をもって接することができた」と毎晩言えたらどんなにすばらしいでしょう!美しいですね!

 2.二つ目のアイデアです。第一朗読で、パウロとバルナバは「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」(使徒14章22節)とはっきりと言いました。教会の歩みは、わたしたちの個人的なキリスト者としての歩みもそうですが、必ずしもいつもスムーズにいくというわけではありません。困難や苦難に直面することもあるのです。主に従うということ、わたしたちの闇の部分を変えるようにと聖霊に委ねること(というのはわたしたちの振る舞いは必ずしもいつも神に従ったものではありませんから)、そして聖霊がわたしたちの罪を洗うようにと委ねることは、多くの障害に出くわす歩みなのです。わたしたちの外側、わたしたちのことをしばしば理解しない、わたしたちが生活している世の中にも、わたしたちの内側、わたしたちの心の中にも障害があります。けれども、困難や苦難というのは、神の栄光に至るための歩みの一部を成しているのです。それは、イエスが十字架において栄光を受けられたのと同じです。生きていると、必ずこういうことに出会うものです。気を落とさないようにしましょう。苦難を乗り越えるために、聖霊の力を得ているのですよ。

 3.そういうわけで、最後のポイントに参ります。これはわたしが皆さん、これから堅信の秘跡を受ける男の子たち、堅信の秘跡を受ける女の子たちと、ここにおられる皆さんすべてに向ける招きです。主における確かな希望をもって、信仰の道にゆるぎなくとどまりなさい。ここに、わたしたちの歩みの秘密があります。主はわたしたちに、流されずに歩む勇気を与えてくださいます。青年の皆さん、よく聞きなさい。流れに流されずに行くのです。これは心によいものですが、流れに逆らっていくには勇気がいります。そして主がわたしたちにこの力を下さるのです。困難はないのです。困難はないのですよ(拍手が沸き起こる)。もし枝がブドウの木につながっているようにわたしたちが主と一致し続けているならば、もし主との友情を失わないなら、もしわたしたちの生活の中で主といるためにますますスペースを割くならば、怖れに値するような困難や苦難、無理解などないのです。このことはまた、なによりも、もしわたしたちが貧しさを感じ、弱さを感じ、罪びとと感じるならば、同じように大丈夫です。なぜなら神さまはわたしたちが弱い時に力を与え、貧しさを富ませ、罪には回心とゆるしを下さる方だからです。主というのは、本当にあわれみ深く、もし彼のもとに行くなら、毎回必ずわたしたちをゆるしてしまうのです。

 神さまのはたらきに信頼しましょう。神さまと一緒なら、偉大なことを成し遂げることができ、わたしたちに主の弟子でよかった、主の証人でよかったと感じられるようにしてくださいます。偉大な理想に賭けなさい。偉大なことに賭けなさい。わたしたちキリスト者は小さなことのために主から選ばれたわけではないのです。いつも、もっと向こうへ、偉大なことに向かって行きなさい。青年たちよ、偉大な理想のために人生を賭けに出しなさい!(拍手が沸き起こる)

 神の新しさ、人生の苦難、主におけるゆるぎなさ。愛する友達の皆さん、わたしたちの人生の扉を左右いっぱいに開いて聖霊がわたしたちに下さる神の新しさを迎え入れましょう。そうして聖霊がわたしたちを造り変え、わたしたちを苦難において力づけ、主との一致ををさらに強いものとし、わたしたちが主においてゆるぎなく留まることができるようにしてくださいますように。これこそが、本当の喜びなのです。なれかし(アーメン)。(拍手)
(スペイン語訳:バチカン・ラジオ、マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ)

Hacia el final de la celebración, dos jóvenes que recibieron la Confirmación de manos del Papa, un español y una italiana, dirigieron su saludo a Francisco. Escuchemos lo que dijo Santiago: 

27日、朝ミサ説教:信仰は、いつでも広まっていく


朗読個所 :  使徒言行録13・44-52
          ヨハネ14・7-14:http://blogs.yahoo.co.jp/therese1897/31863590.html?type=folderlist


4月27日、バチカンラジオ
 キリスト者の共同体は 主に開かれ、喜びに開かれ、ポジティブな証しに開かれていなければならない。もしある共同体が自由でないならば、本当の信仰共同体ではない。自分自身に閉じこもり、ネガティブな力で支配されてしまう。教皇はこのことを、聖マルタの家の小聖堂で27日土曜日の朝ささげられたミサの説教の中で強調した。そこにはバチカンの郵便局の職員たちや『聖マルタ』小児科医院のボランティアグループも列席していた。

 共同司式には、シリアの教皇大使であるマリオ・ゼナーリ大司教や、クロアチアのポレツ・イ・プラ司教であるドゥラジェン・クトレシャ卿も見受けられた。

 「その(ネガティブな力で支配された)共同体生活は、真理を守ろうとしていると思いこんでいるのですが、その真理を守るための生き方というのは、中傷やうわさ話にあります。うわさ好きの共同体です。他人の考えと逆のことを話し、他の人を格下げします。その反対に、自由な共同体、神の自由や聖霊の自由をもった共同体は、迫害においても前進し続けたものです。そして主の言葉は全地域に広まっていきました。

 前進していく、広まっていく、というのは主の共同体に独自のものです。善というのはそういうものです。いつも広まっていく。この教会の判断基準をもって、良心の糾明のうちに尋ねましょう。「わたしたちの共同体はどうなっているだろうか?所属修道会は?所属している小教区は?神の言葉を広めるようにと後押しする聖霊に対して開かれているだろうか、それとも閉ざされていて、主がファリサイ派の人に言われたように信者の肩にあまりに多くの決まりごとを担わせていないだろうか?」

(スペイン語訳、報告:マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ)

26日、朝ミサ説教:信仰の道は現実逃避ではなく天国の美への準備

朗読個所:   使徒言行録13・26-33
           ヨハネ14・1-6
http://blogs.yahoo.co.jp/therese1897/31858674.html?type=folderlist



バチカン、4月26日9時32分(ACI/EWTNニュース)

 信仰の道は、現実逃避ではなく全ての人が招かれている決定的な目的地である天国の美しさへの日々の準備であると、教皇フランシスコは今朝の聖マルタの家で捧げられたミサの説教において説明した。

 バチカンの活版印刷の従業員や使徒座労働事務所の従業員、国境警備隊のメンバーを前にした聖体祭儀において、フランシスコは今日の福音で弟子たちに言っている「心を騒がせるな」というイエスのフレーズについてコメントした。「

 教皇は続いて、場所を用意するということは、「すぐに来ようとしているもの、」と解説した。

 「」。



 「

 しかし「そうした考えは現実逃避だ、人生というのはこれだ、具体的で、その先にあるものなど分るはずがない」という人もいる。「」。

 最後に教皇は確言した。「」




『バチカンニュース』の記事

教皇フランシスコはその説教をヨハネの福音朗読個所を中心に進めた(ヨハネ14章1―6節)。「「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

 教皇のコメント:「このイエスの言葉はとても美しい言葉です。別れの時でしたが、イエスはその弟子たちに、まさに心の底から語ります。弟子たちが、物事がうまくいっていないことに気づいて悲しんでいるのを知っていました」。そこで、イエスは彼らを励まし、盛り上げ、落ち着かせ、希望の地平を提案します。「『心を騒がせるな』、そう話し始めるにあたり、友としてですが、牧者の態度をも示しながら語りかけます。言わば、イエスのこの言葉の奏でるメロディーこそ、牧者の態度といえるでしょう。どのように羊飼いがその羊たちに対して振舞うかが分ります。『心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい』」。

 こうした言葉を、聖ヨハネの福音の語りに従って発するにあたり教皇はこう言った。「何について語り始めるのでしょう?天国についてです。決定的なみ国です。『わたしをも信じなさい、わたしは忠実です』とでも言っているかのようです」。そして譬を用いながら行った。「まるで技師や建築士のように 何をしなければならないかを語ります。『(わたしは)あなたがたのために場所を用意しに行く。わたしの父の家には住む所がたくさんある』と。そしてイエスはその場所を用意しに行きます」。

 教皇フランシスコは自問した。「この準備とはどのようなものでしょうか?どう実現するのでしょうか?その場所とはどのような場所でしょうか?場所を用意するとは、どういうことでしょう?高い所に部屋を借りるということでしょうか?」。場所を用意するというのは、「わたしたちの、わたしたちを待つあのもの、わたしたちが目指して歩いているその国の美しさを喜び、見、感じ、理解する可能性、わたしたちの可能性を楽しむことができる許容力を用意することにあります」。

 「そしてキリスト者の人生全体は、イエスの働き、聖霊の働きですが、それはわたしたちのために場所を用意するための働き、わたしたちの目を見るために、わたしたち の耳を聞くために用意するための働きです。」。「『でも神父さん、わたしはよく見えます!眼鏡は必要じゃないんですが』。けれど、ここでは他の眼差しについて扱われています。網膜の病気をもった人について考えてみましょう。手術をしなければならないことになっているとして。彼らは見ることは見ますが、手術の後、どのように言うでしょう?『こんなふうに見ることができるとは考えたこともなかった、メガネがないのに、こんなにも綺麗に見えるとは』。わたしたちの目、わたしたちの魂は必要としている、わたしたちの魂に必要なことは、イエスの素晴らしいみ顔をしみじみと眺めるために用意されてある、という状態です』。つまり、『美しい出来事や美しい言葉を聞くために耳を準備する」ということです。「そして何よりも、心を準備するため、愛するために、さらに愛するために心を準備することです」。

 教皇は説明した。「人生の歩みにおいて、主はいつも、試練をもって、慰めをもって、苦難をもって、よい出来事をもってこのことをしてくださいます。人生の旅路すべては準備の道なのです。時には主は、この準備を急いでしなければならないこともあります。あのよい方の強盗(イエスと同じ時に十字架に架けられた一人)に対してなさったようにです。用意のために、ほんの数分しかありませんでしたが、これを成し遂げられましたよね。けれど、普通の生活では、他の仕方ですよね?心も、目も、耳も、主に少しずつ準備してもらうのです、そのみ国にたどり着くことができるように、そのわたしたちの国にたどり着くことができるように少しずつ。

 教皇フランシスコはわたしたちの人生、信仰の道のこの基本的なことへの視点を、永遠の局面を認めない人の妨げによって失うことへの警告をした。 「『でも神父さん、わたしは哲学者のところに行きました。そうしたらこうした考えは現実逃避だと、わたしたちは現実逃避をしているのだと言われましたよ。わたしたちの人生はこれ、この具体的なもので、その向こう側に何があるかなど分るはずがない、と』。このように考える人もいます。けれどイエスは、わたしたちに、そうではない、と言います。『わたしをも信じなさい。あなたに言っていることは本当ですよ。わたしは罠にかけているわけではありませんよ、わたしはあなたをだましませんよ』と。聖パウロが今日の第一朗読で言っているように、アブラハムの子孫であるわたしたちは、み国に向かう道にいるのです(使徒13章26-33節)」。

 教皇は確言した。「そしてアブラハムの時代から、わたしたちは、決定的なみ国の約束を信じて歩みを進めているのです。もしヘブライ人への手紙を読むと、わたしたちの先祖、わたしたちの父祖たち、み国に向かうこの道を作り、遠くからそのみ国を眺めていた人々について、美しい描写を見出すことができます。天国のために自分を準備するということは、遠くから神を見つめ、挨拶をし始めることです」。そして「これは現実逃避ではありません。これは真理です。 それが、イエスに、あんなにも偉大な美しさのためにわたしたちの心を用意してもらう、ということなのです。これは美の道です。これは天国への帰還の道でもあります」。

 教皇は次のように望んで説教を結んだ。「神さまがわたしたちにこの強い希望を賜りますように」、また「わたしたちに遠くからみ国を見つめる勇気をも与えてくださいますように」。と、そして最後に「神さまがわたしたちに希望、勇気、謙虚さをたまわり、主がわたしたちの心、目、耳にその決定的な住む場所を用意するその働きに委ねることができますように!」

2013年4月26日金曜日

4月25日、朝ミサ説教:『征服』の精神抜きで福音を宣べ伝える

朗読個所:    一ペトロ5・5b-14
          マルコ16・15-20
http://blogs.yahoo.co.jp/therese1897/31852735.html?type=folderlist




バチカン、4月25日10時15分(ACI/EWTNニュース)
 今朝、 聖マルタの家でミサを捧げるにあたり、教皇フランシスコは教会の使命とはつねにへりくだった姿勢を保ちながら、大きなことに恐れず全世界に福音を告げることである、と指摘した。

 このように教皇は聖マルコの祝日の、司教のためのシノドス秘書部のメンバー数人と共にささげられたミサの中で教皇は指摘した。

 今日のイエスの昇天を語る聖書個所について考えを述べながら、教皇は、主は天に上る前に、使徒たちに「世の果てに至るまで、エルサレムやガリレアでだけではなく」福音を告げるようにと命令していると言った。

 「地平は広く広がっており、一目瞭然なように、これがこの宣布をもって前進していく教会の宣教の使命の特徴なのです。全てのものに、全世界に、と。けれど勝手に前進するわけではありません。イエスと共に行くのです。主が福音を宣べ伝える者と共に働くのです」。

 教皇は「これこそがキリスト者が持たなければならない心の広さです。意気地のないキリスト者にはこれが理解できません。これはキリスト者の召命に独特のものです。この心の広さ、というものは。いつももっと、いつもさらに、いつも前進していく心の広さです」と教皇は際立たせた。

 教皇は、宣教のキリスト者的スタイルを定義するペトロの第一の手紙についても触れた。「へりくだり、奉仕、愛徳、兄弟愛、等々。「けれど、主よ、世を勝ち得なければならないのではありませんか!」と言う人もいます。この「勝ち得る(征服する)」という単語がよくありません。世に告げ知らさなければならないのです。キリスト者には、戦争に勝つとすべて奪っていくような兵隊のようになるなどあってはならないのです」。

 「キリスト者は福音を告げ知らせます。言葉よりも、その証しをもって告げます。二つの心構え、つまり大きなことや壮大な地平に向かって歩くこと驚かない満ち満ちたやる気と、小さいことに気配りのできるへりくだり、この二つの心構えをもって告げ知らせます」。

 最後に教皇は「教会の勝利はイエスの復活です。けれどその前にまず十字架があります。今日、わたしたちを主が教会の宣教師にしてくださるように、教会の使徒に、しかし大いなる心の広さと大いなるへりくだりというこの精神を持った使徒にしてくださるように願いましょう。なれかし」。

教皇、44人の青年に堅信の秘跡を授ける予定

バチカン、4月25日12時25分(ACI/EWTNニュース)

 この水曜日に、ローマ聖庁は「教皇フランシスコは五大陸の全教会を象徴的に代表する全世界からの44人に堅信の秘跡を授けます」 との情報を流した。

 この宣言は、4月27日と28日に催される、「堅信の準備をしている青年の日」と5月3日と5日に催される「民間信仰と信心会の日」の紹介の際になされた。両イベントは信仰年のイベントの一つとしてベネディクト16世によって呼びかけられたものである。

  紹介の間、新しい宣教の推進のための聖座顧問会長であるリノ・フィズィケッラ卿は、教皇の臨席でローマで催されることになっている両イベントの共通の目的は「ペトロの墓所への巡礼を目的としたものです。ですから、イベントの前日には象徴的な巡礼が、サン・ピエトロ広場の方尖柱(オベリスク)から使徒の墓まであり、そこで信仰宣言を唱えます」と説明した。

 最初のイベントにはすでに七万人の青年がその要理担当者や司祭たちと共に参加申し込みをしている。 この参加希望者の存在は「ここに加わって来た際のイニシアティブの熱意と期待されるべき大規模な参加の姿勢の証拠となります」と確言した。

 「彼らは、人々が生活し、苦しんでいる場所で未来の希望と安全をすべての人に与えようとする、共にある教会の顔つきを示す若者です。けれど青年層だけではありません。すでに年齢層は一律ではありません。堅信の秘跡の準備をしている人には、11歳の子どもから55歳の方々までいるのです」と司教は言った。

 二つ目のイベントに関しては、およそ5万人の参加が見込まれると伝えた。「イベントの頂点は、サン・ピエトロ広場で日曜日の10時に教皇によって捧げられるミサになるでしょう」とフィズィケッラ卿は述べた。

 「前の世代の信仰の思い出として、また勇気と熱意をもって確証しなければならない伝統としてこうしたしるしを、横からの干渉なく生きるわたしたちの人々により深く根ざした形の民間信仰や表現のシンプルさの中に見出される信仰を生きる時となるでしょう」と司教は確言した。

情報グラフ:教皇フランシスコの人生の歩み

2013年3月13日に、イエズス会士のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿が、教会の第266代教皇として選ばれた。初のラテンアメリカ人教皇は、1936年12月17日に、アルゼンチンのブエノスアイレスに生まれた。選出された時には、ブエノス・アイレスの大司教であった。このグラフで、その人生の歩みの大まかな歩みが一瞥できる。

2013年4月24日水曜日

4月24日一般謁見:タレントを地中に埋めないで!

(この日の朝ミサの朗読個所:   使徒言行録12・24~13・5a
          ヨハネ12・44-50
http://blogs.yahoo.co.jp/therese1897/31847301.html?type=folderlist



バチカン4月24日(バチカンラジオ)

4月24日水曜日の要理の時間に、サンピエトロ広場に集まった8万人以上の巡礼者を前に、ローマ司教は信仰宣言で告白される真理のひとつの神秘に入 るのを助ける、三つの福音書の個所について考えを巡らせた。そこではイエスは「改めて生きるものと死せるものを裁くために栄光に満ちてこられる」とある。

  この枠内で、フランシスコは待つ時というのは、最終的な来臨の前にイエスが下さる時間であると表明した。若者について語りながら、彼らにこう言った。「そ のタレントを地中に埋めないでください!人生というのは自分自身のために保存されるためにあるわけではないのです。差し出すためにあるのです」。

  「最後の審判のたとえの中で、主の再臨が描かれ、愛徳において裁かれるであろうと警告がなされています。つまり、他者、特により助けを必要としている人を どれだけ愛したかによってこれがなされると描写しています」と確言した。そして「望まれていることというのは、出会いのために準備してあることです。つま り、その現存のしるしを見る能力であったり、祈りと秘跡によって信仰を活き活きと保つことであったり、神を忘れないために眠ってしまわないようにするため に目覚めていようとすることであったりします」。「この今の時に、神がわたしたちのためにあわれみと忍耐をもってささげ、そうして日増しに貧しい人々の中 に主を認めることを学ぶ」ように警告しています。そして全ての人が「神があわれみと忍耐をもってささげる今ということの時を生き、日々貧しい人々の中にイ エスを見出すことを学ぶように」と招いた。
(イエズス会士ギリェルモ・オルティス訳)

正式には、中央協議会の翻訳をどうぞ→http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/francis/msg0020.htm

「バチカン放送局」(日本語ページ)2013-04-24 19:02:09の記事↓

「自分に閉じこもらず、神から与えられたものを奉仕に用いよう」教皇、一般謁見で



教皇フランシスコは、バチカンで24日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は使徒信条の考察を続けながら、この日は「主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます」という部分を取り上げられた。

そして、マタイ福音書中の「十人のおとめ」のたとえ、「タラントン」のたとえ、そして「最後の審判」についてのイエスの説教の3ヶ所を引用しつつ、キリストの再臨と最後の審判を、「今」を生きる自分たちの信仰生活の中から見つめるよう招かれた。

教皇のカテケーシスは以下のとおり。


********

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

使 徒信条の中で、わたしたちは「主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます」と宣言します。人類の歴史は男と女が神の姿に似るも のとして創造されたことに始まり、キリストの最後の審判で終わります。歴史のこの両極は忘れられていることが多く、特にキリストの再臨と最後の審判につい ては、キリスト者にとってよくわからずあいまいなものとなっていることもしばしばです。

イエスは公生活の間、よくご自身の最後の到来につ いて言及されました。今日は、イエスが「時の終わり」について語るマタイ福音書の3つの箇所、「十人のおとめ」のたとえ、「タラントン」のたとえ、そして 「最後の審判」についての説教に耳をよく傾けることで、この神秘に触れてみたいと思います。

まず、キリストの昇天を思い出しましょう。神 の御子は彼自身がその身に負われたわたしたちの人性を御父のもとにもたらしました。そして歴史の終わりにすべての現実が御父のもとに託される時まで、すべ ての人々・世界を自分に引き寄せながら、神の開かれた腕の中に導くことを望まれました。しかし、キリストの最初の降臨から最後の再臨までの間のこの時間を わたしたちは今、生きているのです。

「十人のおとめ」のたとえ(マタイ25,1-13)は、この「今の時間」を背景に語られています。 それはこういう話です。十人のおとめが花婿の到着を待っていますが、そのうちの愚かなおとめたちは眠り込んでしまいました。花婿が間もなく着くとの突然の 知らせに、皆は迎え出る準備をしますが、五人の賢いおとめたちはともし火のための油を用意していたのに対し、愚かな五人は油の用意がなかったために火のつ いていないランプを抱えることになりました。愚かなおとめたちが油を買いに行っている間に花婿は到着し、彼女たちは婚宴の席に入るための扉を閉ざされてし まいます。彼女たちは扉を何度もたたきますが、すでに遅すぎました。花婿はこう答えます。「わたしはお前たちを知らない」。

花婿とは主で す。そして花婿の到着を持つ時間とは、主がその再臨の前に、わたしたちに憐れみと忍耐をもって与えられた時間なのです。それは目覚めているための時間で す。信仰と希望と愛のともし火を保っているべき時間、善と美と真理に心を開いているべき時間です。キリストの再臨がいつなのかわたしたちは知らないゆえ に、神の御心に従って生きるべき時なのです。

わたしたちが命じられたことは、出会いのための準備、イエスとの出会いという素晴らしい邂逅 のために準備していなさい、ということです。それは、イエスの現存のしるしを見出し、祈りや秘跡を通して信仰を生き生きと保ち、神を忘れないために眠り込 まずに目覚めているということを意味します。眠り込んでしまったキリスト者の人生は悲しいものです。それは幸せな人生ではありません。キリスト者はイエス の喜びのもとに、幸福でなくてはなりません。眠り込んではなりません!

2番目のたとえは「タラントン」の話(マタイ25,14-30)です。これは、わたしたちが神から受け取った賜物をどのように使うかということと、主が戻ってこられ、わたしたちにそれをどのように使ったかを尋ねられる時との関係を考えさせます。
こ のたとえはわたしたちがよく知っているとおりです。主人は旅に出る前にすべてのしもべたちに何タラントンかのお金を預け、彼の留守中にそれを有効に使うよ うにさせました。最初のしもべには5タラントン、2番目のしもべには2タラントン、そして3番目には1タラントンを与えました。主人の留守中に最初の2人 は彼らのタラントン-古代の通貨のことですが-、これを増やしました。これに対し、3番目のしもべは自分のタラントンを地面に隠し、主人にそのまま渡しま した。

帰った主人はしもべたちの働きを評定します。最初の2人を褒め、3番目のしもべを外の暗闇に追い出します。なぜなら彼は恐れのため にタラントン(=タレント)を隠し、自分の中に閉じこもっていたからです。キリスト者が自分の中に閉じこもり、主が与えられたものをすべて隠してしま う、…これはキリスト者ではありません。神から与えられたすべてに感謝しないのは、キリスト者ではありません。

このたとえは、主の再臨を 待つ時間は、行動の時間であることをわたしたちに教えています。わたしたちは行動の時にあるのです。神からの賜物をわたしたちのためではなく、神のため、 教会のために実らせる時です。世界により多くの善を育てるよう努力する時です。特にこの今日の危機にあって、自分の中に閉じこもらないことが大切です。主 がわたしたちに与えてくださったすべてのもの、自分の才能、精神的・知的・物的豊かさを埋もれさせず、自分を開き、他の人々に関心を持ち、連帯することが 必要です。

この広場に多くの若者を見ました。そうでしょう?大勢の若者たち、どこにいますか?人生の歩みを始めた皆さんに聞きます。神様 が皆さんに与えた才能について考えたことがありますか?どうしたら他の人たちに奉仕できるか、考えたことがありますか?才能を埋もれさせてはいけません。 大きな理想、心を広げさせ、あなたたちの才能を豊かに実らせる奉仕の理想に賭けてください。人生は、自分の中にそれを大事にしまっておくために与えられた のではありません。それは与えるために、与えられたのです。親愛なる若者たち、大きな心を持ってください。偉大なことを夢見るのを恐れないでください。

終わりに「最後の審判」についての箇所 (マタイ25,31-46) を考察しましょう。
こ こには主の再臨が書かれています。その時、主は、すべての人間、生者と死者を裁かれます。ここで福音書記者が用いているのは、牧者が羊と山羊とを分けるイ メージです。右には、神の御旨に従って行動した人たち、飢え渇いた人、異邦人、着る物のない人、病気の人、囚人たちを助けた人たちが置かれます。異邦人と 言いましたが、このローマ教区にもいる多くの外国人たちのことを思います。彼らのためにわたしたちは何ができるでしょうか。この一方で、隣人に手を差し伸 べなかった人たちが、左に置かれます。

これは、わたしたちが愛について神から裁かれるだろうということを言っているのです。わたしたちが どのように兄弟たちを、特に弱く貧しい人たちを愛したかということです。もちろん、わたしたちは恵みによって、神の先立つ無償の愛の行為によって、義とさ れ、救われたということを忘れてはなりません。自分たちだけではわたしたちは何もできないのです。

信仰は何よりもわたしたちが受け取った 賜物です。しかし、それが実りをもたらすために、神の恵みは、常にわたしたちが神ご自身に向かって開くことと、わたしたちの自由で具体的な答えを要求しま す。キリストは神の救いの憐れみをわたしたちに伝えてくださいました。そして、ご自分に信頼し、その愛の贈り物にふさわしい、信仰と愛に動かされた行いか らなる、良い人生をわたしたちに願われました。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、最後の審判を見ることは、わたしたちにとって決して恐ろしいこ とではありません。それはむしろ、今この時をより良く生きるように促してくれるのです。神は、わたしたちが毎日、貧しい人や小さき人々の中に神ご自身を見 出し、善のために働き、祈りと愛のうちに目覚めているようにと、憐れみと忍耐をもってこの時をわたしたちに与えられました。わたしたちの人生と歴史の終わ りに、主がわたしたちを良い忠実なしもべとして認めてくださいますように。

(バチカン放送局さんのもとのページhttp://ja.radiovaticana.va/news/2013/04/24/%E3%80%8C%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AB%E9%96%89%E3%81%98%E3%81%93%E3%82%82%E3%82%89%E3%81%9A%E3%80%81%E7%A5%9E%E3%81%8B%E3%82%89%E4%B8%8E%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%AE%E3%82%92%E5%A5%89%E4%BB%95%E3%81%AB%E7%94%A8%E3%81%84%E3%82%88%E3%81%86%E3%80%8D%E6%95%99%E7%9A%87%E3%80%81%E4%B8%80%E8%88%AC%E8%AC%81%E8%A6%8B%E3%81%A7/gia-686145

4月19日、朝ミサ説教:教会が道徳主義やイデオロギーから解放されるように

朗読個所:    使徒言行録9・31-42
           ヨハネ6・60-69
http://blogs.yahoo.co.jp/therese1897/31818873.html?type=folderlist

バチカン、4月20日(バチカンラジオ)

 神の言葉は謙虚に聞かなければならない、なぜならそれは愛の言葉だからである。そしてそのように心に入り、人生を変える。これは教皇フランシスコが住んでいる聖マルタの家の小聖堂で4月19日金曜日の朝ささげたミサの間の彼の説教のまとめである。この機会に、バチカン活版印刷所とローマ聖庁新聞社ロッセルヴァトーレ・ロマーノの従業員が参列した。

 聖パウロの回心とカファルナウムのシナゴーグ(会堂)でのイエスの演説が、今日の 聖書朗読個所である。教皇はその説教の中で、語るイエスの姿に焦点を当てた。自分を迫害するサウロに語り、サウロを迎えるようにと呼びかけてアナニアに語 り、律法学者たちにも語り、彼らにはもし自分の肉を食べその血を飲まなければ救われることはない、と言っている。

  教皇が確言するところによれば、イエスの声は、「わたしたちの頭を通って心に向かいます。なぜならイエスはわたしたちの回心を求めているからです」。パウ ロとアナニアは当惑しながら、しかし開かれた心で答えます。律法学者たちは違う仕方で答えます。自分たちの間で議論をし、イエスの言葉に厳しく口答えをし ます。

 「パウロとアナニアは救いの歴史に足跡を残した偉大な人々、たとえばエレミヤやイザヤといった人のように答えま す。 モーセにもそれなりの困難がありました。「しかし、主よ、わたしはどう話したらいいか分りません。「エジプト人たちにこのことをどう言いに行けばいいので しょうか?」と。そしてマリアは、「けれども主よ、わたしは結婚していません(男の人を知りませんのに)!」と答えます。これは心で神の言葉を受け入れる 人の謙虚な答えです。一方、教師たち(律法学者)は頭だけで答えます。神の言葉が心に向けられていることを知らないのです。回心とは何かを知らないので す」。

 教皇は同様にして、どういう人が頭だけで応えるかについて説明した。
 「偉い理論家(イデオローグ)はそうです。イエスの言葉は心に向けられます。なぜならそれは愛の言葉だからです。美しく、愛に導き、わたしたちが愛するようにする言葉だから です。この人たちは愛の道を断ち切ります、理論家(イデオローグ)たちというのは。美の道にも同様にします。そして自分たちの間で粗っぽく議論をし始めま した。『こいつはどうやって自分の肉を俺たちに食べさせようと言うのか?』頭でっかちはみんなこうやって問題になる!そして教会にイデオロギーが入ると、 イデオロギーが福音の知性に入り込むと、何も理解できなくなるのです」。

 それは、「義務の道」だけを通って歩む人々であると言った。それは道徳主義と呼ばれ、福音について頭で理解できることだけを実現しようとする人である。その人たちは「回心の道、イエスがわたしたちを導くその回心の道」にはいない。

  「そしてこうした人たちは、義務の道を行き、あらゆることを信者の背中に担がせます。理論家は福音を曲げています。あらゆる理論的な解釈は、それがどこか ら来ようとも関係なく、ある意味、福音を曲げているのです。そしてこうした理論家たちは、教会の歴史においてみてきましたが、存在することをやめてしまい ます。タレントのない頭でっかちに姿を変えます。善意のない倫理主義者に姿を変えます。そして美については言うまでもありません。何も理解できないのです から」。

 教皇フランシスコは結びに際しこう言った。「一方、愛の道、福音の道はシンプルです。それは聖人たちが理解をしてきた道です」。

 「聖人たちというのは、教会を前に引っ張っていく人々です。 回心の道、謙遜の道、愛の道、心の道、美の道です……。今日、教会のために主に祈りましょう。主があらゆる理論的解釈から解放し、教会の心を、わたしたちの母である教会の心を、シンプルな福音に対して、愛についてわたしたちに語り、愛に導き、とても美しい純粋なその福音に対して開かせますように。そしてわたしたちを美しくしますように、聖性の美しさでわたしたちを美しくしますように。今日、教会のために祈りましょう!

(マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ – バチカンラジオ職員によるスペイン語訳).

4月23日、自分の霊名日の朝ミサ:教会はますます母として育つ。その母こそがイエスを差し出す。

朗読個所:   使徒言行録11・19-26
          ヨハネ1-・22-30
http://blogs.yahoo.co.jp/therese1897/31841675.html?type=folderlist


バチカン、4月23日10時20分(ACI/EWTNニュース)

 自分の霊名である聖ゲオルギオス(=ジェオルジオ、ホルヘ〔西〕、ジョージ〔英〕、ゲオルグ〔独〕) の祝日のミサを捧げるにあたり(その名はホルヘ・マリオ・ベルゴリオですから)、「教会の外でイエスと出会うということは、不可能です」と指摘した。

 バチカンのパウリーナ小聖堂でローマに住む枢機卿たちと共に捧げられたミサの中で、教皇は参列者に感謝をのべ、その説教は次の三点を中心に繰り広げられた。すなわち、初期キリスト教徒の福音化への熱意、信仰の母である教会、そして宣教師の喜びの三点である。


説教全文 (Vatican.vaのスペイン語版からの翻訳)

 敬愛すべき代理枢機卿、お言葉、ありがとうございます。どうもありがとう、枢機卿様、ありがとうございます。

 また皆さんにも、今日こうしてこのミサに来てくださって、ありがとうございます。みなさんから歓迎されていることをすごく感じます。ありがとう。皆さんといると居心地がいいです。こういう感じが好きです。

 今日の第一朗読を読むと、迫害が勃発し、教会の宣教活動も目立つまさにその時のことを考えさせられます。あのキリスト者たちはフェニキア、キプロス、アンティオキアまで到達し、み言葉を告げ知らせていたのです(使徒11章19節)。心の内にこの使徒的熱意をたたえていました。このようにして信仰というのは広まって来たのです。キプロスやキレネの出身の者の中には、この人たちではなく、他のキリスト者となった人たちなのですが、アンティオキアに着くなり、ギリシャ人たちにも話し始めた人もいました(使徒11章20節)。さらなる一歩です。そして教会というのはこのように前進し続けます。「ユダヤ人にしか告げ知らされていなかったのですから、何を言っているか分らないようなことをギリシャ人たちに語ろうというこのイニシアティブは、誰から得られたものなのでしょうか?それは、聖霊からのものです。あのさらに、もっと、常により前に、と後押ししていたお方です。けれどもエルサレムには、これを聞くと、少し神経質になった人もいました。そうしていわゆる『使徒的訪問の使節』を送りました。バルナバを送ったのです(使徒11章22節)。おそらくユーモアのセンスをもって言えば、バルナバの訪問は、教理省の神学的始まりとも言えるでしょう()。バルナバは物事がうまくいっているのを見ました(使徒11章23節)。このように、教会は母なのです。もっと多くなってきた息子たちの母、さらにずっと多くなってきた息子たちの母です。母になっていきます。ますます母らしくなります。信仰をわたしたちに与える母です。わたしたちにアイデンティティを与える母です。けれども教会のアイデンティティは、IDカード(身分証明書)ではありません。キリスト者の アイデンティティは、教会に属するということにあります。なぜならあの頃の人々は皆教会に属していたからです。母である教会に属していたのです。なぜな ら、教会の外では、イエスに会えないからです。偉大な教皇パウロ6世はこう言っていました。教会なしでイエスと生きたいと望むこと、教会の外でイエスに従いたいと望むこと、教会なしでイエスを愛したいと望むというのは、不条理な二分法だ、と(使徒的勧告『福音宣教』16参照)。そしてわたしたちにイエスを下さる母なる教会がわたしたちにアイデンティティをもたらすのです。それはただの印鑑ではなく、属することそのもの なのです。アイデンティティとは属性のことです。教会に属すること、これはなんと美しいことでしょう!

 わたしの頭に浮かぶ三つ目のアイデアは―― つまり一つ目は、宣教の前進が始まったこと、二つ目は、母なる教会ですが ――、バルナバがあの群衆を見た時―― テキストは「こうして、多くの人が主へと導かれた」と言っています(使徒11章24節)――、あの群衆を見て、喜びました。「バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜」んだのです(使徒11章23節)。それは福音宣教者に特有の歓喜です。それは、パウロ6世が言っていた、「福音宣教のスイートで(甘みを感じさせ)満足感をもたらす喜び」なのです(『福音宣教』80、訳者注:原文最後の段落参照。中央協議会の翻訳では「福音宣教の喜び」としか訳出されていません)。そしてこの喜びは、迫害と共に、大いなる悲しみと共に始まり、喜びをもって終わります。そのように、教会は前進し続けるのです。ある聖人が、今誰だったか覚えていませんが、言っています。「世の迫害と主の慰めのはざまでと(アウグスティヌス『神の国』18、51、2:PL41、614参照)。教会のいのちとはそのようなものです。もしマカバイのように、世俗的な道を少し行こうとして、世との取引をしながら行こうと望むなら、主の慰めを得ることは決してないでしょう。もし慰めだけを求めるならば、それは表面的な慰安に過ぎず、主からの慰めではありません。それは人間的慰めなのです。教会は、いつも十字架と復活の間、迫害と主の慰めの間にあります。そしてこれこそが道なのです。この道を行く人は誤ることがありません。

 今日、教会の宣教活動の推進力について考えましょう。自分自身の殻から抜け出して福音を告げに出て行った弟子たちの中には、ギリシャ人に対して宣教するとい う、当時にしてみればスキャンダルに近かったことをする勇気を持つ者までいました(使徒11章19-20節)。この育ちゆく母なる教会のことを考えましょう。自らが信仰のアイデンティ ティーを与えている新しい息子たちと共に育ってゆく母なる教会です。なぜなら教会なしでイエスを信じることはできないからです。イエス自身も福音において述べています。「しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである」(ヨハネ10章26節)というように。もしわたしたちが「イエスの羊」でないならば、信仰は届きません。その信仰は、バラの花びらエキスのような信仰で、実体がないのです。そこでバルナバが体験した慰めについて考えましょう。それはまさに「福音宣教者のスイートで満足感をもたらす喜び」です。そして主に、その単刀直入な語り、わたしたち全員が、兄弟として、前進し続けるようにわたしたちを押し出す使徒的熱意を求めましょう。前へと!聖イグナシオが言っていたように、位階的であり、普遍的(カトリック)である、聖なる母なる教会のふところにおいて、イエスの名を運びながら、前進しましょう!なれかし(アーメン)。

教皇、東方教会の二人の主教のために祈る

バチカン、4月23日9時57分
Los obispos secuestrados en Siria
シリアで誘拐された二人の主教

 教皇フランシスコは憂慮を保ちつつ、シリアのアレポの町(アンティオキアの歴史的中心地につけたムスリムの名)で誘拐された東方教会の二人の主教のために祈りをささげている。同時に4か月前に誘拐された二人の司祭の解放も求めていた。

 アレポとアレクサンドリアの大主教であるブロス・ヤズィヒ師とアレポの東方シリア大主教であるユハンナ・イブラヒム師はトルコとの国境近くの村を車で運転中に武装グループによって昨日誘拐された。

 武装した人々は彼らに車から降りるように強制し、運転手ともう一人の司祭を殺害した。

 ローマ聖庁の会見室長であるフェデリコ・ロンバルディ神父によって今日知らされた宣言において、「人道的宣教を実現していた矢先」の二人の大主教の誘拐と運転手の死であり、「これはシリアの民とそこにいるキリスト者共同体が直面する悲劇の状況を劇的に確認させる出来事でした」と指摘している。

 「教皇フランシスコは、この、大きな比率の人道の危機を前にして示され、日ごとに激しくなっているここ数日の暴力に関する新しい出来事の情報を得て、誘拐された司教たちの身の安全と解放のための深く集中力の高い祈りを求めています」

 文面によれば、教皇はさらに「全ての人の献身」を促す。「シリアの民が最終的に、この人道の危機に対して効果的な答えを見出し、平和と和解の地平に至る現実的な希望をもつことができますように」。

 レバノンテレビのチャンネルLBCへの宣言において、シリアリーグの会長であるハビブ・エフラムは、誘拐された二人の司教は、 4か月前に誘拐された二人の司祭を解放するための使命を果たそうとしていたことを強調した。

 「この司教たちがすぐに解放されるとの約束があります」とエフラムは加え、その国と地域からキリスト者が追い出されるのを防ぐためにこの手の事件に対して「毅然とした」姿勢を要求した。

 この二層になる誘拐を前に、ギリシャ政府は二人の司教を解放しようとする外交的接触を起動した。「外交官であるディミトリス・アヴラモプロスは、反政府活動家の頭取であるジョージ・サブラと通信した。彼は誘拐された二人がどこにいるかを突き止め、解放に至るために最善を尽くす約束をしました」とギリシャ政府のスポークスマンであるスィモス・ケディコグル氏の通達に見られる。

 さらに、「ディミトリス・アヴラモプロスは、司教たちの解放に貢献できる全近隣諸国と連絡を取り、シリアの情勢について議論される北大西洋条約機構の外交官のミーティングの間、今日、ブルセラスでこれについて情報を通すことになっています」と加えた。。

 キリスト者の数はシリアの人口の1割にも満たず、何年もの間イスラム過激派による迫害に苦しんできている。それは国内で生じている実際の対立の間さらに過酷なものとなってきており、キリスト教にとって歴史的なこの場所からキリスト教徒を一掃しようと脅かしている。

教皇、今日終生誓願宣立から40周年の記念日

バチカン、4月22日12時59分(ACI)

 バチカンの会見室長のフェデリコ・ロンバルディ神父の情報によれば、教皇フランシスコは、今日イエズス会における荘厳誓願を立てて40年を記念する。

 バチカンのスポークスマンは、自分にとって大切なこの日を、身近にいる人々と共に教皇は記念したと語った。

 4月22日というのは、イエズス会士にとっては毎年特別な日である。なぜならロヨラの聖イグナシオがその最初の仲間たちと共にローマにおいて、1542年に教皇パウロ3世によって新しい会となることの許可を得た後、聖パウロ大聖堂にある聖母像の前で、荘厳誓願を宣立した日だからである。

 そのためイエズス会士は、毎年4月22日に、 修道者としての養成の長い期間の締めくくりとして、その終生誓願を宣立するのである。フランシスコの場合は、1973年にこれを行ったと、バチカンラジオは伝える。

 先週、4月14日の主日に聖パウロ大聖堂にいた時、教皇は、イエズス会創立者であるロヨラの聖イグナシオがその誓願を立てた同じ聖母像の前に、しばらくの間立ち止まっていた。

2013年4月23日火曜日

教皇、聖体全国大会を機にコスタリカにメッセージを送る

バチカン、4月22日11時30分(ACI/EWTNニュース)
教皇フランシスコは「エウカリスティア:わたしたちの民のためのいのちのパン」というサブタイトルのもと、コスタリカで行われる聖体全国大会のスタッフと参加者に向けたメッセージを送った。

 教皇庁国務長官タルシシオ・ベルトーネ枢機卿のサインを得た連絡において、教皇は「賛美と感謝が新たにされた福音化の献身と教会の一致のための推進力となるキリスト者共同体の本当の中心を聖体祭儀としながら、その祈りの生活をもっと真剣に送るように」と信者たちを招いている。

 「祭壇の至聖なる秘跡から洗礼を受けたすべての人がわたしたちの主イエス・キリストのメッセージに基づいて、ますます正しく和解に満ちた世界を建設するための豊富な霊的力を汲むことができますように」と勧告した。

 「この気持で、教皇は天使たちの元后の愛に満ちたご加護に、コスタリカで父に向かって巡礼の旅を続ける牧者や信徒を委ねます。そして神のあふれんばかりの賜物のしるしとして、皆さんに愛を込めて、使徒的祝福を賜ります」とメッセージを結んだ。

教皇、中国の被災地のために祈る

バチカン放送局のこのサイトをどうぞ。↓
http://ja.radiovaticana.va/news/2013/04/22/%E6%95%99%E7%9A%87%E3%80%81%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%9C%B0%E9%9C%87%E8%A2%AB%E7%81%BD%E5%9C%B0%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB%E7%A5%88%E3%82%8B/gia-685442

同時に、ベネズエラのためにも祈りました。

 「ベネズエラで起きていることに、注意を払い続けています。真剣な心配、密度の高い祈り、国が通っている非常に困難な時を乗り越えるための正しく平和裏な道を探し、見出すようにとの希望をもって彼らに寄り添います。愛すべきベネズエラの民を、特に機構的、政治的責任者たちがあらゆる暴力を毅然として拒み、真理に根差し、相互理解のうちに、共通善の探求と愛国心のうちに対話を確立するようにと招きます。信者たちは、祈り、和解と平和のために働くようにと願います。ベネズエラへの希望に満ちて祈りましょう。コロモトのマリアさまの御手に委ねましょう。

 同時にわたしの想いを中国の南西部を襲った地震によって破壊された人々に向けます。犠牲者のため、またその激しい地震のために苦しんでいる人々のために祈りましょう」。 

4月22日朝ミサ説教:イエスこそ神の国に入るためのまことの扉

朗読個所:    使徒言行録11・1-18
           ヨハネ1-・1-10
http://blogs.yahoo.co.jp/therese1897/31835579.html?type=folderlist

 
バチカン、4月22日11時20分(ACI/EWTNニュース)
聖マルタの家の小聖堂で今朝祝われたミサ中の説教で、教皇フランシスコは神の国に入るための「真の扉」はイエスであることを確かに告げた。

 聖体祭儀にはローマ聖庁の会見事務室とバチカン放送局の職員が列席していた。

 教皇は、イエスは「扉を通って羊の囲いに入ることをしない人は牧者ではなく」むしろ「泥棒かごろつきです」ということを確認した。

 「同様に、そういう人がキリスト者の共同体にもいます。自分自身の利益を求めていて、意識的にか無意識的にか、扉を通るふりをしていて、実際は泥棒、という人です。なぜならそういう人はイエスの栄光を盗み、自分の栄光を求めるからです」と教皇は注意を促した。

 こうした人たちは、「まことの扉を通って来ませんでした。まことの扉はイエスであって、その扉を通って入らなければ、過ちを犯すのです」と指摘した。

 「どうすればわたしたちはイエスがまことの扉であると知ることができるのでしょう?」フランシスコは尋ね、聖マタイが語っているような真福八端(幸いへの道)をもって、「謙虚でありなさい、貧しくありなさい、柔和でありなさい、正しくありなさい」と答えました。

 教皇は真福八端の提案と異なる何かをするように提案してきたら、「相手にしない」ようにと注意した。

 「扉はいつもイエスで、その扉を通って入る人は、誤ることがありません。イエスは扉であるだけでなく、小道であり、道であるのです。多くの小道があります。他のよりも便利に見える小道もあります。けれどもそれらは欺瞞に満ちています。嘘つきなのです」と指摘した。

 教皇は「この扉でいつも呼びかける恵みを今日願いましょう。しばしば呼ぶための問題を抱えますが、しかしもっと簡単に見える他のものを探しに行かないようにしなさい」。

 
 「扉は、がっかりさせず、だましもしないイエスそのものです。わたしたちのために彼はいのちを渡しました。そして一人一人が言わなくてはなりません。『わたしに命を与えてくださったのですから、入れるように』」と言った。


 主よ、わたしに扉を開いて下さい。わたしは「そのほかの」扉ではなく、「この」扉を通って入りたいのです?

2013年4月21日日曜日

4月21日レジナ・チェリ:イエスがあなたに何を求めているかをイエスに尋ね、そして勇敢でありなさい!

4月21日(バチカンラジオ)

 この『よき牧者の主日』と呼ばれる日曜日の正午、フランシスコは教皇公邸書斎の窓から顔を出し、サン・ピエトロ広場にいた何十万もの信者や巡礼者と共にマリア祈祷のひとつ、レジナ・チェリ(アレルヤの祈り)を唱えた。



中央協議会からの訳はこちら→http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/francis/msg0019.htm

 
教皇の言葉のテキスト(謁見中のリアクション付き)

(訳者注:謁見の実況中継のビデオです。この4分35秒くらいから、教皇が若者たちに呼びかけ、彼らとの応答が繰り広げられるところは、見物です。その様子を、以下にト書き付きで表してみました)

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはよう!

  復活節第四主日は、よき牧者の福音が特徴です。毎年、聖ヨハネ福音書の10章にあるよき牧者の個所が読まれます。今日のお話では、イエスのこんな言葉が語 られます。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びる ことはなく、誰も彼らをわたしの手から奪うことはできない。彼らをわたしに下さった父は、あらゆるものより優れており、誰もわたしの父の手から何ものをも 奪うことができない。父と私とはたったひとつのものである」(10章27―30節、スペイン語からの翻訳)。この四つの節で、イエスのメッセージのすべて を見出すことができます。イエスの福音の中心的な核の部分があるのです。イエスは、自分の父との関わりに参与するようにとわたしたちを呼びます。そしてそ れが永遠の命なのです。

 イエスは、自分と父との間でのあの関係を反映するような関係を、自分の友人たちと打ち立て ようと望みます。その関係は、完全な信頼のうちに、密度の濃い一致のうちになされる、互いに相手のものとなる関係です。この深い理解、この友達関係を表現 するために、イエスは自分の羊たちと共にいる牧者のイメージを活用します。牧者は呼び、羊たちは牧者の声を認識し、呼びかけに応えて牧者について行きま す。この譬えは美しすぎますよね!声の神秘というのは魅力的です。わたしたちは自分の母親のおなかの中にいる時からその母の声や、あの父の声を認識するこ とを学びます。一声聞くだけで、その声色で、愛か侮蔑か、情愛か冷淡かを感じ取ります。イエスの声は独特ですよ!もしその声を聞き分けることができるよう になったら、イエスはいのちの道を通るようにわたしたちを導きます。その道は死の淵にも勝る道です。

 けれどもある ところに来てイエスは、その羊について語りながら言います。「彼らをわたしに下さった父は・・・」(ヨハネ10章29節)と。これはとても重要なもので す。深い神秘です。簡単には理解できないものです。もしわたしがイエスに魅かれるならば、もしイエスの声がわたしの心にぬくもりを与えてくれるなら、それ は父である神のおかげです。父である神はわたしの中に、愛や真理、いのち、美などを求める心を据えたのです。そしてイエスこそがそのあらゆる点において満 ち満ちているのです。このことは、召命の神秘、特に特別な修道奉献への呼びかけを理解する助けとなります。しばしばイエスはわたしたちを呼び、わたしたち についてくるようにと招きかけます。けれど恐らく、幼いサムエルに起こったようなことと全く同じように、それがイエスだと気付かない、ということも起こる でしょう。

今日、この広場には多くの若者がいます。たくさんいますよね。(拍手、口笛、応答の声)
見えますね~。たくさん、若者がいます。皆さんに訊いてみたい。
時々、望みや気になる感覚を通して、自分のもっと近くでついてくるようにと皆さ んを招く主の声を聞いたことがありますか?
(アドリブで)これを感じたことがありますか
(右手を耳にあてがって)よく聞こえませんよ。(広場から、『ありま~す!』の声)。
よし、よし。
イエスの使徒になりたいというやる気を持ったことがありますか?
(広場から、『はい!』「ありま~す」の声)
 
大きな理想のために若い時期を賭けに出す必要があります。このことを、考えたことがありますか
(広場から、『はい!』の声)
この意見に賛成ですか?
(広場から、『はい!』の声)

イエスがあなたに何を求めているかをイエスに尋ね、そして勇敢でありなさい!イエスに尋ねなさい。
どの司祭召命や奉献生活への召命でも、その前後には、必ず誰かの力強 く集中力の高い祈りがあります。お婆さんの祈りであったり、おじいさん、お母さん、お父さん、はたまた共同体の祈りかもしれません。だからこそイエスはこ う言ったのです。「刈り入れの主、つまり父である神に、収穫のために働き手を送ってくださるようにと願い求めなさい」(マタイ9章38節)。

  召命は祈りの中で、祈りから生まれ 、祈りにおいてのみ続けること、実りをもたらすことができるのです。わたしは今日、このことを強調したいと思います。今日は「世界召命祈願の日」ですか ら。今朝うれしいことにわたしが叙階の秘跡を授けたローマ教区の新しい司祭たちのために特別に祈りましょう。そしてマリアの取り次ぎを求めましょう。
(ページをめくって言葉がとまったタイミングで、新司祭を想って大きな拍手が上がる。)
この、10人の、イエスに『はい!』といった若者たちが、今朝、ついさっき叙階されたばかりなのですよ。これって、すばらしいです。
『はい』と言う返事の婦人であるマリア、マリアは「はい!」と言ったのです。彼女の取 り次ぎを求めましょう。マリアは自分の胎内にイエスを抱えていたときから、イエスの声を聞き分けることを学びました。マリアが、わたしたちの母が、人生の旅路を歩むために、 わたしたちが日々ますますイエスの声をよりよく聴き分け、その声に従うことができるよう助けてくださいますように。ありがとう。
(イタリア語からのスペイン語訳:Raúl Cabrera-RVをもとにアレンジ).

(広場から、『フランチェスコ、フランチェスコ!』と繰り返し声が上がる)
 挨拶をしてくれて、どうもありがとう!
でも、それよりもイエスに挨拶して下さいよ。
叫んでごらんなさい。
(こぶしを挙げながら)
「イエズス!イエズス!」と。力強く!
(広場から、「ジェズ、ジェズ」、「ジェーーーズ」との叫びがあがる)

共に、マリアさまに祈りを捧げましょう。
レジナ・チェリ・・・

4月21日叙階式ミサ説教:あわれみと優しさに満ちた、キリストの司祭、神の民と全人類の声となりなさい

朗読個所:    使徒言行録13・14、43-52
          黙示録7・9、14b-17
          ヨハネ10・27-30
http://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycleC/c_pasqua04sun.php#first

4月21日(バチカンラジオ)

 キリストと教会の名において、ローマ司教はその手で司祭叙階された新司祭団たちに、聖なる教義への奉仕を実践してはじめて唯一の師である主の使命に参与できるようになることを考慮するようにと頼んだ。神の言葉を示しながらこう言った。「次のことも覚えていなさい。神の言葉は皆さんのものではないということを。それは神のことばなのです。そして教会は神の言葉の庇護者なのだ、ということを」。10人の新司祭が叙階された、教皇フランシスコ司式による、サン・ピエトロ大聖堂でのミサのこのような時間は、つい先ほど終わったばかりである。

 その説教において、教皇は人々の間で選ばれ、神の物事を庇護するために人々の味方となるように立てられたのだという自覚を持ちつつ、喜びと素直な愛徳をもって、自分自身の好みではなく、神を味わいたいとの唯一の強い望みをもって、キリストの祭司のわざを実践するようにと招いた。「役員ではなく、牧者になりなさい。仲買人ではなく、仲介者になりなさい」。

 最後にフランシスコは、その司教との子としての一致のうちに頭であり牧者であるキリストの使命に参加しながら、 聖霊のうちにキリストを通して父である神に人々を導くために、唯一の家族においてその信者たちを一つにすることへの献身をするようにと勧告した。そしていつも自分たちの目の前に仕えられるためではなく仕えるため、失われていたものを救おうと来られたよき牧者の模範を自分たちの目の前で見据えるようにと勧告した。
(CdM – RV)

教皇の説教全文

大好きな兄弟姉妹の皆さん、

 ここにいる兄弟たち、わたしたちの息子たちは司祭叙階のために呼び出されました。
 教会においてどのような奉仕に彼らが上げられるのかを注意深く考え巡らしましょう。皆さんよくご存じのように、主であるイエスが新約の唯一の大祭司なのですが、イエスの中に、祭司の民として立てられた神の聖なる民全体もあります。

 しかしながら、あらゆる弟子たちの中から、主イエスは全ての人々のために司祭の務めをその名において教会の中で公に実践しながら、その師として、祭司として、牧者としての個人的な使命を続けるために特別に数人を選ぼうとしています。

 そのように実際に、そのためにイエスは父によって送られ、同様にして一方イエスは、最初に使徒たちを送り、その後司教たちとその後継者たちを送り出しました。そしてついに、彼らとの司祭職において一致しつつ、神の民への奉仕に呼ばれている司祭たちへの協力者として成り立っているのです。

 大人としての回想と祈りの後で、 今ここにいるわたしたちの兄弟たちを司祭職に上げようとしています。それはキリスト(油注がれた者)、師、司祭、牧者の奉仕の務めのために、神の民かつ聖霊の聖なる神殿としてのキリストの体の建設に協力するためです。

 事実、彼らは最高で永遠の祭司であるキリストと同じ姿に変えられていきます。つまり、新約の本物の司祭として聖別されるということですが、司祭性においてその司教と一つに結ばれるこの肩書をもって、福音の説教者、神の民の牧者となり、祭儀の行為を執行し、特に主のいけにえの祭儀においてこれを司式するようになるのです。

 最愛の兄弟であり息子である、祭司の位階に上げられようとしているあなたたちにあっては、 聖なる教義の奉仕を実践して初めて唯一の師であるキリストの使命に与ることになるということを考慮に入れなさい。喜びをもってあなたたち自身が受けた神のあの言葉をすべての人々に分け与えなさい。皆さんのお母さんやおばあちゃんたち、要理の先生といった、皆さんに神のことばや信仰、この信仰の恵みを与えてくださった方々のことを思い出しなさい。主のことばを熱心に読み、黙想して、信仰において学んだことを教え、教えたことを生きなさい。また、神の言葉はあなたたちの所有財産ではないことを覚えていなさい。み言葉は、神さまの言葉なのです。そして教会が神の言葉の庇護者です。ですから、皆さんの教えが神の民にとって糧となり、キリストに忠実な信者たちの喜びと支え、あなたたちの生活における香水となるようにしなさい。そうすれば皆さんのことばと模範的な行いをもって、あなたたちが神の家、つまり教会を建設することになるのです。みなさんはキリストの聖化のわざを続けることになります。皆さんの奉仕職を通して、信者の霊的な犠牲は完璧になります。というのは、皆さんの手を通して、全教会の名において、聖なる神秘のための祭儀の祭壇の上で血の流されない形で捧げられるキリストのいけにえと信者の霊的な犠牲が一つになるからです。

 ですから、皆さんが一体何をするのかよく認識しなさい。自分が祝うことを模倣しなさい。そうして主の死と復活の神秘に参加しながら、信者たちの中にキリストの死を運び、命のニュースのうちにキリストと共に歩むことができるのです。

 洗礼によってあなたたちは神の民に新しい信者を加えます。ゆるしの秘跡をもってキリストと教会の名において罪をゆるします。キリストと教会の名において今日、あなたたちにお願いします。お願いですから、あわれみ深くなることに疲れを覚えないでください。聖なる油をもって病人や、また高齢者たちに安堵を与えます。高齢者たちに対してやさしく接することを恥ずかしがらないでください。聖なる典礼を祝い、一日の異なる時間に賛美の祈りと願いをささげながら、あなたたちは神の民と全人類の声となります。人々の間から選ばれたことと、神の家々の面倒を見るために人々の望みに応えるようにと立てられたことを自覚しながら、喜びと素直な愛徳をもって、キリストの祭司のわざを実践し、自分たち自身ではなく、ただただ神に好まれるようにとの望みのみをもってこれを行いなさい。公務員ではなく牧者となりなさい。商売の仲買人ではなく仲介者になりなさい。

 そうして、頭であり牧者であるキリストの使命に与りながら、その司教とのことしての一致のうちに、聖霊においてキリストを通して父である神に信者を導くために、たった一つの家族においてその信者たちを一つにすることに献身しなさい。

 いつも自分たちの目の前によき牧者の模範を見据えなさい。仕えられるためではなく仕えるため、失われたものを救うために来られたよき牧者の模範を。
(セシリア・デ・マラクによるイタリア語からの翻訳)

2013年4月20日土曜日

フランシスコ、コレア大統領とエクアドルにおける教会の支援について対話

バチカン4月13日10時00分(ACI/EWTNニュース)

教皇フランシスコと、エクアドル大統領ラファエル・コレア氏との会話

 教皇フランシスコはこの金曜日に、エクアドルの大統領であるラファエル・コレア氏との謁見をし、教会がこの南米国において実現している重要な働きと連帯や社会正義の価値について対話した。

 「心のこもった雰囲気で行われた会話の中で、自国の社会生活の様々な部門においてカトリック教会が貢献していることや、社会の基本的挑戦を前になされる教会と国家間の誠実で永続的な対話の重要性について扱われた」とローマ聖省の会見室は伝えた。

 同様に、その後、「社会正義や連帯と共通善の探求における公的扶助の性質の価値がどれほど中心的であるか」についての会話があった。「最後に、先住民の地域の現状をテーマに、その文化や環境保全について語られた」。

 一方、国際新聞社の情報によると、教皇はエクアドル大統領を抱擁を持って迎えた。「また会えてうれしいですよ。あなたのお母さんはどうしていますか?」とフランシスコは、3月19日の着座式でコレア首相がその母と共に参列したことを思い出して言った。

 個別な会見の後、首相はエクアドルの有権者一行のもとに戻った。これは12名で構成されており、そこには計画発展秘書のファンデル・ファルコニー氏、広報内務秘書のフェルナンド・アルヴァラード氏、教皇庁前エクアドル大使のウリス・ラトッレ氏が見受けられた。

 その後、コレアはフランシスコにエクアドルで作られた麦わら帽、哀しみの聖母の絵の入った額、そして『歩みの星。キト市のバロック風馬小屋の研究のための覚書』という本を贈呈した。その本はエクアドル首都で作られる馬小屋の伝統について書かれたものである。

 情報によれば、教皇職の初めにフランシスコがエクアドル大使のルイス・ラトッレ氏と話したとき、「その」哀しみの聖母について話した。それはエクアドルにおいてイエズス会士の教会で奇跡が起こったことでよく知られている、と。このように表現が原因で、 大統領は教皇にマリアの呼称のある像をプレゼントしたのである。

 一方、教皇はコレア首相にアパレシーダ文書に関する一冊の本と、教皇職のメダルと一つのロザリオを渡した。

 最後に、コレアは国務秘書のタルシシオ・ベルトーネ師のインタビューを受けた。


2013年4月19日金曜日

4月18日朝ミサ説教:神は三位であって、空気中に散布される「スプレーの霧」のようなものではない。


朗読個所 :   使徒言行録9・1-20
           ヨハネ6・52-59:http://blogs.yahoo.co.jp/therese1897/31813590.html?type=folderlist


バチカン4月18日20時2分(ACI/EWTNニュース)


 「神は三位です。スプレーの霧のようにつかみどころのない神ではないのです」と教皇フランシスコは18日木曜日、ローマ聖庁の公安捜査課の警察署の署長たちや重役たちが参加した、バチカンの聖マルタの家の小聖堂での説教において指摘した。

 共同司式には、イタリア国警察機動隊の従属司祭団長であるジュゼッペ・サイア卿がいた。

 教皇は「神と語り合うとは、複数の人格と語り合うことです。父と語り、子と語り、聖霊と語るのです」と表現した。

 ミサの終わりに、イタリア国警察の守護聖人である大天使聖ミカエルに祈りをささげた後、社会に対してささげている奉仕職のことで、そこに参加していた全員に感謝を述べた。

 「これは難しい奉仕職ですね。共通善と共通の平和のための奉仕ですから。危険な奉仕職です。命をかけることもあるでしょう。大天使聖ミカエルに願ったように、正しい者の考え方、強い意志、正直な情感と落ち着きが否応なく求められる奉仕職です。こうした奉仕に努めてくださり、どうもありがとう。主が皆さんすべてを祝福して下さいますように」。

 祭儀には、警視庁副長官のアレッサンドロ・マラニョーニ氏、バチカン上層部とイタリア内務部間における関連事務所長のサルヴァトーレ・フェスタ氏、バチカン公安捜査課長のエンリコ・アヴォラ氏が列席していた。


4月19日、同じミサに関するバチカンニュースからの投稿↓

「神さまは触ることのできない存在や、実際にそれが何だか分からないまま周りに霧のように広まるようなものではありません。神さまは具体的な『人柄のある方』です。父です。ですから、神さまへの信仰と言うのは、生きた出会いから、感覚的な体験から生まれるのです」。昨日の聖マルタの家における通常の朝ミサの中でフランシスコが考えを巡らせたヨハネによる福音書の個所は良心の糾明のよい機会となった。教皇は「『人々は何度、神を信じると述べるでしょう?』『けれどどういうタイプの神を信じているのでしょう?』」と尋ねた。教皇は、ある種の確信のはかなさを前に、本当の信仰の現実を示した。

 「少しずつどこにでもいるようでありながら何ものかも分らないような『散漫な神々』、『スプレーの霧のような神々』を尻目に、わたしたちは父であり、子であり聖霊である神を信じています。わたしたちは人柄のある方々を信じ、神と語る時には、その人格と語るのです。父と語り、子と語り、または聖霊と語るのです。わたしたちの信仰とは、このようなものです」。

 福音の個所で、イエスは「父が引き寄せてくださらなければ」だれもイエスのもとに向かうことはできないと言っている。教皇は、このような言葉は「イエスのもとに来る、イエスと出会う、イエスと知り合いになるというのは賜物」であり、父が下さるものであることを示していると断言する。それは、エチオピアの女王の経済関連の官僚がイエスについて語る使徒フィリポの話を聞きながら、「これはいいニュースだと感じる感覚」を持ち、「喜びに満ち」て、水を見つけるなり洗礼を受けるというところまでいったような、そういうプレゼントなのであると教皇は述べた。

 「信仰のある人は永遠の命を持っています。その人には命があるのです。けれど信仰は賜物であり、わたしたちに信仰を下さるのは父です。この道を続けなければなりません。けれどもしこの道を行くなら、いつもわたしたちにまつわるものごとも付いてきます。なぜならわたしたちは皆罪びとであり、うまくいかないことがいつもいくつかあるからです。けれど主はもしゆるしを願うならわたしたちをゆるし、いつも気落ちすることなく前に進めるようにしてくださるのです。もしその道を行くなら、経済関連の官僚(宦官)に起きたのと同じ出来事がわたしたちにも生じるのです」。

 使徒言行録に描写されている官僚が信仰を見出し、喜びにあふれてさらに道を進んだ時に起こったことと同じことが起こるだろう、と教皇は結びました。

 「それは信仰の歓喜です。イエスに出会うことができたという喜びです。イエスのみがわたしたちにもたらすことのできる喜びです。平和をもたらす喜びです。その平和は世が与えるような平和ではなく、イエスの平和です。これがわたしたちの信仰です。この信仰において、わたしたちを強くし、わたしたちを喜ばせる信仰において、いつもイエスとの出会いと共に始まり、日々のイエスとの小さな出会いのある生活の中で続けられるこの信仰において成長することができるよう主が助けてくださるように願い求めましょう」。

テキサスでの爆発事故の犠牲者たちのために祈ろう

バチカン4月18日10時38分(ACI/EWTNニュース)

写真: 教皇フランシスコのツイッター、オフィシャルサイト @Pontifex

 「お願いですから、わたしと一つになってテキサスでの爆発の犠牲者となった人々とその家族のために祈ってください」とこの木曜日、教皇フランシスコは、そのツイッターのアカウントから信徒たちに訴えかけた。昨日、テキサス(合衆国)の肥料工場で起きた爆発で、15人の死者と160人の負傷者を出した事故についての言及である。

 テキサスの公安省スポークスマンのD.L.ウィルソン氏の情報によれば、ウェスト・ファーティライザーの工場での爆発で100人以上の負傷者を出し、70件ほどの家が破損した。このうち、老人ホームのひとつは崩壊し、家屋のなかに残された人もいるようである。

 スポークスマンはこの悲劇をオクラホマ市のフェデラル・ムラー・ビルを倒壊させて168人の死者を出した1995年の爆弾の爆発と並ぶ悲劇であると比較している。

 今のところ、まだ爆発の原因はつかめていない。

2013年4月18日木曜日

プラサ・デ・マジョ(五月広場、アルゼンチン)の母親たちに向けた手紙

4月18日(バチカンラジオ)

 去る3月21日の「プラサ・デ・マジョの母親たち」からローマ司教に送られた手紙への返事として教皇の名で、外務局次官のアントワーヌ・カミイェリ卿によって署名された手紙が公開された。「教皇は多くの母親たち、家族がアルゼンチンのこの歴史の時点で愛する家族を悲劇的に失ったことで苦しんだ、また苦しんでいることに対してその痛みを共感しており、情愛を持って彼らに特別な祝福を、希望と励ましのしるしとして賜り、同時に自分のために祈り、また他の人にも彼のために祈るように促すことを願っています」と手紙に読むことができる。そこでは世で貧困を根絶やしにするための憂慮と共通善の責任者である人々を照らし効果的、公正で連帯感に満ちた仕方で悲惨さの災難に対抗するようにと嘆願しながらささげる教皇の祈りについても指摘されている。

(CdM-RV)
「プラサ・デ・マジョ(五月広場)の母親たち」への手紙、全文
Apreciada Senora de Bonafini:
Me complace acusar recibo de la atenta carta del pasado 21 de marzo, que Usted ha tenido la bondad de dirigir a Su Santidad Francisco, con ocasión de su elección a la Sede de San Pedro. A este respecto, cumplo gustoso con el encargo de hacerle llegar la gratitud del Santo Padre por su amable escrito, así como por los nobles sentimientos que lo han motivado.
El Papa corresponde a esta delicada atención pidiendo a Dios la fuerza para luchar, desde el ministerio que acaba de asumir, a favor de la erradicación de la pobreza en el mundo, de modo que cese el sufrimiento de tantas personas que pasan necesidad. Su Santidad valora y aprecia mucho a quienes están cerca de los más desfavorecidos y se esfuerzan por ayudarlos, comprenderlos y salir al encuentro de sus justas aspiraciones. En su oración, suplica asimismo que ilumine a los que son responsables del bien común, para que combatan el flagelo de la miseria con medidas eficaces, ecuánimes y solidarias.
Estimada Señora, el Santo Padre comparte su dolor y el de tantas madres y familias que han padecido y padecen la pérdida trágica de sus seres queridos en ese momento de la historia argentina, y con afecto les imparte una particular Bendición, como signo de esperanza y aliento, a la vez que pide el favor de que recen y hagan rezar por él.
Con mis cordiales saludos en Cristo.

Mons. Antoine CamilleriSubsecretario para las Relaciones con los Estados

アルゼンチン司教団に向けて:司牧的回心を真剣に行うように

4月18日(バチカンラジオ)

今はローマ司教であり、つい先日までアルゼンチン司教評議会の議長であった教皇は、第105回総会に集まった愛する兄弟たちに手紙を送り、そこで総会の仕事が『アパレシーダ文書』と『沖へ漕ぎ出せ』文書を関連させるべき枠組みとして捉えるようにとの推奨と願いを表現し、そこにこの歴史の時点のためにわたしたちが必要とする手引きがあると指摘した。

 その親切で落ち着き、直接的かつ深く兄弟愛に満ちた独自のスタイルで、教皇フランシスコは釘をさして「あらゆる司牧活動が宣教を鍵とするように」そして「わたしたち自身を抜け出して存在の中心から外れたあらゆるところに向かって生き、大胆さにおいて成長する」ことの重要性を説いた。

 「外に出て行かない教会は、遅かれ早かれ、その閉ざされた中毒的雰囲気のなかで病気になります。 たしかに、外に出て行く教会には道に出て行くどんな人でも経験するようなことが起こりうるでしょう。つまり、事故に遭う可能性があるでしょう。こうした可能性を前に、皆さんにはっきりと言いたいのは、病気の教会よりも事故にあった教会のほうが数千倍好ましいということです」。と教皇は書き、霊的な世俗性と詭弁的聖職者主義にわたしたちを導き、その後「福音を告げ知らせることの甘美で満足感に満ちた喜び」を経験させまいとするナルシス主義に対して警鐘を鳴らした。

 「イエスが皆さんを祝福し、聖母が皆さんを守ってくださいますように」、とフランシスコは兄弟愛に満ちてアルゼンチンの司教団に、その手紙において望んだ。以下にその全文を掲載する。

(CdM – RV)
教皇フランシスコの第105回アルゼンチン司教総会への手紙

愛する兄弟の皆さん、

 この数行で、挨拶をするとともに、この総会に参列できない言い訳をします。それは「ちょっと前に引き受けたことがあるからです」(聞こえはいいですかね?)(笑)。わたしは霊的に皆さんと共にいて、この日々に皆さんにしっかり寄り添ってくださるよう主に祈っています。

 一つの望みを伝えます。わたしは総会の仕事に『アパレシーダ文書』と『沖へ漕ぎ出せ』文書を関連させるべき枠組みとして捉えられたらよいと思います。そこには歴史のこの時点のためにわたしたちが必要としている手引きがあるからです。特に次の二つの点において大陸的宣教において成長するための配慮をしていただきたいと思います。プログラム的宣教と、パラダイム的宣教です。あらゆる司牧が宣教を鍵とするようにしてください。わたしたち自身を抜け出して存在の中心から外れたあらゆるところに向かって生き、大胆さにおいて成長するべきです。外に出て行かない教会は、遅かれ早かれ、その閉ざされた中毒的雰囲気のなかで病気になります。 たしかに、外に出て行く教会には道に出て行くどんな人でも経験するようなことが起こりうるでしょう。つまり、事故に遭う可能性があるでしょう。こうした可能性を前に、皆さんにはっきりと言いたいのは、病気の教会よりも事故にあった教会のほうが数千倍好ましいということです。自閉的な教会の典型的な病気は、自己指示性です。自分自身だけを見ること。あの福音書に出てくる女性のように、自分自身に背骨を曲げて覆いかぶさることです。これは一種のナルシス主義です。霊的な世俗性と詭弁的聖職者主義にわたしたちを導き、その後「福音を告げ知らせることの甘美で満足感に満ちた喜び」を経験させまいと妨げるのです。

 皆さん全員に、実にしばしば十字架にぴったり離れずにあるけれど、司祭の後悔や悲しみ、独身である故の孤独感からわたしたちを救ってくれるこの喜びがあるように願っています。この喜びはわたしたちを、わたしたち自身を削りながら、神に忠実な聖なる民への奉仕のうちにほぐされながら、日々ますます実りをもたらすものとします。この喜びは教会がわたしたちに望む司牧的回心をまじめに扱えば扱うほど育っていきます。皆さんがしておられること、これからなさることに感謝します。主が、わたしたちの司教評議会を世俗性や金、「マーケットの聖職者主義」という虚飾で化粧をすることから解放してくださいますように。聖母が謙遜の道と、使徒的熱意を前進させる静かで勇気のあるその仕事をわたしたちに教えてくださるでしょう。

 お願いですから、わたしが自分に信頼を置くことなく、自分がしたいことではなく、神が望むことを聞くことを学べるように、どうかわたしのために祈ってください。皆さんのために祈っています。兄弟としての抱擁と、皆さんに任せられている神の民に特別な挨拶をお伝えください。聖なる幸せな復活節をお過ごしください。

 イエスが皆さんを祝福し、聖母が皆さんを守ってくださいますように。兄弟愛のうちに。

フランシスコ、バチカン、2013年3月25日

4月17日朝ミサ:教会はベビーシッターになっていてはならない。(日本の隠れキリシタンの信仰に触れながら)

朗読個所  :  使徒言行録8・26-40
           ヨハネ6・44-51
http://blogs.yahoo.co.jp/therese1897/31808154.html?type=folderlist

バチカン4月17日13時32分(ACI)

写真提供: Facebook/News.va Español
  
 バチカンの従業員と共に聖マルタの家での毎日のミサを捧げるにあたり、今朝教皇フランシスコは、キリスト者たちは洗礼の結果を受けとめ、キリストを告げ知らせなければならない、なぜならこの献身がないならば教会は母であることを放棄することになるからであるということを思い出させた。

  キリストを告げるのを放棄する時「教会は母であることを放棄し、子供が寝るまで見守るだけのベビーシッターになってしまいます。それは教会の潜伏状態です」。だからこそ「わたしたちの洗礼について、わたしたちの洗礼のもたらす応答責任について考えましょう」と説明した。

 教皇は「キリスト者であるということは、キリスト教徒の弁護士や医者になるためにその道の学問を研究することではありません。違います。キリスト者であるということは、イエス・キリストを告げ知らせる聖霊の力をもって前進させる賜物なのです」と思い出させた。

 「わたしたち洗礼を受けた者にとって大きな責任(応答する務め)があります。キリストを告げ知らせること、教会を前に進めることです。この母性は教会において実りをもたらします」と教皇は熱弁した。

 「しばしば、『いや、まぁ、でもわたしはキリスト者ですよ。洗礼を受けたし、堅信もしたし、初聖体もしたし…身分証明書はできているから、もういいでしょう』と考えがちです。では、もうゆっくり眠りなさい、あなたはキリスト者ですから。でも…、あなたを歩みへと導く聖霊の力はどこに行ったのでしょうか?」と問いかけた。

 わたしたちの生き方、わたしたちの証し、そしてわたしたちのことばをもってイエスを告げ知らせるために聖霊に忠実となることが欠けています」。

 教皇は17世紀の日本での迫害の時に、カトリックの宣教師たちが国外追放された時、キリスト者共同体は司祭なしで200年もの間信仰を保ったことを思い出させた。日本に宣教師たちが返り咲いた時、「全共同体がそのいたところにいて、皆洗礼を受けており、皆要理を学んでおり、皆教会で結婚をしていた」のを見出した。そしてそれは「洗礼を受けた人々の努力のおかげでした」。

 最初のキリスト者たちの迫害の間、マリアは「たくさん祈っていた」ことを教皇は思い出させた。そしてマリアは聖ステファノの殉教をはじき出した暴力的な迫害にもかかわらず勇気をもって前進し続けるために洗礼を受けた人々を励ました。

 「これは少し教会の生活スタイルにあります。愛徳の平和と迫害のはざまです」。これはいつの歴史の時点でも起こることであるのは「それがイエスのスタイルだからです」と言った。


 迫害と共に、多くの信者は逃げだし、司祭もなくただ福音の宣言のみのうちに留まった。家を手放し、何も持たず、危機にさらされていたが、各地を転々として歩き回りながら、み言葉を告げ知らせた。

 「彼らは持っていた富を持ち運んだのです。それは信仰という富です。主が彼らに与えた富なのです。けれど、歩き、告げ知らせる勇気がありました。そして皆彼らを信じたのです!奇跡をおこなったのです!」とフランシスコは声を張り上げた。

 「この最初のキリスト者たちには、洗礼の力のみがあり、使徒的勇気、聖霊の力を受けたのですが、このことはわたしたち、洗礼を受けた者のことを考えさせます。そしてこの力がわたしたちにはあるかどうかを自問し、考えます。しかし本当に洗礼さえあれば大丈夫、福音化するために充分である、とわたしたちは信じていますか?」

 「わたしたちの証しと、またわたしたちのことばを通して、わたしたちの生活においてイエス・キリストをのべ伝えるようにといつもわたしたちを励ます洗礼がもたらした、わたしたちのうちにある聖霊に信頼した、勇気ある受洗者となる恵みを主に願い求めましょう」。


4月18日バチカンニュースからの投稿↓

 洗礼の力はキリスト者を、安全性のない場合にも、迫害のさなかでも、キリストを告げ知らせる勇気をも問うようにと後押しする。昨日教皇フランシスコが聖マルタの家でささげた朝ミサの間の説教で確言したことばである。エルサレムの最初のキリスト教共同体と聖ステファノの殉教の後に始まった迫害について語りながら、教皇は「教会のライフスタイルには、少しこう言うところもあります。愛徳の平和と迫害のはざま、というところです。なぜならそれがイエスのスタイルだからです」。

 「家を離れ、自分たちの身の回りのものはほんの少しのものでした。家は安全でした。けれど転々としながらみ言葉を伝えるようになりました。身の回りのものというのは、持っていた富ですが、その富は、信仰のみでした。それは主が彼らに与えた富でした。彼らは簡素で忠実な人たちでした。ほんの一年ほど前に洗礼を受けたばかりの人たちでした。けれど告げ知らせに行くための勇気を持っていました。そして、彼らは信頼に値する人でした!そして奇跡を行いました!」

 最初のキリスト者たちには、ただ洗礼の力のみがあった。それは彼らに使徒としての勇気を与えるものであった。それは聖霊の力であった。フランシスコは洗礼を受けた者としての応答責任を再発見するようにと招いた。

 「わたしたち洗礼を受けた者には大きな責任が課せられています。キリストを告げること、教会を前進させることです。この教会の実りをもたらす母性を推し進めることです。キリスト者であるということは、ある研究コースを終えて、キリスト者弁護士や医者になる、ということではありません。キリスト者であるということは、イエスキリストの宣言において聖霊の力を持ってわたしたちが前進することができるようにする恵みなのです。

教皇庁、新しい教皇切手を公開

バチカン4月17日11時52分(ACI/EWTNニュース)
 
 バチカン市国の切手メダル事務所は教皇フランシスコのその教皇職開始を記念して、教皇に捧げられた最初のスタンプを公開した。

 情報によれば、このスタンプは5月2日に発布され、販売されることになっており、70セントのものと85セントのものになっている。ユーロでは2ユーロのものと2,5ユーロのものである。

 これはベネディクト16世の教皇職を辞退した後の、空位期間の3月1日に切手メダル事務所が印刷して以来の切手である。

Estos sellos siguen a los que imprimió la Oficina Filatélica y Numismática el 1 de marzo con ocasión de la Sede Vacante, tras la renuncia de Benedicto XVI al Pontificado.

教皇フランシスコ、サン・ピエトロの巡礼者と聖職者帽を交換する

バチカン4月17日10時50分(ACI/EWTNニュース)

 古い伝統を守り、今日の一般謁見の前にサン・ピエトロ広場をパパ・モビルで巡回中に、教皇フランシスコは一人の巡礼者が差し出した白い聖職者帽と自らが被っていたものを交換した。



 この仕草は、バチカンテレビ局で広まったビデオの13秒目に見受けられる。謁見の終わりにも、教皇がサン・ピエトロ大聖堂の前庭で信者たちに挨拶をしている間にこれは繰り返され、一人の司祭が白い聖職者帽を届けた。

 古い伝統では、教皇の聖具ショップで白い聖職者帽を買い、教皇謁見の間にこれを提示する場合、スイスの警備員がこれをその時に教皇に持っていき、交換するための任を果たすことになっている。